小説・約束のエイトビート

  約束のエイトビート  作・藤倉崇晃

 彼は歌なんか口ずさみながらそこにいる。
 ――彼の行いが軽蔑に値するかどうかの判断は人によるだろう。

「来た、来た! 青木さん……。今日もお尻が大きいかな?」

 三枝颯太には大切な時間がある。もちろん大切な時間とは、人それぞれ、様々に持っているはずだろう。これは、高校二年生の彼にも選択の自由があるから仕方がない事なのだ。――彼は空手部女子・青木の臀部を眺める。

 ――それを、今ここで嗜んでいる!

 放課後、一際小柄な彼は、昇降口と正門に挟まれた空間が広場のようになっているのをいいことに、そこでいつも武道場から出て来る空手部員達を待ち構えている。

 ちなみに彼は帰宅部だから、要は何処も鍛えてなどいない。
 くどいようだけれど、歌なんか口ずさみながらそこにいる。

「押忍」
「押忍、押忍」

 部員同士のやり取りには必ず押忍という挨拶の声が混じる。その様子を、颯太はただ見ている。彼は、走り込みに向かう道着姿の空手部員達を見守る。

 彼は決して空手に関心があるわけではない。ただ、豪傑揃いの空手家に混じっても頭一つ抜きん出た体躯に強い憧れがある。背が高いというには、あまりにも高い。
――そして、それに比例して臀部が大きい。
――彼が子供の頃に見た母親像と重なるのかもしれない。

 長い黒髪をゴム紐で結んだだけのポニーテール、背中に「青木」と書かれた道着、そして彼女の臀部を、彼はいつもただ見ているだけ。

「ランニングコースを一周すれば、汗ばんで見応えが増す!」
 颯太は満面の笑みを浮かべて、思わず声に出した。彼は周囲を通り過ぎる他の学生の声は気にならない様子だ。

 確かに空手部の青木を性的な目で見て、追っかけのように毎日見物する者がいるとは、誰も思いもよらないのかもしれない。その証拠に、彼は今まで誰からも指摘された事がない!

「でもいいなぁ! 道着姿も素敵だぁ! ……お尻」
 だからと言って、少し人目を憚らなさ過ぎるかもしれない。彼は、彼女の臀部を見ようと必死だ。

 青木の堂々とした立ち姿勢がゆっくりと動き出して、空手部員達はウォームアップのランニングを始める。

 彼女の揺れる臀部を見ようと、颯太は近づいても怪しまれないギリギリのラインに身を置く。
「いいなぁ! 今日も見ることが出来る! おっし! 怪しまれない様に追いかけるぞ!」

 ――この嗜みの起源を辿って時の河を遡れば、昨秋が思い起こされる。
 颯太は、昨年の文化祭で彼女の組手を見た。上段回し蹴り、組んでからの体落とし、――枚挙に暇がない技の数々もそうかもしれないが、それを繰り出す彼女の獣性にすっかり魅せられた。同じクラスになるチャンスは、来年、あと一回だけある。彼は、他の女子には全く関心を示さなかったし、くどいようだけれど闘いが好きだというわけでは断じてなく、それはもう熊のような身体つきに強く惹かれたのだろう。

 ドスンッ……!
 ドスンッ……!
 とミットに打ち込まれる正拳に魅せられたというよりも、むしろその威力に恐れおののく臆病な心を打ち負かして彼女を好きなのだろう。もしも正拳に魅せられたのであれば、自分もその使い手になろうとするのではないだろうか。

 彼は、大胆不敵かもしれないが、同時に小心者でもある。その証拠に、いつも遠くからこっそり見ているのだ。だから彼女の本名を知る際には、かなり無茶をしたといえる。一体どうしたのかというと、彼は意を決して武道場に上がり込んで、顧問の教諭に用があるふりをして、壁にかかっていた「青木」の続きを盗み見た。
 ――理恵という。彼は本当の用事を済ませると、基本稽古の怒声のあがる道場から一目散に退散した。そんな過去がある。

「正拳突きは凄い技だから、青木さんは自分に厳しいのかもしれないな」
 颯太はいつかそう呟いた。
 彼にもそれくらいの共感はあるようだった。彼女は努力家だと。

 颯太は、彼を一瞥もしない青木を見届けながら、いつか交際出来たのならばと思うのかもしれない。けれど彼自身を、これ以上の破廉恥行為へと導かない真っ当な精神を、意外にも、彼は持ち合わせているようだった。

