小説・陽だまりの丘

  陽だまりの丘  作・藤倉崇晃

「アメフト部に行くんだよね?」
 航太はポンと叩かれた。その肩から伝わって来る感触はどうだろう。彼の手は見るからにアメフト部の先輩だった。太い腕、強そうな肉体で、嬉しそうにニカッ笑う。
「……いえ、帰る所です」
「新入生だろう? 背が高いね! 何センチあるの?」
「百八十六センチメートルです」
 航太も一切物怖じせずに、この人物に言い返す。高校に入学したての航太は、入る部活動を決めていない。……というかあまり部活動に関心がない様子だ。入学三日目なのに、体験入部に足を運んだことが一度もない。幸か不幸か、そこから裏門まであと百メートルもない位置で声をかけられた。
 桜、舞い散る季節にありがちな光景か。

 ただ先輩が目を付けたのも無理はない。
 航太も、航太で、脚が妙な形に膨らんでいる。
「下腿の筋肉がいいな! アメフトを知っているかい?」
「……楕円球でやるスポーツですよね?」
「そう! 詳しいね! 名前は?」
「入谷航太です。タックルとか激しい感じですか?」
「まあね! 男のスポーツだね! 入谷君はスポーツ経験はあるの?」
「……球技じゃないです」
 航太は愛想笑いもしないで上級生と口をきく。……かと言って彼が鬱陶しい様子もない。親近感があるのかもしれない。先輩も相当な大柄だ。
 先輩は、
「ほら!」
 と言って、
 ポン、と……、航太に楕円球を手渡す。
「俺は部長の猪口だ! これが試合で使うボールだ!」
 航太は、突然手渡されたボールを手にして、まじまじと見つめる。何か、数千年の時を経てこの瞬間にやって来たかのように。航太は深く考え込んだ様子だ。まあ、誰もが一度はテレビ等で目にするボールだ。それで直感的に屈強な男達をイメージする人も多いから、航太も例外なくそんな引力に惹かれつつあるのかもしれなかった。
「男のスポーツですか……」
「投げて見るか?」
 それは航太の謎の心境を察したというよりも、むしろ猪口は、さては、いつもこの手口なのかもしれなかった。もしも何の変哲もなく生きていれば、誰も一度も投げた事がないはずのアメフトのボールで、キャッチボールをしないかと誘う。
「構わないっすよ……」
 航太は、挑まれたと感じたのかもしれない。相手を上級生だと、あまり思っていない口のききかたかもしれない。けれど猪口は、全く気にする様子がなく、一歩、もう一歩と後ろに下がる。
 航太は学生服姿のまま、ボールを投げる。
 シュパッと音がして、ボールが飛んでいく。
 取る側は素手でキャッチをする。
 そんな事を二人して繰り返す。
 幾分、離れた距離で。
「……入谷は、結局、何をやっていた?」
「……どうしてですか?」
「ジャッグルしないね!」
「ジャッグルって、お手玉ですか?」
「そう!」
「ブラジリアン柔術です。今はもう習っていません」
 航太はフッと息を吐いて、そう答える。
 その態度は何処か不敵だった。
 航太の投げたボールが猪口の手に収まる。
「そっか。……今日は見て行ってくれ」
「構わないっすよ……」
 航太は、親の勧めでブラジリアン柔術を習い始めて、正味六年間、経験した。大会に出た事は一度もなかった。――それには理由があった。
 航太は物思いに耽るついでに、校庭の桜を見た。
 あと一週間もすれば、青々としてくるであろうものを。
 時を遡れば約三年。
 ――航太が、まだ同級生と比較しても小柄だった頃だ。
 ――本当に危ない奴には手も足も出ませんでした。
 この言葉を、中学一年生の頃、要は喧嘩で負けた航太は師範に伝えた。そして航太はこの言葉を二回、口にした事がある。二回目は誰の前でも無く、ただ一人で呟いた。それは中学三年生の時だ。そして航太はブラジリアン柔術を辞めた。

