小説・夜光蛾

  夜光蛾  作・藤倉崇晃

 ある夜の事で御座います。

 空には満月が煌々と輝いて御座います。時折、雲に包まれてはおどろおどろしい光を放っていましたけれど。今、ちょうど雲間から黄色く輝いています。

 貴方は、このような闇夜に家を抜け出して散歩をしています。それは何の気なしの事でしょうね。猫である貴方にとっては、いつもの事です。

 貴方は神社の境内に入って行きます。
 貴方は不思議なものに出くわすと思っているかもしれませんし、思っていないかもしれません。

 神社の境内の石畳の上で、一匹の黒猫が独りでぶらぶらと歩いていました。貴方もぶらぶらと歩いていますね。

 黒猫は貴方を見ます。貴方は駆け寄って、黒猫は匂いを嗅ぎ合います。それはまるで互いに何の変哲もない猫である事を確認し合うかのようです。

 ――仲間だ。
 ――仲間がいた。
 そんな言葉遣いが、まるで互いの間を行き交うようであります。

 そして二匹は大人しく石畳の上で佇んで、時を刻みます。

 貴方は、石畳が社へと続く道の上で、様々な音を聞きます。虫の声が聞こえるかもしれません。やがて貴方は、人間の足音を聞き分けて、そっと身構えます。

 貴方の視線の先に二人の少女が表れます。彼女らは石畳をこつり、こつりと靴を鳴らして歩いてきます。瀟洒な学生服に身を包んだ二人は、大人になる前の雰囲気で、時折、くすくすと笑います。

 貴方は静まり返って、忍び寄るような人影をジッと見つめます。その眼差しには、単なる好奇心だけでなく、異質なものに対する警戒心もあるでしょう。彼女達の小さな、小さなひそひそ話は、もしかすると貴方の鼓膜を搔きむしるものかもしれないのです。

「権現神社は小美ちゃん家♪」
 一人の少女が小声で歌います。

「なぁにそれ?」
「神社の近くに小美濃君の家があるの」
「誰なの?」
「小学生の頃、同じクラスだったの。由香は知らないの?」
「知らないよ。ハイムはいつまでそんな事を覚えているの?」
「クラスの男の子が唄っていたの。権現神社は小美ちゃん家♪ 今も剣道部にいるよ!」

 まだ幼い子供ように、二人はひそひそ話をしながら、こつり、こつりと歩きます。
 ハイムは夜の闇の中を臆面なく歩きます。由香はその足取りを追って、真っ暗な境内へひたひたと歩んで行きます。

 貴方は二人の足元を見て、まだ警戒心をもってして身構えています。
 黒猫は石畳からそっと降りて、少女らに道を譲るようにします。

 黒猫は彼女達に場所を譲る事を、選べたのかもしれません。それは彼女達に対する、ある種の畏敬かもしれません。

 由香が貴方に気が付きます。
「猫がいる。ハイム、猫がいる」
「にゃあお、みゃあお♪」
 ハイムは両手を挙げて、頭の上に乗せて、猫の耳のようなポーズをしてみせます。ケラケラと笑うようで、目が真剣に貴方の気を引こうとしていますね。

 貴方は石畳から降ります。黒猫の傍まで降りて、見張るように二人の足元を見ています。それは警戒心だけではないかもしれません。もしかしたら黒猫が彼女達に抱いたような畏敬を、もしかしたら貴方こそ抱いたからかもしれません。

 ハイムは貴方を追いかけないし、黒猫を捕まえようともしません。

 ――彼女が捕まえたのは、残る一人でした。
 ハイムはくるりと身を翻すと、そっと由香を抱きしめるのです。由香は不意に抱きしめられて、驚いた様子でした。

「ハイム……」
 由香は目を閉じます。
 そっとハイムを抱き返すのです。

 ――貴方は、目を丸くします。

 ハイムはクスクスと笑います。

「お月様が綺麗♪」
 ハイムがそう言って、揺れる髪が肩にかかる時、
 由香は、
「そうだね」
 と言って、微笑みます。

 ――そして、しばらく二人で抱き合っていました。
 それは暗い、暗い夜に神社の境内での事です。

「由香! 同じ高校に行けるように、勉強頑張ろうね!」
「そうだね、頑張ろう、ハイム。明日も塾だね。また塾帰りに、ここに来るの?」

 ハイムは今度は静かな声で言います。
「夜の間しか、私達は抱き合えないでしょ?」
「そうだよね。秘密だものね。……秘密にして置きたい」

 ――二人の行いは徐々に深まっていきます……。

 貴方は、射幸心を駆り立てられたかもしれません。その場で息を飲みましたけれど、心の奥底では奇妙だったかもしれません。

 貴方はそそくさと退散しようとします。すると黒猫はにゃあと鳴きます。貴方は去って行こうとする足を止めて、黒猫を一瞥してから、また二人を見ます。

 ――その刹那、二人は唇を重ねます。

 貴方は由香の瞳に月が写り込んでいたのが見えました。
 貴方はハッとします。
 お月様の声が聞こえた気がしました。
 自分らしくある事が後ろめたいだなんて、それはとても不幸せな事だ、と。
 それは、まぁ、お月様はそう言うでしょうね。お日様に敵わずとも、そうして煌々と輝いていらっしゃいますからね。

 ――目を閉じた二人は時が止まったようにジッとしていました。

 貴方は目を凝らして二人を見ていました。
 やがてそっと通り過ぎる夜風のように、唇と唇が離れます。
 柔らかな呼吸を繰り返しながら、二人は言葉を辞めてしばらくそうしていました。
 月の光に照らされた、それは羽根を開いたり、閉じたりする美しい蝶のようでした。

 ただ、貴方は想像してしまうのでした。
「本当に美しいか?」
 と尋ねる重く氷のように冷たい声を……。
 もしも尋ねられたならば、その残酷さが貴方の目を歪めてしまい、二人はたちまち醜い蛾のような姿になって、貴方の目に映るでしょう。

 貴方はまた黒猫を見ます。黒猫は、まるでその場に溶け込むかのように静かに二人を見つめています。その眼差しに、貴方は「ただ見守ること」の尊さを教えられたかのように感じました。
 貴方は、その為に何を思っていればいいか、考えるでしょう。その瞬間、黒猫の両目は貴方を捉えて、ただそれでいいのだと念を押すのです。

 ――どうしたら見守っていられるか、その術を考えるだけ、考えて、考えたままでいろ、と。

 やがて少し強く風が吹き、貴方は貴方の顔の形を知りました。
 貴方は、最後にその場を後にする時、彼女たちの抱擁が、夜空に煌々と輝く月とは全く異なる、暴かれざるべき存在であるかのように思えたのです。そして、もしも夜の闇に紛れてまた二人に出会った時には、そっと溶けていようと思うのです。
 貴方は、願わくば月の光に照らされる事も無いようにと念じたのでした。
(了)

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