言論の自由と反差別抗議のあり方 ―小林多喜二の文学に見出すスキャンダライスの心得―

小林多喜二の『一九二八年三月十五日』を読んで

 小林多喜二は「法の名のもとに行われる不正に対して、法と正義の両方から異議を申し立てること」を描きましたし、それが骨肉の争いだった時代の話を書きました。
 多喜二は、当時の国家権力による弾圧(言論弾圧)を敵視し、そこに立ち向かう人々を文学作品で描いています。中でも『一九二八年三月十五日』では、治安維持法のもとで検挙される労働運動家たちと、その家族が直面する苦難が描きました。
 この作品には、登場人物たちが警察に対し、憲法や法律の規定を根拠に抗議するシーンがあります。多喜二は、単純に「法律を破ってでも正義を貫け」と訴えているのではなく、むしろ国家権力がその法の建前を踏みにじっている事を痛烈に批判します。

 もちろん、登場人物たちの闘争を無条件に美化する必要はありません。彼らの献身は、連帯の力として読むこともできる一方、家族の生活を犠牲にする危うさや、政治的信念が自己目的化する危険性をも感じさせます。運動家にとっては歴史的な闘争であっても、家族にとっては夫や息子を奪われる恐ろしい出来事なのです。

言論の自由なる舞台

 それでも、彼らの闘争が国家権力によって押しつぶされようとしていた実態は、最大の核心です。多喜二の魂とは、法の建前を不正利用する事へ義憤を叩きつける事、あるいはその義憤そのものです。そして、それを美談にせず、あくまで命がけの闘争であってそれ以上でも以下でもないとすることです。
 さて現代において、政権批判や特定の政治家への批判は検閲を受けずに報道されています。一部のマスメディアが取り上げているだけかもしれません。けれど多喜二の時代のような苛烈な弾圧を受ける事はありません。概ね正当な言論として扱われているでしょう。権力や政治家を批判する行為そのものが、社会の中に用意された舞台の上で行われているようなものです。
 そうです、言論の自由とは、現代日本政府が用意した「舞台」に他ならないのです。
 ジョン・スチュアート・ミルは一八五九年に刊行した『自由論』で、意見や言論の自由がなぜ重要なのかを論じました。
 彼の主張の核心は、たとえ誤った意見であっても、言論を抑圧してはならないということです。

  • 抑圧された意見が正しい可能性がある。抑圧する側が自分の誤りを免れないからです。
  • 誤った意見であっても、正しい意見と対立することで、正しい意見への理解を深められる。
  • 反論を許されずに受け入れられた意見は、根拠を理解しないまま信じられる、単なる「死んだ教条」になりかねない。

 この原理は、今、ヘイトスピーカーによって憎悪表現の根拠にされています。抗議するカウンタースピーチも許されていますけれど、抗議行動を言論の自由なる舞台の上の演舞のように執り行うというのは、――ややもすると多喜二の魂を正しく継承出来ていない。
 権力や政治家を告発するのであれば、その告発が社会の耳目を集めるだけの力を持たなければならないのです。単に正しいことを訴えるだけでは足りず、時には世間を騒がせ、問題をスキャンダラスに演出することさえ必要になるのですね。それは、言論の自由なる舞台を用意して見せたり、その原理に則った正当な活動を偽装したりする、ある種の狡猾さを貫くような、徹底的にスキャンダライスな演出でなければならないのです。
 ――言論の自由は多くの人を傷つけました!
 ――言論の自由が何をして来たか、貴方は何を見て来たのですか?
 ――言論の自由は分かりました! 貴方はそれで一体何をしているのですか? 人を傷つけているではありませんか!

あえてその舞台で舞うこと

 私自身は、障碍者差別をはじめとするあらゆる差別をなくそうとしています。その手段として、フィクションの文芸に取り組んでいます。それは政府が用意した言論の自由なる舞台の上で、誰よりも華麗に舞うことによって、自分自身や、自分と同じような境遇にある人々の存在を知ってもらおうとしているとも言えます。
 ――それには訳があります。
 ――社会的弱者に対する偏見や差別を「情報の足し算」によって解決したいからです。
 平成以降、インターネットやSNSが普及し、人工知能も台頭しました。私達は、かつてないほど大量の情報に接することができるようになりました。ところが、情報が増えたからといって、人々が互いを理解できるようになったとは限らないのです。差別発言の拡散やヘイトクライムの報道を通じて、私たちは社会的弱者の存在を知る現実があります。そして視聴者の大半は彼らを「可哀想な人だ」と憐れむようではあります。
 それは凡そ教育と呼ばれるものが、「もしも見かけたら、正しく憐れむように」と教えるような発想だった事も手伝っています。「彼らは憐憫を貪るしかない」と思っている者は大勢います。障碍者側に教唆する事もその時、その時で大きく揺れます。要は努力しろと言われたり、かと思えば要はありのままでいろと言われたりします。それでも変わらない固定観念があり、「基準とは我ら健常者であり、そこに一定の努力で混じれるかどうかが我らの関心事であると同時に、貴殿らの生命線だ」というものです。そして、混じれない者を社会的弱者と呼び、遠ざけられて来たのです。――いや、地域移行、福祉経営や障碍者雇用などで物理的な接近傾向があるだろうと。けれども、月並みですが心の距離が遠いのです、心で遠ざけられるのですね。その際、憐憫の感情で遠ざけるとは限らないのです。それは上述した差別発言の拡散で排除圧力をかけられたり、ヘイトクライムによって冷酷に排除が行われたりするのです。
 これを情報の引き算で解決する事はとても難しくなりました。理由は前段落の通りです。社会は情報の足し算による相互理解の促進を行うべきなのです。そのために、社会的弱者や被差別者を扱う文芸作品の数が増えることには意味があると考えています。
 なぜなら、憐みの対象、ないしは排除の対象という均一化は「非人間化」なのです。障碍者という単線で囲い、その内部が均一だと思われる事はよく考えたら恐ろしい事なのです。線で囲まれがちな人々が多様であると知ってもらう事、それは、誰かを助け、誰かを殺す為ではないのです。同じ人間だと思ってもらう最大の方法なのです。それは全ての被差別者に言えることです。

多喜二の魂に帰還する

 ただし、文芸作品には社会的弱者を題材にする事、それ自体を糾弾するスキャンダライスな演出があっても構わないと思います。多喜二の魂とは、今まさに、言論の自由なる舞台という建前が不正利用されている事へのアウトレイジであるべきなのです。
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