はじめに
当事者らからどう思われるか分からなくて、書き方が分からない人は、読んでみてください。
モチベーション
私が、社会的弱者を書く動機は様々ですけれど、社会的弱者に対する様々な偏見や差別を「情報の足し算」で解決したいというものがあります。平成以降、インターネットやエスエヌエスの出現、在宅ワークや人工知能の台頭で、社会はどう変化していますか? それは、溢れかえる情報量でかえって人々が孤立を深める傾向にあるというものです。(……それはどうしてですか? という議論はここでは避けます) 人々は刻一刻と貧弱になっています。それは自分と相容れない存在と共存を図る能力において顕著に表れています。気に入った人とだけ関わり合いになる為のツールに恵まれているのです。その一方で、社会的弱者と呼ばれる人々に関する情報との接触機会は明らかに増えています。それは差別発言の拡散やヘイトクライムの報道を媒介して行われる傾向にあります。もちろん負の面ばかりではありません。たとえば障碍者であれば、企業での障碍者雇用の拡大、地域移行支援や福祉経営の拡充によって、障碍者との接触機会が増えている面もあります。
ただ社会的弱者を取り巻く環境は、一概に厳しくなったと言わざるを得ません。
社会的弱者を、「可哀想な人」と厳格に定義し、社会や物理的な空間からチョキチョキ、切り取って、遠ざけておいて、
「もしも見かけたら、正しく憐れむ様に」
と教唆する旧来の教育では、――今後、大勢の社会的弱者を守り切れないと実感しています。彼らを遠ざける事には失敗しているからです。正の面であれ、負の面であれ、社会の成員と社会的弱者とは、漸進的に接近し続けています。
もちろんこの私の見解ついて、様々な感じ方があると思います。――であればなおさら、憐みの対象である事を教育の場で徹底的に教唆すべきだ! という答えを握りしめる者は恐らく教育者に一定数いるのではないかと憶測しています。私も一部そう思います。学校教育で教わる内容を擁護する事なくして、解決はないと思います。
しかし、「情報の引き算」で問題を解決する事は、今後ますます困難になるでしょう。それは今、論じている社会問題に限った話ではなく、あらゆるイシューが「情報の足し算」でしか解決できなくなると思われるのです。その理由はこのセクションの始めに述べた通りです。――社会的弱者を取り扱う文芸作品の数が増大する事は、今、必要な事なのです。
当事者である必要性の無さ
「当事者の文学」であるべきだという考え方は、やってしまいがちなミスです。確かに、当事者の作品は「本物の叫び」になりやすいです。ただし、私自身、統合失調症という病気を抱えていますけれど、登場人物を書くにあたって、地の文に「統合失調症の〇〇さん」と書く必要はありません。必ずしもそう書かなくてよいものです。本物の叫びというのは、もっと読者の心の深層に訴えかけるものです。創作とは嘘を書く行為だと感じる作家もいるようですが、私は、もっとずっと「噓がバレて切られる領域」だと思っています。
小説・旗のない彼女のモノローグ
例示します、――私は在日コリアンの登場する小説を書いた事がありますけれど、その当時は在日コリアンの知り合いもほとんどおらず、少なくとも彼らから「心を開いて接して貰えた経験が無い」という状況にありました。今、あの小説を読んでみると、確かに在日コリアンの登場人物が周囲に心を開いているように、あまり見えません。彼女はボーイフレンドもいたというのに! そこがガッカリだったり、意味が分からなかったりした読者もいたはずです。だから「嘘がバレて切られる領域」とは、そういう意味です。もっと言い換えれば、「悪意がなければ、むしろ本当の事しか書けない領域」でもあるのです。描いているモチーフから心を開いて貰えていない実態は、生み出した作品を一切裏切りません、裏切ってくれません。私は、在日コリアンの人々を、要は救いたいのに、向こうから拒まれている当時の実情を、うっかり、叫んでしまったのです。――作品で彼女はボーイフレンドと未来を誓い合うのですから、そこで読者は一気に冷めて、不可解だと感じたかもしれません。
だから、当事者の文学であるべきかどうかという議論は、もっとこう広く捉えてしまって構わないのです。
本当の事しか書けないだけです。――たとえば、路上生活者と一緒にお弁当を食べる小説を書きたい人は、自分がそのような願望を持っていなければならないと思いますし、もしもそう思いつつも話しかけた経験がなければ、話しかけたくても話しかけられない自分の叫びを描くハメになるでしょうね、ということです。
フィクション性をどうスパイスするか
自分の叫びを自覚すれば、物語にフィクションを交える方法もなんとなく思いつきます。先程の作品では、「在日コリアンに心を開いて貰えていない」という、ある種の傷口に塩を塗るように、登場人物達はカラオケボックスで出会います。心を開いて貰えないという叫びが、より強烈な悲鳴になる方向でストーリーは進展するのです。そこで彼女はボーイフレンドと交際がはじまりますから、さらに高らかな悲鳴になっていくわけです(……わかりにくかったらごめんなさい。要は、話は逆方向に進めてということです。作品はハッピーエンドを書いたことに最大のミステイクがあると本気で思います) ただ、書いていた当時はそんな自覚なんてなかったから、まぁ、さんざん講釈を垂れましたけれど、フロックという事になります。
おわりに
やってみたい方は、どうぞ気楽にチャレンジしてください。
ただそれだけを切に願います。

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