 颯太は、汗ばんだ臀部の割れ目のはっきりするまで、青木を追いかける。
 空手部員達にとってはアップでも、颯太にはほぼ一日分の体力を要しただろう。

 颯太は、見物を済ませると、駐輪場に置いてある自転車に乗って帰宅する。サアッと走り抜けて帰って行く。坂道を下る時も、上る時も、口ずさむのだった、歌を。――君はきっと信じていられる、長い夜を越えて、とかそういう歌を。彼が自作した歌だ。

 彼が受けた音楽教育とは、子どもの頃にピアノを習っていて、中学まで続いた。歌もボイストレーニングに通った事がある程度だ。実際、彼は特段才能があると思い込んで高い目標を堂々と掲げているわけではないけれど、かといって音楽が好きな人で終わるのは嫌な様子だった。

 その証拠に、彼は帰宅すると二階の自室に籠り、創作に没頭する。当時のお年玉と高校の合格祝いのお小遣いを足し合わせて買った作曲用のキーボードを叩き、不意に思いついた歌詞もメモ帳に記録する。――これでは子供の趣味と侮られるかもしれないが、それは些か誤解がある。

 彼は好きな楽曲を、耳で聞いては譜面に打ち込んでパソコン上で再現し、徹底的に研究する集中力もある。音楽アプリで楽曲を聴きながら、主旋律、ギター、ベースなど各楽器の音を聞き分けて、データに起こす事ができる。その繊細な仕事ぶりで、作詞と作曲を続けている。

「このロングトーンがフォールにならない! きっと聴いている人を不安にさせないためだな! 次の同じ歌詞がフォールになるのは意図的に不安を与えるため、かな? 奥が深いぞ!」

 これは彼の持論だ。一小節ごとに歌い手は思いを込めて歌っているし、それは言い換えれば歌い方の取捨選択を繰り返してそうしている、と。――歌えと言われたら、たとえば道化師の様におちゃらけた声で歌い切ったり、少年の様な澄んだ声で歌い切ったり、やろうと思えばどんな歌い方も出来るようでないといけない、と。

 颯太は、誰に習ったわけでもないのに、そんな考え方が頑なだった。
「いつか青木さんが聴いてくれるかと思うと捗るなぁ!」
「歌を聴いてもらいたいかなぁ!」
 ――そんな事を時折呟いた。
 それはまた子供染みた発想かもしれない。

 颯太には聖地があった。彼は毎週金曜日の夕方に浦和駅東口ロータリーに向かう。自転車で三十分の距離だから、そこまで遠くはない。何か楽器か、ポータブルスピーカーなどを持っていくわけでもなく、彼は身一つでそこへ行く。

 人通りの多い場所で、滅多に無いけれど政治家が街頭演説をする事もある。彼にはうってつけの場所なのだろう。――金曜の夕方はいつも楽しそうに自転車を走らせる。

 そして陽が落ちて、会社帰りの商業施設と駅との間に挟まれた空間は、この時間帯はちょっとした音楽祭のように仕上がる事も珍しくない。この日は颯太の他に二組のストリートミュージシャンがいて、ギターを片手に歌っていた。

 商業施設には、流行のアニメ映画の広告がライトアップされている。颯太も、見に行こうかなと思うのだろうか。東京の繁華街とは違い、瀟洒な装いがある浦和という街で、彼は歌う。

 颯太は、他の演奏家達から少しだけ離れた所に陣取って、呼吸を整えると、歌った。――大きな声で堂々と。彼が作詞、作曲をした歌だ。――戦いの果てに理想郷に辿り着く軍団の歌。

 それは少年の夢のような歌だろう。その道中の犠牲を省みず、自分達だけ幸せになろうというエゴのある歌だ。けれど、それは嘘の無い歌なのだろう。道行く人は、一人、また一人と足を止めて、少し聴いて、去って行く。中には立ち止まって、歌が終わるまで聴いている人もいる。彼の方を向いて、ジッと見つめる者は沢山いる。

 颯太が青木を好きなのか? 何を? といえば、くどいようだけれど、あの母熊のような体躯に他ならないから、彼女の事を、要は何も知らない。何か一つでも知り得るきっかけがあればと思いはするのだろうけれど、行動に移さない。――もしかすると創作のエナジーなのかもしれないし、だとしたら既にこれ以上に無い大切な存在になっているのかもしれない。けれど、そんな健全な精神が彼自身を寸での所で破廉恥行為から遠ざけているというのも、不思議な話だ。――聞いていて呆れてしまうだろう。