「背はいつ伸びたんだ?」
 猪口は、遠慮なく航太にそういった事を尋ねる。大柄な男子生徒に特有の横柄さだと言うのは、些か誤解があるようだ。彼は、恐らくスポーツマンとしての自負心があるのだろう。きっと、そういうタイプだ。
「中学で伸びました」
 航太もはっきりと答える。
「背が高いし、ジャッグルしないから司令塔かパスキャッチのレシーバーだな。楽しいぞ」
「はぁ……、考えときます」
「強い男のスポーツだからな! 絶対やれ!」
「強い……」
 航太は、時折考え込んでいた。強い男とか、強いとか、言われて悩む。それが、何か糞が詰まったかのような怪訝そうな表情で、自分を問い詰めては、思い詰めているようだ。間違ってもアメフトのように激しくぶつかり合うスポーツが怖いわけではないのだろう。
「強くなろうとしてもキリがないっすよ……」
 もしかすると、「お前は強い」と宣告される事にシラケがあるのかもしれなかった。航太とは、何処となくそういうアパシーのある男だ。
 言われた猪口は、
「……どうした?」
 と尋ねる。
「結局、破壊っていうか……、怖いわけじゃないんですけれどね……」
「否定はしない!」
 猪口は間髪入れずに、航太の答えに自分の答えを重ねた。
「相手より強いってイイもんですか?」
「……すげぇ、悩んでんな?」
「……はぁ」
 猪口は深く問い詰めなかった。アメフトがやりたいのならば「誰でも歓迎する」と言う。
 航太はそれを聞いて、
「誰でもっすか?」
 と疑るように尋ねる。
「ブラジリアン柔術で何があったか知らないが、一度フィールドに出れば考える事は一つだ」
 この日の猪口の接し方は、航太には大きな問いかけになったのかもしれない。猪口のような男を、航太は、柔術道場を含めて、見た事がほとんど無かっただろう。
 航太は、部室小屋に案内されると、
「設備が凄いっすね……」
「ルール教えてくれて、ありがとうございます……」
 そんな言葉を先輩達に話した。
 
 航太はアメフト部の見学を終えると、猪口に礼をして帰った。部活自体は結構な強豪で、シークン地区三位とか、そういうレベルだ。
「面白そうっすね……」
 部員はそれなりにいたし、素人目に見ても動きは速くて、正確だったろうに。
「見込みがあるから入れ!」
 と、猪口は言う。
 航太は、すっかりおだてられて、もしかするとアメフト部に入る気になったかもしれないけれど、心に何かが引っかかる様子で、その場で入部届は書かなかった。他に入りたい部活があるわけではないだろうに。
「強くなれますか?」
「おう!」
「強いって何ですか?」
「考える事は一つだと言っただろう!」
 航太は、さも口先で「わかりました」と言うと、帰って行く。
 猪口は、不思議な奴だと思ったかもしれない。

 ――帰り道で、航太は不意に携帯端末を開く。
 ――通知が来ていた。
「航太はバスケ部に入らないの? カッコいいよ!」
 彼を取り巻く周囲には一人、頻りに絡んでくる女子がいた。それは同じクラスの木立美由という。声をかけられるのは日頃教室で対面した時もそうだし、携帯端末を媒介してもそうだった。航太にとっては、始業式の日に、その場の勢いで連絡策交換をした大勢の同級生の中の一人が彼女だっただけ。あれから二日経って、連絡をよこすのは彼女だけ。
「うるさい」
 航太は、この馴れ馴れしい美由を粗野にしたし、邪険にもした。航太は、彼女の奇抜なヘアースタイルが苦手な様だった。実際、彼はいつも目を逸らす。――ギャル、といわれる系統の人物なのだ。
「カノジョいるの? いるなら言って下さいね?」
 これはつまり、交際相手がいるのであれば、はっきりそう言えとの事だ。恐らく、もしもいるのならば、もう話しかけないという意味かもしれなかった。暇潰しの相方が欲しいだけなのだろうと、誰しもが想像つくだろう。
「いない」
 航太もまた馬鹿正直に返事をする。――まあ、嘘はつかない方が良い、そう思うのかもしれない。ただ、何か馬鹿にしたような感覚であえて正直に告げている部分もあるかもしれない。
「見た目とか、背が高いからじゃないんだけど。強そうじゃん、航太。ねぇデートしようよ!」
 ――航太は、ここでまた「強い」という概念にぶち当たるのだった。まぁ、美由なんかの言う事を真に受けたならばの話だけれど。ただ、どうしても彼の思考回路はこの軌道を描くようだった。
「強そうか?」
「気づいてないの?」
「はぁ?」
「不良でもやってた?」
 この問いには航太はギクッとしただろう。ギクッとせざるを得ない過去があるのだから。
「入谷君」
「入谷君」
「いいよ、入谷君」
「……入谷君、大丈夫」
 思い起こせばこの三日間、うわべをなぞるようなクラスメイト達の言葉が、確かに航太を畏怖していたかもしれない。航太はただでさえ背が高く、寡黙なのだ。――それか、もう「あの過去」が雰囲気に出てしまっているのかもしれない。
「皆、ビビってるよ?」
 美由は率直にそう伝えた。
 そんな一幕が航太の心を傷つけたわけでは断じてないのだろうけれど。
 ――航太は結局、アメフト部の事も、美由の事も、特に進展させる気は無さそうだった。

 高校には、……航太はそれなりに勉強して入った。
 高校くらいは出ておきなさいとか、そんな典型的な親子の会話に支えられて、なんとか自分の力で合格した。
 所謂、青春というものには関心が無さそうな、航太だった。
 夜遊びは、訳があって、要は飽きていたから真っすぐ帰宅する。

