はじめに
――ハイデガーと仏教、そして西田幾多郎
哲学を読んでいると、まったく異なる思想が思いがけず重なって見える瞬間がある。
例えば西洋哲学の存在論と、大乗仏教の救済思想である。
一見すると無関係に思える両者だが、注意して読むと「人間とは何か」という問いを共有している。
存在と存在者
哲学者の マルティン・ハイデガー は、主著『存在と時間』で、世界のものごとを、
- 存在(存在する意味・理由)
- 存在者(具体的に存在するもの)
に区別した。
例えば「木」を考えてみると、目の前の一本の木は「存在者」である。しかし「木とは何か」という意味やあり方は「存在」に属する。
人間はこの存在を問い直すことのできる存在であり、ハイデガーはそれを 現存在(Dasein) と呼んだ。現存在とは、自分の存在を問い返すことのできる存在、つまり人間のことである。
仏教における心と救済
一方、大乗仏教では、世界の現象を 心(識) の働きとして理解する。特に唯識思想では、人間の深層意識として「アラヤー識」が想定される。このアラヤー識が浄化されるとき、現象界の万物は仏のはたらきとして理解される。つまり、世界は単なる物質ではなく、救済の働きが現れている場になる。
浄土真宗では、この救済はさらに徹底される。
人間は自力で悟りを得るのではなく、阿弥陀仏の本願によって救われると考えられる。
ここでは人間の存在は、
- 自力を疑う存在(現存在)
- 自分の不浄を自覚する存在
- 阿弥陀仏によって救済される存在
という段階として理解することもできる。
私と汝
さらに日本の哲学者・西田幾多郎は、『善の研究』のなかで、人間関係を「私」と「汝」の関係として考えた。「私」と「汝」は互いに限定し合う関係にある。つまり、私は汝との関係のなかで初めて私になる。
西田はこの関係を「自覚的限定」と呼び、互いの存在を認め合うところに 真の愛 が生まれると考えた。
ここでは自己と他者は完全に分離しているわけではなく、非連続でありながら連続している関係として理解される。
救済とは「真の愛」なのか
もし仏教の救済をこの視点から考えるならば、阿弥陀仏の救済は単なる超越的な奇跡ではなく、「私」と「汝」の関係のなかで成立する出来事とも考えられる。
つまり、人間が阿弥陀仏に救われるということは、自分の中に阿弥陀仏の働きを認めること、そして他者の中にもその働きを認めること、なのかもしれない。
このように考えるならば、救済とは単に「救われること」ではない。
それはむしろ、人間が互いを救う存在として認め合う関係――。
西田の言う 「真の愛」 に近いものとして理解できるだろう。


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