「どうして一人で歌っているの?」
 颯太は、ある母子に尋ねられた。彼は即座に答える。
「音楽仲間にはまだ興味がないかな」
「ふぅん、変なの!」
 母子はそして去って行く。
 また別の若い男性からも、
「楽器が出来ないから生声って、お前、度胸あるな?」
 とからかわれた。颯太から見たら背が高いから、言い草と相まってたじろいでしまうようだった。やはり根が小心者なのだろう、そうに違いなかった。
 それでもネオンサインと呼ぶにはあまりにも落ち着いた浦和駅東口の電灯に見守られて、颯太は歌う。彼は帰宅する時、他の路上のアーティストらに一礼してから帰る。それがいつもの事だった。

 いつもの事と言えば、夜に寝る時もそうだった。――颯太は、また違った歌を歌う。ベッドの上で寝付けない日、颯太は必ず青木の事を考えている。ただ、ひたすら、青木の顔と尻を思い出しては、それが貼り付いたポルノグラフィティを思い起こす。その心の作用が、とめどなく溢れて、やがて彼はティッシュペーパーを二枚掠め取って、左手で受け止めるのだった。
「理恵ちゃん!」
 本当はそう呼びたいのだろう。
 颯太は廊下でジャージ姿の青木を見た事が何度もある。その際、必ず、臀部を見る。

 颯太は、その割れ目に鼻と口を突っ込む夢を見る――。

 ある日、颯太はそれを同学年の親友・裕也に打ち明けた。
「僕の顔より大きなお尻なんだよ!」
 ――お尻が、すっごく、大きいんだよ!!!
 裕也は、そんな男子事情に共感があったから、それ以来、味方をしてあげられるのだった。

 ある時、裕也はこう言っていた。
「今のところ、変な噂にはなっていないけれど、かえって話し掛けられなくなってないか?」

 裕也は颯太を心配しているから、そんな事を言うのだろう。その他にも、挨拶が大事だとか、向こうからどう思われているか気にしようよとか、言う。

「裕也は気にすんな!」
 そんな時はいつも決まって、颯太は子供染みた口調で返事をする。

 裕也は、二人の関係が健全に進展する事を願っている様子で、
「青木はデカオンナと呼ばれているだけで、人気者ではないよ。颯太は背が低いけれど、見た目は悪くないのだから自信を持てよ。お尻ばかり見ているなよ」
 と助言をする。