 ――ただそれは突然の事だった。
 帰宅してなんとなく音楽を聞いていた航太は、「とある彼」に呼び出された。
「高校入学おめでとう」
 そんな気の利いたメッセージと共に、
「今夜十時、闘技場で会いたい」
 と送られてきた。
 ――闘技場とは?
 ただ、この言葉を航太はよく知っていた。
 闘技場とは、要は高架下だ。時折、電車がゴオッと通過するとけたたましい音が響く。
 そこで何度となく不良同士が喧嘩をした。――それは「あの時」に始まった航太の中学時代そのものだった。あの時、「彼女」は、「彼」の私兵として雇われる所だった。「彼」は、空手も柔術も習っていないのに、やたら図体が大きく、喧嘩という喧嘩が滅法強かった。
 ――「彼」の名は大田という。
 ――「彼女」の名は……。
 それは中学一年生の春に遡る。
 航太は身体を鍛えようと思って、陸上部に入部した。
 ――くどいようだけれど、航太の背はまだ低く、同級生と比較しても小柄だった。
 ――チビと呼ばれる事はなかったけれど。特段、強そうな人物では全く無かった。
 ロードワークで走らされる新入生達に混じって、「彼女」は一切バテない身体能力と女子だてらに高い身長で早くも抜きん出た存在だった。
 名は、瞳という。
「おら、お前ら、くたばってんじゃねぇ!」
 彼女の威勢の良さに、大半の男子が恐れをなしていた。彼女は「最強空手女」などと陰口を叩かれて、恐れられていた。
「情けない奴らだ!」
 その声は時に甲高く、長い髪をゴム紐で縛ったポニーテールがよく似合う子だった。
 
 ――それもまた四月の頃だったから、毎年今頃になると思い出すかもしれない。
 ある日、瞳から話しかけられた。
「入谷君は柔術を習っているの?」
「え?」
 それは突然の事だったから、さぞかし驚いただろう。
「男子達が言ってたよ? 入谷君の事、格闘家だって」
 航太は、意味が理解出来ると、たちまち饒舌になった。
「そうだよ! 柔道部と悩んだけれど、走りたかったから陸上部にしたよ! まだまだ、だけどね」
「私も走りたかったの! 空手もまだ習っているけれどね!」
 彼女はそう言って、長い脚で上段回し蹴りを見せてくれた。
 カンフー映画とは違って、ゆっくりと動く蹴り足が、I字のように開く。足の甲が天井に突き刺さるかのような、美しい動作だった。
 凛とした表情で見せてくれた、空手という武道の技を、
 ――まるで時が止まったような……、
 航太は、あっという間に瞳を好きになった。荒い気性も、彼女が熟達した技の持ち主だと思うと、かえって惹かれた。綺麗だとさえ思った。彼女は、聞けば小学生の頃に極真空手の世界チャンピオンだったそうだ。だから、最強空手女とはその事だった。――航太は、間違いなく今も覚えているはずだ。瞳は確かに威勢の良い子だったけれど、武芸を極める事に熱心なだけで、それを喧嘩の道具にしようなどと一切思っていなかった、と。それだけは間違いなかった、と。
 ――だから瞳には、不条理な事だった。
 瞳は、当時二年生だてらに不良の親玉だった大田の手下になる。大田は彼女の空手の腕に目を付け、自分の下につけ、道具にしようと果し合いを挑んだ。負けたら俺の手下になれ、と。
 瞳は、正拳も掌底もお見舞いしてやった。
「危ない奴が怖くて何が空手だよなぁ!」
 と叫び散らかして、勇猛果敢に。
 大田は、何発か殴られた。
 顎に被弾した揚げ突きが痛々しかった。
 血が出た、――あれを「顎が割れた」と表現する者も中にはいるだろう。
 それでも大田は、彼女の背中を掴む事に成功すると、すかさず後頭部を掴んで押さえ込んだ。間髪入れずに膝蹴りをすると、瞳の顎を捉えたのだった。そして一つ深呼吸をしてから、そのままコンクリートの地面に組み伏せて、屈服させた。――女の子にやる事ではない。まあ、その気になれば、その体勢から、さらにいくらでも危ない目に遭わせられるから、瞳も負けを認めたのだろう。立ち技系格闘技の試合イメージだと意味が分からないかもしれないが、首の裏側と後頭部では捕まった時が全く違う、そして後者は反則技。瞳がタックル技を持っていれば、まだ分からなかったかもしれなかった。
「手下になれ!」
 大田は、瞳の顎を割り返して、そう叫ぶ。
 不良達がオオオッとどよめく。

