ベルセルク 作・藤倉崇晃
藤田は仕事場に着くと、まず声を上げて職員を呼ぶ。
「あああ! 松岡さん! 今月から勤怠は電子化されたのですかあああ!」
昨日まで分厚いバインダーが二つ置いてあった場所に、タブレット端末が一つ置いてある。今まで手書きで記録していたものがタッチパネルになったのだ。
――それは、まぁ、その方が便利だからそうしたのだろうと、誰しもが察しがつくはずだ。
松岡とは、ここの女性職員だ。藤田が働きだす前から、ここで通所者の手助けをしている。ここは仕事場とはいったものの、「一定就労」とか「作業所」とか呼ばれている。
幸せか、不幸せかで言えば、要はハンディキャップを持つ不幸せな人達の為の居場所だ。精神的に何かを抱えている者が多いかもしれなかった。
――どちらかと言えば世間から遠ざけられ……。
――どちらかと言えば日が当たらない……。
「そうです! 藤田さん、自分の名前をピッと押しちゃってください!」
「……はい、分かりましたよ」
ピッ……!
藤田は、週四日午前のみ働いている。一か月の給与は「工賃」と呼ばれ、八千円程度になる。
藤田は、ホワイトボードの掲示を確認すると、
「七番……、七番……」
と言って、この日、自分が作業する机へと向かう。
――そして、作業は午前十時に始まる。
藤田は、日頃から真面目に作業する通所者だ。この日はシャープペンシルの組み立てをする。時給数百円で請け負う者がいるおかげで店頭に並ぶ商品は、他にもある。
カチャリ カチャリ
と音を立てて、丁寧に組み立てる。
その際、藤田は一切喋らない。
向かいの席には横山という女性の通所者が座っていて、藤田と同様に黙々と作業している。
くどいようだけれど、ここに通う者には何らかのハンディキャップがある。精神的な病理のある者は、時間の問題で知的なハンディキャップを併発する場合がある。
――藤田はこの日、ある事に気がつく。
――横山の眼鏡が曇りガラスになっていた。それも右目だけ。それがどうも鼻息か、何かで今一時そうなっている訳ではない様なのだ。まるで彼女の右目を隠すように。
なぜ曇りガラスなのか? 藤田は気になって仕方がなかった。気になるとついジロジロと見てしまう。彼は集中力はあるものの、何かに注意が移ると一気に散漫になる傾向があるようだった。
横山は黙々と作業していたけれど、不意にそんな彼に気が付いた様子で、
「……あの、……よろしくお願いします」
とお辞儀をする。
作業ならとっくに始まっていて、既に二十分程が経つから、今更挨拶というのも不思議かもしれない。
――まあ、彼女にして見れば急にジロジロと見られたのだ。何かこう、反応を示したのだろう。
藤田は「横山さん、右目が曇りガラスですね? それ、どうしたんですか?」とか言わない。彼はこう思うのだろう、きっと彼女のハンディキャップに由来してそのような眼鏡を着用しているのだ、と。
――そうやって率直に物を尋ねない事が正しいと思うのならば、彼自身がそう思っていれば良い事だろう。
「……あの、……よろしくお願いします」
彼女は、返事をしない藤田に再度、全く同じ挨拶をする。
実際、気が散るだろうし、彼女なりの対処法なのかもしれなかった。そして自分は真面目に作業に取り組んでいたい、と。もしかすると藤田が不可思議で、幾ばくかの恐れもあるかもしれない。
「はい。……そうですね」
藤田は相槌を打つ。
彼は、要は右目を使う事ができないのだと結論付けただろうし、そんな横山が憐れでならないとも思うだろう。ただ、不気味だなとも思ったかもしれない。
藤田はてきぱきと手を動かした。まるでその一幕から心の距離を取るように。だとしたら、それは横山も同じだった。彼女は下を向いて、また黙々と作業をする。
――ただ、藤田には予想外だったかもしれない。
――それは、まず、この日の退勤時の事だった。
帰り際に松岡に尋ねられたのだ。
「横山さんの顔がどうかしたの?」
松岡は職員らしく、それでいて明るく話しかける。
決して、厳しく問い詰める口調ではない。
藤田は少し躊躇いつつ、答える。
「……いや、……ベヘリットみたいだなって」
「ベヘリット?」
「……はい。……帰ります」
「待って、ベヘリットって?」
「アニメのキャラクターです」
「そっか! アニメのキャラクターに似ていたんだね!」
松岡は納得したように笑う。
藤田はそそくさと帰る。いつも作業が終わると、思い残す事が無いかのように、さっさと帰宅する。
――しかし、これで終わりとはいかなかった。
――その翌日だった。また同じ作業台に割り当てられた藤田と横山は、黙々と作業をしていたものの、藤田の方が、昨日松岡に言った言葉を思い出したのだろう、クスクスと勝手に笑い出した。きっと横山の顔がベヘリットに見えるというのは、言うに事を欠いて、我ながら傑作だったのだろう。
すると横山に尋ねられた。
「あのぅ……、べ……、ベヘリット……てなぁに?」
藤田はギクっとしただろう。そんな風に笑える顔だと言った事を、松岡が恐らく調べもせずに横山に伝えていたのだから。
「……僕は、ベルセルクとしか言っていない」
「ベルセルク?」
「そう」
藤田は、松岡に罪をなすりつけようとしたし、意味が分からないならそれに越したことはないはずなのに、ぼんやりとする横山にまるで業を煮やしたように、顔をしかめる。それは、話が噛み合わない事に対する、稚拙な憤りとみて間違いない。
ただ藤田は、またしばらくすると心が落ち着きを取り戻したように、てきぱきと手を動かした。まるでその一幕から心の距離を取るように。それは横山も同じかもしれなかった。
――そして、しばらくして……、
藤田は、
「……ごめんなさい」
とだけ謝った。
藤田は黙々と作業する自分と横山とを重ねる日もあるだろう、要は頑張ろうと、やる気の出ない日は向かいに座る人を見習おうと。
しばらくすると、今度は横山がクスクスと笑い出し、藤田がその意味をわからない様子だった。ただ、その笑いは彼への許しのようだった。
まあ、ここにいる人達は互いに奇妙に見えるかもしれない。
それが作業によって結ばれている。
(了)

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