 その甲斐も無く、颯太は青木の臀部を観察する日々を送っている。

 ある時、裕也はこうも言っていた。
「進路の事を尋ねてみなよ」

 ――それを颯太は覚えているようだった。

 ――なぜなら、……。

 ――颯太と青木の関係が思わぬ形で進展したのは、その年の冬だった。

 落ち葉の季節もたけなわ、木枯らし吹く頃の休日だ。
 進展と言っても、ようやく会話が開通したのだ。
 それは思いもよらず、電車の中で起きた。日曜日の午後、空いていた大宮行きの電車の中で二人は偶然に出会う。長椅子に腰掛ける颯太と、今、乗って来た青木。彼女は少し間を置きつつも、隣に座る。
「歌の人」
 ただ、その一言だった。
 青木から告げられたのは、認識だった。
「浦和駅で夕方に歌ってるって、皆が知っているよ」
「そうなんだ!」
 颯太の声は明るく、澄んで弾んだ。
 青木はそれを聴いて何を思ったかクスリと鼻を鳴らして、前を向き、顎を上げる
「屋上でも歌ってたね……」
「屋上?」
「学校の……」
「ああ! そうだった! 日課過ぎて、忘れてた!」
 青木はそれを聴いて無言。
 二人して、空いている車内で、しばしの沈黙。
 颯太は話し掛ける。
「……し、進路は? 決めたの?」
「え?」
「進路! 皆、……というか、真面目な人はもう決めるじゃん! 僕は全然まだ」
「あ……、絵……」
 青木は気恥ずかしそうに「絵」と言う。少し困ったような表情で、苦笑いをする。はじめての会話にしては、唐突な颯太の問い。彼女は、日頃、拳のど突き合いをしているからか、この程度の事であれば平気な様子だった。
「美大に行く」
 颯太は、それは、それは、驚いただろう。天と地がひっくり返る思いだったのではないか。猛獣のような青木の体躯に憧れて、はじめて話してみたら「絵が描きたい」と言うのだから。
「東京の芸大は……」
 青木は、そう言いかけて、また少し困った表情をする。ただ、若い女性の優しさの香る様子はあまりなく、年増の女のように苦笑いをする。
「難しいかな」
 と言って、クククッと笑う。
 颯太にはその態度が、不敵なものに見えたのかもしれない。どこか軽くあしらわれるような、彼には、そう感じられたのかもしれない。彼は、しばし呆然として、彼女の笑いを見ていた。
 青木は、またしばらくして彼に話し掛ける。
「オーディション、受けたら?」
「え!」
「歌のオーディション……、そういうの、無いの?」
「探してみる! やる!」
 颯太はまた明るい、素っ頓狂な声で「やる」と言う。大好きな青木から言われて、二つ返事も良い所だろう。
 青木は、遂にアッハッハと笑った。彼女から見て、颯太とは何かが滑稽なのかもしれなかった。彼がしている事を、彼女には全て知られているかのような、嘲弄な感じさえする笑いだ。日頃、鍛えているからだろうか。それにしても不敵過ぎる。自慰行為がばれているのだろうか。――その真意は判然としないし、颯太もそう感じただろう。
「……ランニングの時、よく見かける」
「え?」
「……恥ずかしい」
 青木は、やはり颯太の嗜みに気が付いている様子だ。
 それでも彼女は、またしばらくして彼に話し掛ける。
「……頑張れ。今日、私はレッスンだから」
「絵画の?」
「他に何がある……。美術の予備校だよ……」
「……あの、青木さん」
「なんだ?」
「連絡先、交換させてください……」
「……」
 それからは二人して無言だった。
 颯太は、大宮駅東口の漫画喫茶に用があったけれど、それを言えなかった。何かが気恥ずかしいのだろう。――青木は空手で鍛えて、進路は絵。もしも、そんな彼女と比べて生き方に後れを取っていたとまで感じたうえで、彼自身が何処か体たらくに恥じらいがあるのであれば、それは今後彼女と対等になろうという意思の表れかもしれない。――実際、彼は、電車を降りて、そのお店に直行すると、たまたま貼られていたポスターのバーコードを読み取って応募した。ヴォーカリストとバンドの両方を同時に発掘するレコード会社の企画に、大胆不敵にも応募したのだ。そんなポスターが店にたまたま貼られていたのだから、彼は、何か超越的なものに導かれている予感がしたのかもしれない。

 颯太は、クラウドに保存してあった音源を添付して送信した。先月にレコーディングスタジオをレンタルして録音したものがあって、それが気に入っていたから迷わなかった。今まで、オーディションに応募する勇気がなかったわけではないけれど、何となくきっかけを掴めずにいた。自分の実力に甲、乙をつけられて宣告される事が、怖かったかもしれないけれど、それ以上に自由気ままだったかもしれない。音楽に対しても、青木に対しても自由奔放だった、か。――青木に対して自由奔放だと、青木が聞いても困るだけだろうけれど。

 颯太は、電車での一幕と、その後の経過を、裕也には事細かに説明した。
「裕也が陰で動いていたのかと思った!」
「馬鹿、そんな真似するかよ! 良かったな、運が味方したんだな!」
 裕也は自分の事のように喜んだ。
「颯太! そしたら、また屋上で聴かせてくれよ! 面白いんだよ、颯太の歌声は!」
「いつもそう言うよなぁ」
「書類審査に受かるといいな! ヴォーカルで応募したんだろう? ヴイは多めに採用されるんじゃないのか? 全く見ず知らずの実力あるドラムの人とか、ベースの人とかと組まされて、あれよあれよとデビューしたりしてな!」
 裕也は楽しそうだった。
 颯太は、「デビュー」と聞いて、少し進路の事を思い出した様子だ。
「青木さん、何で絵の道を選んだんだろう?」
 颯太の腑に落ちない気持ちが、裕也には伝わったのだろう、
「意外だよな? 分からないものだよ!」
 と寄り添うような事を言う。裕也は優しい。
 だから颯太は、あまり気にしない事にしたのだろう。それに青木が不敵な笑いをしつつ教えてくれた自分の道を、きちんと歩もうと思ったのかもしれない。