 ――待て! 待ってくれ!
 その場にいた航太は、
「僕が勝ったら、瞳を許してくれ!」
 と言って、直ぐに大田に果し合いを挑んだ。
 瞳は、そんな航太を真っすぐ見て、何かを思った様子だった。もしかすると、危ないから止めろと言いたかったのかもしれないし、不良との口約束なんて後で反故にすればいいだけの話だと言いたかったのかもしれなかった。

「いいぜ? お前とも遊んでやる!」
 大田は余裕の表情で、更なる果し合いを受ける。なんだってそんな悪さがしたいのかは、彼にしか分からない。ただ、悪さという感覚が無いのかもしれなかった。
 もちろん航太は、決死の覚悟で挑んだ。大田のヤクザのような前蹴りを躱し、ヒールホールドをかけようとすると、反対の足が飛んで来た。地面がコンクリートだった事が、双方にとってストレスだったけれど、航太は大田の馬鹿力を見た後だったから、柔術の組み技を何処か躊躇った。
 あの日、航太は大田との決闘に惨敗した。体格差を言い訳にしたくないだろうけれど、大人と子供ほどの差があって、結局、柔術など一切役に立たなかった。あるいは、当時の彼の腕前ではそのような結果になったと言える。――航太は滅茶苦茶に土足で踏まれた、腹や胸をドカドカと。瞳は最後、まるで惨敗した航太を慮るように、大田に服従してしまった。
「もうやめろ! 私は手下になるから!」
 瞳がそう叫んで、終わった。きっと悔しかっただろう。失望したように俯くと、首を左右に振った。
 航太は、血反吐を吐きながら、大田に頼む。
「……僕も、……仲間にしてください、瞳は友達です。瞳と一緒に!」
 航太は、もしも端で見ていればさぞかし情けないだろう。彼女を負けて守れなかったうえ、自分も不良の仲間に入るなど、言い出したのだから。それは、もしかすると瞳が今後どんな目に遭うか分からないという洞察があったのかもしれなかった。だとしたら、その時は今度こそ守るとでも?
「お前は駄目だ、弱すぎる」
 大田は一度、断る。
「じゃあ……、じゃあ、瞳の家来にしてください……」
 航太は深々と頭を下げてお願いをした。もちろん、その場にいた不良達に散々笑いものにされた。それはもう凄まじい笑い声だった。ゲラゲラといつまでも笑われた。「本当に危ない奴には手も足も出ませんでした」とは、この事だ。――ただ、もしかすると航太は、今また大田に会って、思っているのかもしれない。思い起こせばあの瞬間、大田だけは笑わなかったな、と。
 大田は、不思議な熱意に胸を打たれて航太を仲間にした。
 それからは、日を追うごとに、航太も不良にかぶれていく。
 立ち方……、
 歩き方……、
 そして笑わなくなった。
 不良は品の無い笑いも芸のうちだけれど、航太はほとんど笑わなかった。何も面白くないのかもしれなかった、生き残るためにやっている事かもしれなかった。
 ――航太が闘技場に着くと、かつての親玉である大田がいた。
 ――彼は航太を信用し切ってボサッと立っていた。
「よっ!」
 と、大田は気さくに挨拶をする。

「また背が伸びたんだな? もう俺よりデカいじゃねぇか……」
 大田は右手をグーにして、航太の腹に軽く当てる。
 それがドスンという重みになって、航太に伝わるようだった。
「はい……、どうもご無沙汰してます……。今日はどうしたんですか?」
「高校を辞める」
「……は?」
「沖縄に行く。やってみたい事が見つかった」
 大田はそう言って、嬉しそうな顔をする。ヘラヘラと笑う。中学時代の悪童たる姿が、心なしか無くなったような、まるでありふれた青年のような仕草。
「だから航太には瞳の件、最後に詫びようと思う」
「……はい」
「瞳は俺のせいで……」
「はい」
「なんだ、航太、はい、しか言わねぇな。やっぱ俺を絞め殺したいのか?」
「いいえ……、ご決断おめでとうございます」
 闘技場の砂と砂利が、幾度となく馬鹿共の血を吸った後だ。
 航太は軽い冗談のつもりで、あの当時を真似た。腸が煮えくり返る事は、無い様子だ。
 ――あの当時とは……、
 ――背が伸びて、喧嘩慣れもした航太は、二年生に上がると瞳と同じ私兵の扱いを受けていた。砂地をいい事に、航太は強かった。実際、この闘技場で何人も絞め落したし、肩関節や股関節を外した事もあった。
「航太、強いな!」
「航太、いいぞ! もっとやれ!」
「もう家来じゃねぇぞう!」

