私は在日クルド人向けの日本語教室に参加したことがある。
日本人の側で参加するにあたって、主催のボランティア職員から注意事項があった。
「日本語を教えると言っても上下関係があるわけではない。彼らには彼らのコミュニティがあって助け合って生活している。生活に不便がなければ日本語を覚える必要はないのだから」
――日本で暮らしていくうえで、もしも日本語が不得手であれば、困る場面が多いかもしれない。それは誰しもが憶測することだろう。
日本語を教える側は、知らず知らずのうちに「生活に必要なものを与えている」と考えてしまいがちだ。だが実際には、学習者の側でもう既に生活がある。母国語や同胞内の人間関係で日常が成り立っている。日本語はその生活を広げる一つの手段ではあっても、絶対に必要な基盤ではない。
正しいか、正しくないかで聞いていると、様々なことを悩む――。
これは私の正直な感想だ。クルド人ならクルド人のコミュニティが存在し、その内部で生活がある程度完結しているのだとすれば、それで暮らしの不便がないということに、――それ以上でも以下でもないという腹に落ちない感覚を堪えられないと苦しい。これを在外ナショナリズムのようなものだと騙ってしまったら、議論は早歩きしてしまう。日本人側が差別をしなくても、たとえばクルド人という単一の境界線を引いて彼らを奇妙な者だとみなさなくても、当の本人らが「同胞」などと言いながら一枚岩になっているのでは手の施しようがないだろう、――とか、そのような拙速な誤解をしてしまわないほうが良いだろうと、言い換えることができる。
当然、外国人コミュニティが形成される背景への「無知」があるから、そのような誤解に結び付くのだ。
彼らにはより現実的で切実な事情がある。言語の壁、仕事の確保、医療や行政手続きへの対応、そして日常生活における安心感。こうした要素が、同じ言語や文化を持つ人々を引き寄せる。これは特別な現象ではなく、日本人でも環境が変われば同じような行動をとる可能性が高い。
もちろん在外ナショナリズムと呼ばれる現象が存在するのも確かである。ただし、それは単純に排他的なものとは限らない。差別や孤立に直面したとき、自分たちのアイデンティティを守るために結束を強める場合もある。もっぱら防衛として、そうしたものが形成される点は見落としてはいけない。
こうした紋切り型の考え方をするなと忠告したばかりではある――。
「同化」と「融和」という二つの考え方の違いは、ここでの議論に接近している。同化とは、移住者が現地社会の言語や文化に近づくことを前提とする。一方、融和は違いを残したまま共存することを目指す。現在の多くの社会は理念として後者を掲げているが、現実には前者の期待が完全に消えているわけではない。「日本語をあまり使わない」「コミュニティ内部で生活している」といった行動が、受け入れ側には距離や拒絶として映ることがある。だが当事者にとっては、それが必ずしも他者を拒んでいることを意味するわけではない。むしろ、生活を安定させるための合理的な選択である場合が多い。
私は、日本語教室でクルド人の男性からトルコ語とクルド語を教えてもらった。
言語を教え合う機会は、あくまでクルド人コミュニティと日本人とが接点(タッチポイント)を持つためのものなのだ。ほうっておくと引かれてしまう社会の境界線を解消するための、もしかしたら儀礼的なものでもあるかもしれない。ボランティアとして参加する者達が、クルド人側の安全や安心を勝ち取ることは不可欠なことなのだ。理由は前述の通りだ。彼らの外見的同胞意識は防衛であるからだ。
政府がゼロプランのような政策を行い「日本列島は日本人の土地だ」と言わんばかりルールが制定されても、我々の暮らしの目線では、どうあれ地域に住む彼らと共存するための工夫を、その時、その時で執り行うしかない。ヘイト街宣は、住民の苦情として機能していると思われているが全くの誤解だ。排外主義の政治団体を支持したうえで、政治に参加する権利は誰しもが持っているが、現に地域社会で起きている課題の解決になると思っているのであれば、過ちである。
政治とはなにか――。
ベンタムは人間は恐れと必要から結合していると説く、そのうえで、結合に連続的な立法が近代法のあるべき姿だという。
私が思うに政治とは、最も狭い意味では政治のリーダーが行うことであり、ベンタムでいうところの結合の連続性を見出し、いくばくかの操作、操縦を試みることだ。だから、政治家が使う文章や文言を政治家でない者が公然と発信する行為は、一見政治的だが全く政治的でない。ただの言論である。このような取り決めがなければ、政治家が、政治的であることを忌み嫌う人たちと結託して言葉を買い占めることが出来てしまう。
私は、そのうえで前述した通り、ヘイト街宣は政治活動だと思っている。対照的なのものだ、近隣の外国人に暴言や、そのような内心を抱くことは政治的ではないし、自由だと思われる。ベンタム流にいえば、恐れや必要の表れだからである。国をあげてヘイト街宣を禁止することは、国家として「排外主義も構いませんし、政治的活動もありえます、しかし排外主義の政治活動、これはいけません」という意志を持つことである。日本はその決断を未だ出来ずにいる。これは遅延なのだ、――民衆は暮らしの目線で合理的な工夫、共生者であることを余儀なくされるのだから。

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