 金曜日の夕方になると、冬でも颯太は浦和駅東口で歌った。
 ただ、そこには一抹の寂しさもあった。

「青木さん、僕がここにいることを知っているのに、会いに来てはくれないね」
 そんな孤独な気持ちにさせられたのだ。かえって、そんな侘しさが押し寄せてくるのだろう。だからかもしれない、この日、彼は昔に流行した悲恋の歌を唄った。皆が知っているであろう歌を、堂々と。――それは好きな歌だったから、きちんと唄えた。その歌の持ち主であるアーティストの真似をしたりもした。

 唄い終わると拍手が起きたから、今度は恋が実る歌も唄った。青木が颯太をどう思っているか、分からないのをいいことに、今度はそこに希望があるかのように唄う。
「上手いね」
「今にテレビ局が来るよ」
 年配の女性からそんな声援もあった。
 颯太は、
「ありがとうございます!」
 と礼儀正しく返事をする。――それは、まあ、いつもそうしているから普通の事だ。ただ、この日は、老婆達の言葉がとても暖かく感じられたのだろう。

 ――なぜなら、……。

 颯太は帰る時、近くの自動販売機でコーヒーを買った。彼は、意外かも知れないけれど、ブラック派だ。作詞、作曲をする時に集中出来るからかもしれない。
 ――青木さんは、なぜ空手をやっているのだろうな?
 ――青木さんの絵を見て見たいな!
 ――青木さんの絵を見たいと言えば、僕の歌を聞いてみたいと言ってくれるかな?
 颯太は、そんな風に悩みつつもすっかり元気になっていた。前向きに関係を進展させようと思う心が九割、あと一割が孤独と言った所だろう。心なしかそんな割合でいる様子だ。

 これから年末になって、やがて正月が来る。書類審査の結果を知らされるのは、その翌週頃だという。今更、武者震いか。箸にも棒にも掛からぬ結果だったらどうしようかと思うと、根こそぎ自尊心を抉られる思いだろう。誰だってそうだから、颯太だってそうだろう。――まあ、この男は案外平気かもしれないけれど。
 颯太は寝付けない夜の過ごし方は少しだけ変わった。
 この日は枕にキスをした。

 年明けの連休前に、三枝家の郵便受けに一通のハガキが届いた。
 颯太は一次審査に呼ばれた。
 東京・池袋に本社がある、動画配信サービスを専門とする会社のオフィスで行われる。――それは知っていたから大丈夫だった。一月末の土曜日に東京に行く。電車で行く事が出来る。
 要は書類審査に合格したのだ。
 一次審査会場には二百人程が集められた。
 控室での待機の様子と、別室での実技の様子とが、それぞれの放送枠で配信されるという。パソコンや携帯端末を持っていれば、誰でも視聴できる。

 やがて審査がはじまり、一人ずつ呼ばれて行く。
 颯太は控室でパイプ椅子に腰掛ける一人、一人の顔を覗き込んだ。――高校二年生は若い方だった。上は三十代もいる様子だったから、颯太はきっと緊張しただろう。実力者特有の佇まいの者ばかりだろう。

 颯太は将来性を大いに期待されていて、要は実力に下駄を履かされてそこに混じっているのだと言えば、身も蓋もない言い方になるかもしれないけれど、実際に審査が始まるとその通りだったようだ。

 実技の部屋には長机に三人の審査員が腰掛けていた。彼らは終始笑顔で、颯太を温かい目で見ている。――高校生なのによく来たね、と、顔に書いてあるようだ。

 颯太は、きっと思い残す事が無いようにと思ったのだ、懸命に唄った。それは、この道を歩んでみろと背中を叩いてくれた青木の事を想って唄ったに違いなかった。――というか、颯太の歌は、彼女に惚れ込んでからは、いつだって彼女の事を想像して唄っていたに違いないのだ。

 一曲を唄い終わると、審査員たちはううんと唸った。
 そして互いに顔を見合わせる。

「ギターだね、声がギターだよ、君は。ギターコーラスだよ。ギターが上手ければ可能性あるかな」

「そういう子を沢山見て来たけれど、本当にギターの才能まであるのはほんの一握りだからね。まだ続けるならギターに賭けてみなさい」

「ヴイが別にいるみたいな唄い方なんだよね。まあ、いろんな人をリスペクトしてる証拠だ。……今回は残念」

 颯太は、
「ありがとうございました!」
 と一礼をして、控室に戻る。
 その僅かな間に、颯太は青木を思い出しただろう。それは様々な感情で混沌としていただろう。

 颯太が携帯端末をチラッと見ると通知が来ていた。

 実は、青木との連絡先交換は、あの電車の中で出来ていた。何故、青木が絵を描くのか、枕にキスした夜に思い切って尋ねたのだ。その返事が今頃来たのだ。

 ――昔から動く物が不意に止まって見えるの。動体視力が良いのだって。写真のように一瞬、一瞬を記憶できるの。

 颯太はきっと驚いただろう。青木にとって、空手をする理由と、絵を描く理由とが同じ根っこで繋がっていた。

 帰りの電車の中で、青木からまたメッセージが来ていた。
「お尻ばっかり見ないでよ、三枝君は……」
「颯太って呼んで! ギターを始める!」
「それは……」
「呼んでよ!」
「ごめん……」