「瞳もやれ! もっとやれ!」
「今日の獲物は罪人だ! 女の敵だぞ! 瞳が殺してやれ!」
 瞳の上段突きは、一撃で相手の歯を抉るようになった。
 喧嘩に混じった当初こそ、構えていない相手への攻撃を躊躇っていたが、そんなのは一日、二日で克服した。まるで、そんな血に飢えた戦場を心の何処かで彼女が望んでいたかのような、そんな錯視を覚えるくらい、端から見る分には、彼女は闘技場にのめり込んで行く。
 特に、掴まれたり、組んでからが強くなった。
 彼女も技もまた、野試合を繰り返して練られて行く。ただ、元々は空手家だ。時折、浮かない顔をする事もあった。航太が、後から後から不良という身分に浸って行くのを見て、何か思う所があったかもしれなかった。自分達はもうとっくに不良だと。けれど彼女は足抜けをしようと、しなかった。
 航太は、瞳に幾らか柔術の技を教えてやった。
「航太、こんなの空手の稽古だと思えばどうということはない」
「やっぱり嫌か?」
「嫌ではない」
「どうしてだ?」
「どうせ、馬鹿臭い不良共だ」
 瞳は、航太にはそう言って打ち明けていた。自分のやっている事は、心の中で「成敗」だと思っているようだった。
 ただ、そんな子供染みた着想で、彼女の境遇はとても残酷な事でもあった。
「いつか道場に戻りたい。その為の修業だと思っているよ。……そうだ、倒した奴らも、きっと修業がしたくて不良なんだろう。鍛えてやってるのさ」
 航太とは、そこが違った。
「瞳は真面目だな。こんなのは犬か何かだと思えば、いくらでも正しいと思える」
「犬じゃない」
「……」
「人だと思ってやれ。アイツらは修業がしたいけど、馬鹿だから道場に来ない」
「それがまさに犬だろう」
 それで何故、航太は、「本当に危ない奴には手も足も出ませんでした」と二回目を言うハメになったかというと、要は刺されたのだ。
 ――航太ではなく、瞳が。
 瞳は、この高架下で不良に刺された。ドスッと音がした日を、航太は忘れもしないだろう。
 大田も、航太も無頓着だったかもしれない。普通、男であれば、女なんかに負けたくない。
 ――彼女は死にはしなかった。
 ――ただ事件をきっかけに遠方に引っ越した。
 ――それはとても呆気なかった。
「強くなる航太を見て、自分が正しいと思っていた」
 それが瞳の最後の言葉だった。
 この高架下は事件現場になった。彼女が刺された後、警察の調べもあり、航太は柔術の道場を辞めた。航太らは、彼女の親からは特に何も言われなかった。立ち返って見れば、航太は、瞳を不良にしたし、遂には重傷者にした。ただ今更、大田を絞め落とすことでそれらが回復するとも到底思えないだろう。回復などしないし。
「だよな? 俺は沖縄に行くぜ!」
 大田はそう言って、乾いた声で笑う。
 彼は、本当に何もかも平気なのだろう、付ける薬のない馬鹿なのかもしれないし、前向きにいつも雑誌を買う青年なのかもしれない。

「……」
 航太の顔に笑みは無く、ただそれだけの為に呼び出した大田をジッと見ていた。それは航太が、心の奥底で大勢の者を見下しているかのような態度だった。これが、要は航太だ。不良相手とはいえ、人の形のしたものを馬鹿に仕切っていなければ破壊など出来ない。いや、出来っこない。――そして人間、やった事は裏切らない。やった事のほうが遥かにその人物を構成する。たとえば大田は、上っ面の口先で、新天地に向かう前に懺悔の一つでもしたくなったのだろうけれど、恐らくそのような感情は、あまり大田を構成してはいないだろう。――それは、アメフト部の猪口と慣れ親しんだ夕刻の航太にも言える事だ。ただ、もしも救いの余地があるとすれば、それは、もしかすると、背丈なんかが伸びたから強くなったというのが、滑稽で虚しいのかもしれない、というものだ。一抹の罪悪感と、やった過ちを過ちと認識する心。――そうだ、あくまで柔術の競技者であれば、同じ階級の者と技を競っていられただろうに。あるいは、それこそ達人の域に達して、どんな大男も絞め落したら良かった。
 ――それでも航太はもう、不良なんぞやった分際だ。
 ――やった分際でなんだ。
 ――それから、二人で何の気なしに話していた。
 お互いの馬鹿さ加減を分け合うように。

 翌日の学校では相変わらず、美由が話しかけて来る。航太の秘密など一切知らない。
 航太も航太で、無理矢理追い払おうとはしなかった。それは、厄介払いをしては流石に失礼だと思うのだろう。別に美由に愛着があるわけではない様子ではあったものの、昼休みは、一緒に弁当を食べているに等しかったし、お互い食べ終わると、何もする事が無い様子で雑談をする。
「航太、猫がいたよ」
「……ああ、そう」
「猫にコウタって名前付けようかな?」
「……はぁ、ふざけんな」
「ねえ、バスケやりなよ!」
 美由は頻りにバスケ部に勧誘する。
 ――学校中に勧誘のポスターがまだ貼られている。
 美由のいうバスケ部も、猪口のアメフト部も……。
「アメフト部は何人集まるのだろう?」
 航太は思わず呟いた。風のような乾いた声で。猪口は、なぜアメフト選手なのか? そんな事を考えたかもしれない。
「なぁに? アメフト?」
「……」
「バスケやんないの?」
「……」
 航太は思わず黙った。
「ねぇ、なんで構ってくれないの?」
「……その髪型」
 航太は、遂に口を滑らせたのかもしれなかった。
「はぁ?!」
 美由は一瞬、頭に来た様子で、それが声に出た。
 裂くようで、甲高い声。
 まあ、女子なんて大抵そうだ、と。
 動じない航太との間にしばし沈黙が居座る。
 そして美由は、突然鞄と手荷物をまとめて立ち上がる。
「わかった!」
 はっきりした口調でそう言うと、航太を置いて颯爽と去って行く。航太は、やはり不味い事を言っただろうかと、幾らか悩んだ様子だった。
 美由は、午後の授業をバックレた。
 教諭も、彼女がいない事を特に指摘もしなかった。
 ――そして放課後。
「えーっ! 美由、どうしたの?」
 クラスメイト達が声をあげる。
「切って来た!」
 美由は得意気にサラサラの髪を見せびらかす。
 放課後、彼女はショートカットになって戻って来た。
「すごーい! 似合う!」
「美由は元が綺麗だからね」
「凄いね、学校抜け出して、切って来たんだ?」
 美由は、航太の方を向く。
「航太! デートに行こう! これなら行けるっしょ?」
 ――そして、それだけではなかった。彼女は鞄を開けると、
 ――ニャアアアア……
 ――中から子猫を出した。
 これには航太も、口から言葉が零れた。
「は? おまっ……、何してんの?」
「コウタ!」
「ホント、ふざけんな……、何、連れて来てんだよ……。野良猫なら警察じゃないのか?」
「いいよ、家で飼う」
「何、考えてんだ……」
 航太は呆れ返ってしまって、言葉を失った様子だったけれど、自分にも責任があると思えたのだろう。それから学校の中庭に移動してから美由には伝えた。不良でした、バスケ部は眼中に無い、と。
「……だから、俺はやめときなさい」
 最後はそんな捨て台詞だった。
 結局、美由を置いて、彼は帰宅しようとする。
 美由は、
「カラオケ、付き合えよ!」
 と言う。
「何を聞いていた?」
「いいよ! 危ないヤツ、好き! カラオケ行こう!」
 航太には、美由の声が弾んで聞こえたかもしれない。
「……猫、持ってか?」
「鞄に隠しておけばバレないって!」
「頭悪いな」
「はぁ?!」
「おまえの頭、パァだな」
「え、酷くない?!」
「酷くねぇよ、猫、死ぬぞ……」
「死なないよぉ!」
「……息が出来ねぇだろ」
 航太は、そう言って、鞄の中で大人しくしている子猫をそっと隙間から取り出すと、
「おまえに命を預けられない」
 と言う。
「何すんの?」
「飼ってくれるお人好しを知っている……」
 航太はそう言って、猫を抱きかかえてその場を後にする。
「ふざけんな! コウタを何処へ持ってくんだよ!」
 航太が向かった先はアメフト部の部室だ。
 足取りが確かだった。
 昨日、体験でお世話になった場所まで一直線に向かった。
 ――コイツじゃ殺しちゃうんで、猪口さん、アメフト部で飼ってください。
 ――いいよ!
 航太は、アメフト部の部室小屋に行き、猪口に猫を手渡した。
「俺に責任のある命のようなので……」
「ふぅん……、そっちは、ガールフレンド?」
「いや……違います……」
「じゃあ、コイツって言うなよ!」
 猪口はニカッと笑って嬉しそうだった。
 航太は、心なしかスッキリした顔のまま、
「悩んでます」
 と、表情とは正反対の事を言う。
 アメフトは、確かにやってみたいのかもしれなかった。もしも喧嘩の類いがうんざりで、仮に、強い、イコール、危ない、そんな方程式の無い競技を求めているのなら、それこそ幾らでもあるだろうに。だから、航太なりに求めているのだろう、暴力や不条理と直接対決できる能力と、その様を峻厳に蔑視する心が、矛盾しない何かを、それはきっと強さだと。そして、それを本当の強さと思うのだろう。
「……猪口さんが本当に強いのか?」
(本当の強さってやつなのか?)