 その翌日の日曜日に、颯太は親に頼み込んで、ギターを買う事と、半年間レッスンに通う事の許しを得る。ただし予算はお年玉と、足りない分は彼のバイト代から出る。彼はアルバイトをしなければならない。――今度はバイト探しのフリーペーパーを沢山入手して、良いと思ったものをハサミで切り抜いた。それはそれとして、せっかくの日曜日だからギターを下見にも行った。

 初心者が長く使い、上達したら買い替える前提であれば、三万円前後の物が良いと、店先で店員がアドバイスをくれた。
 ギターを買うだけならお年玉で足りる為、颯太は、まず買った。そして独学でチューニングを覚えようと、励んだ。耳は良い方だったけれど、それもとても苦心した。

「ギター覚えたら、また路上に立つから、是非、浦和駅に来てね!」
「ギターやるんだ、いいね。聴きに行ってあげるね……」

 颯太のアルバイトは、イベントの設営に決まった。
 いつの間にか、青木に叩かれた背中が、そんな遠くまで歩むエネルギーを受け取っていた。それは厳しい現場で、先輩や社員から怒鳴られる事もあったけれど、一生懸命に取り組んだからか、大目に見て貰える事も多々あった。年配の者もいたからか、颯太は、ギターを習いたいからですとは言わなかった。

 三月の中旬になってバイト代が貯まると、四月から半年間通うスクールを選んだ。

 ――青木さんに聴かせたい!

「えぇっ! じゃあ、三枝君はギターコーラスだねって言われただけで、ギターを習うの?」
「はい! ビッグになって、合体したい女の子がいるからです!」
「いいね! 皆、そんな理由だよね、頑張ろうね!」
 スクールで出会う仲間達にも恵まれて、颯太はギターの腕を磨くのだった。

 ――お尻、ばっかり見て、ごめんなさい!

 ――颯太がギターと共に、浦和駅東口のロータリーに表れたのは、夏の終わりの頃だった。今は受験に向けて、毎日のように実技試験の練習をしている青木に、いつか何を伝えるべきか、悩み抜いて、作詞と作曲をしたソングと共に。

 青木は、来た。
 忙しい合間を縫って、金曜の夕方に浦和駅で途中下車して聴きに来てくれた。
 二人が顔を見合わせると、颯太から「ありがとう」と感謝の意を伝えた。
 ブブパ♪
 ブブパ♪
 ブブブ♪
 パブブ♪
 パブブ♪ パ……♪
 ――正拳♪ 正拳♪ 正拳♪ 正拳♪ シェイク、マイ、ハート♪ ビューティ♪

 「だから、三枝君がいつもこっち見ているのも知っていたよ」

 青木は、自分の才能を活かさない手は無いと思い、元々好きだった絵に賭ける事にしたのだ。たった一度の人生で、好きな事に賭けるなんて幸せだとまで言った。

 ――綺麗だぁ♪ 綺麗だぁ♪
 ズギュゥーン♪

 青木は、颯太から何か得るものがあるのだろうか。彼女は得意な事に打ち込みながらも、様々な事で悩んでいるのだろうか。颯太は、彼女の中で何かヒントになっているのだろうか。
「ドラムも欲しいな! ドラマーを探しに行こうかな!」
「前向きだね……、颯太……、自分に疑問が無い」
「え?」
「自分に疑問が無いね!」
 青木は強い口調になって念を押した。
 颯太はニカッと笑ってから、
「宇宙を手に入れた!」

 青木は、いつぞやの様に、アッハッハ! と笑った。自分のお尻を追いかけて来た男から、「僕の宇宙だ」と言われたのだから、それはさぞかし面白かっただろう。

「ビッグになったら合体しよう! 約束のエイトビートだぁ!」
「なにそれ! ウケる!」
(了)

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