「……」
 猪口は一瞬閉口した。
「……着替えて外へ出ろ!」
 そして、この日は無理矢理、航太を練習に混ぜた。

 ――さっさとしろ!
 ――そしてグラウンドで、彼らは航太の相手をした。
 まず、猪口は、試合着を着こんだ航太に向かって、
「タイトエンドの適正があるか確認するぞ」
 と言う。
「なんですか? それ?」
「俺のポジションだ!」
 その次の瞬間……、
 猪口が突然チャージをして、
 ドオンッ!
 という音が響くと、
 航太はダダーッンと地面に転がらされた。
 航太だって相当な体重がある。それがゴム毬のように跳ねた。
 ――それから航太はもう、猪口に何度も吹き飛ばされた。
 それはグラップリング競技のタックルとは重さが違うから、仕方がない。選手によってはラグビータックルを使う者もいたけれど、そんなのとは比較にならないくらい、猪口の一撃には威力があった。
「悩んでんなよ!」
 ――アメフトで空を見上げて仰向けに倒れる事を「青天」という。
 青天した航太は猪口の言葉がよく聞こえたようだった。
「痛いっす……」
「試合を見て決めろ! 猫は木立さんが育てて!」
 それが猪口の言葉だった。
 奇しくも、次の日曜日に大会がある。

 猪口の適性検査は合格だったものの、ワイドレシーバーの方が向いていると、航太は宣告された。
 美由は、猪口から猫を返して貰うと、航太を励ました。
「コウタを大切に育てよう! アメフトもカッコいいじゃん!」

 ――それから、この日は二人で帰る。
 駅前までの道は、混んでいるような、閑散としているような、よく分からない人の群れが出来ていた。学生の姿もあるし、まだ部活動中の者もいるだろう。
 帰り道で美由は、
「不良ってどんな?」
 と尋ねる。
 まぁ、不良には色んな者がいるから仕方がないだろう。
 航太も、大田も、瞳を刺した大馬鹿者も……。
「ブラジリアン柔術を喧嘩に使った。カクシダマだった……」
 航太は、何故だか質問を馬鹿正直に答えて見せるのだった。それは、航太の悪い癖が引っ付いたような、相手への侮りが見え隠れするものだ。誠実という感じでもなく……。
「なにそれ、どうやんの?」
「……えっとな」
 航太は、水泳の平泳ぎの形を右腕で作って見せた。
「この形になると、肩の上を通して背中に腕を回せないだろう……」
「回ったら?」
「折れる」
 航太は、淡々とした口調で語るのだった。喧嘩や乱闘騒ぎは、動きの止まった相手に一瞬で技をかける機動力が必要だとか、拳で殴ると手がパンパンになるとか、だから肘打ちからチョーク、チョークから首相撲で倒すとか、分からせて戦意を奪うのが大事だけれど、たまに果し合いのタイマンになって、その時は砂場でがっつり技をキメてやった、分から無さそうな馬鹿ほど大田の小芝居でタイマンに持ち込んだとか、……次第にまた饒舌になる。
「サックとか指にはめるの?」
「は? 何を聞いてたんだよ、手がパンパンになるっつったろ……」
 航太は、フッと息を吐いた。
 それらが馬鹿話だという自覚があるのか、ないのか、よく分からない航太だ。まぁ、不良しか退治しなかったからかもしれない。そしてその元凶もまた不良、辿り着く先は大田……、自分と瞳は不良の被害者だから不良なら幾らでも打ち据えて良いとか、そんな歴史観があるのだろうか? ただ、……そんな風に、自分を瞳と同じ側に置いても、刺された瞳との差は歴然だろう。実際には、昨晩に談笑して見せた大田の側にいる、その線は固いか。
「もうしない?」
 由美は、尋ねる。
 航太は、答える。
「しない」
「本当?」
「辞めた」
 航太は、本心なのだろう。まぁ、もう、やっていたくはない……と。
 美由は、
「あぁ、よかったぁ。辞めなかったら諦めようかと思った。これからスポーツマンになるんだよね」
 と、ホッとした様子で言う。
 それから言葉を続けるように、
「あのさ、……」
 と呟く。
「航太は寂しそうだったの……」
 これを聞いて、航太は笑った、
 珍しく、アッハッハッハと、
 そんな女は、要は以前にもいたと。

「それで、思ったんだけどさ……」
 美由は、まだ言う。
「これくらい強くなれましたって言えたらいいんだよ。それができないことが恥ずかしいんだよ」
 それはある種の核心かもしれなかった。
 この言葉は、航太にはさぞかし予想外だったろう。
 ややもすると言っている意味が分からないか。
 航太とて、笑うのをハッと止めて、目を丸くした。
 その視線の先はどこか宙を見ていた。
「……?」
「って、思った……!」
「……お前が?」
「美由!」
「……お前なんかが?」
「美由っつってんだろ! 更生させてやるよ! 私と、……あの筋肉マンで! おらっ! いい加減舐めんな! 決まりだ、決まり! 危ない話、聞かせやがっ……」
 航太は、右手で己の顔を隠すように覆う。
 そして、微かに震えている。
(美由の言う通りだ。俺は、強くなったと、いつか胸を張って言えるのか? 瞳に、その時の俺を見せて、『これくらい強くなれたよ』と、言えるのか? そんな日が来るのだろうか?)
「……どうしたの?」
 美由が尋ねても、航太はしばらく黙っていた。
「瞳……」
 航太は、ようやく声を絞り出して、きっとこう思ったのだろう。
 もしも許されない時は、瞳が俺が殺してくれ、と。
 航太は、もしかしたら一抹の罪悪感で、この五体がスポーツをする事の許しを得たかったのかもしれない。
「瞳?」
「空手の子……、刺された……」
「まぁじでぇ?」
「死んだと思った……」
「犯人は?」
「出て来たかな……? 少年だし……」
「航太に恨みがあるの?」
 航太は、それだけ話して、またククククッと笑った。
 そして、アッハッハッハ! と笑った。
 まぁ、自分さえ良ければいいと、思うだろうに。
「航太を狙ってるの?」
「違うといいなぁ!」
 航太は、どこか宙を見て、そう乾いた声で叫んだ。

 ――それで、猪口に薦められた通り、二人は県境にある競技場に行った。
 ――もちろん、その、試合の日だ。
 ――空は快晴!
 他にも入部希望者が見学に来ていたから浮くことはなかった。ただ美由も混じっていて、それが航太には少し気恥ずかしかったかもしれなかった。
 試合は春季大会のシークン地区準決勝だった。相手校は有名大学の付属校で、要はエスカレーターで大学生になるお坊ちゃん達だ。ただ、誰しもが思うだろう、彼らはそこら辺の鍛えている者より遥かに頑丈そうだ、と。
 この日、屋根の無いフィールドは春の太陽が容赦なく照り付けた。
 まるで陽だまりの丘のような、感覚を覚えるだろう。
 風は無く、ただ暖かい。
 航太は、試合を見ていて、つくづくそう感じたようだった。
「違う! くだらなくないよ!」
 美由は言った。
 航太は、美由が言った意味が判然としなかっただろう。それが自分の高架下か、この陽だまりのフィールドか、あるいはそれら両方か。
「航太! 猪口さんはくだらなくねぇよ!」
 ただ美由は、航太を真正面から否定するような事は、あえて言わないようだ。言ってはいけないと思うのだろう。だから航太には意味が分かりにくかったのかもしれない。
「それは俺もそう思う」
 タイトエンドの猪口は、パスキャッチしたり、リードブロックをしたり大活躍だった。
 航太は、猪口の体幹が、彼が飛んでも、跳ねても、走っても、しっかりとしているのを見た。
 試合を見れば一目瞭然だったのだろう、
「誰かを傷つける強さではないですね……」
 航太はただ背番号四十番ばかりを見ていた。
「……勝て……よ」
 と呟くと、何かがドッと溢れたように、
「……晴れてんなぁ」
 と言葉を詰まらせた。
 陽の光に照らされた美由が、クスクスと笑う。航太は、ここに来てまた慮られたのだろう。美由は、そこまで深く考えていないかもしれない。ただ、航太を、これまで彼が歩んできた道が血塗られていた事から掬い上げたいと思うのだろう。
「アメフトにしよう! 私も入ってあげる!」
「お……、おう……」
 猪口は、パスをキャッチする際に、少し歩調を緩め捕球直前まで待ち、突然身体を加速させて捕球して一気に抜き去る技術が卓越しているようだった。あれだけ豪快なタックルをする癖に、フィールドでは一転してクレバーだった。そうやって、守備の選手のタックルを遅らせて、クリーンヒットを外しながら、ガタイで抜き去るのが好きなようだった。
 航太は、まぁ、なまじ喧嘩の経験があるから、試合が後半になる頃にはそんな事を理解していたようだった。
(でも、喧嘩じゃねぇな。面白そうなスポーツじゃねぇかよ)
 ある時、走り抜けた選手がタッチダウンを決めると、応援団が湧く。
 航太がどんな心境か、知りもしない善良な観衆が、ワァッと声をあげる。
「……俺もやりたいです」
 航太はまたそう呟いた。

(このフィールドで、吐くほど鍛えれば、いつか俺も……)
「なぁ、……美由、やりたいって言えば、あの輪の中か? 吐くほど鍛えたら、俺も」
「混じってこい!」
 そう言って、二人して清々しかった。

 航太は、瞳にきっと、こうも言いたかった。
 許されるのなら、俺をいつか見届けて欲しい、と。
 そして、航太は言える日が来るだろう、これくらい強くなりました、と。
(了)

コメント

タイトルとURLをコピーしました