「同一労働同一賃金」と自己責任論――平成日本の構造を読み解く

2015年頃から「働き方改革」が政策課題として前面に押し出される中で、「同一労働同一賃金」という言葉が広く知られるようになりました。このスローガン自体は比較的新しいものに見えますが、その背景には、長年にわたって指摘され続けてきた正規雇用労働者と非正規雇用労働者の賃金格差の問題があります。

しかし、現在語られる「同一労働同一賃金」には、単なる制度改革の提案を超えた意味合いが含まれています。それは、日本社会に長く存在してきた「自己責任論」という強固な思考枠組みを揺さぶろうとする動きとして理解することができます。

2000年代前半、小泉純一郎政権下で進められた構造改革は、労働市場の柔軟化をもたらし、非正規雇用労働者の増加を招きました。その後、2008年のリーマンショックによって景気が急速に悪化すると、それまで見えにくかった非正規雇用労働者の困窮が一気に顕在化します。いわゆる「派遣切り」などの問題が社会的関心を集めたのもこの時期です。

それにもかかわらず、日本社会は「柔軟な働き方」を推進するためには「公正な待遇」が不可欠であるという点に、十分には到達できませんでした。その理由として考えられるのが、「自己責任論」という価値観の存在です。すなわち、雇用形態や所得格差は個人の努力や選択の結果であるとする見方が、問題の構造的な理解を妨げてきたのです。

この背景には、バブル崩壊以降のいわゆる「失われた30年」があります。この期間は単なる停滞ではなく、むしろ「忍耐の30年」と捉えることもできるでしょう。人々は政治のリーダーを信じ、金融政策や行政改革、さらには供給側重視の政策が繰り返される中で、「働きやすさ」や「生きやすさ」が後回しにされても、なお耐え続けてきました。その経験は一部の成功体験と結びつき、「努力すれば報われる」という信念、すなわち自己責任論を一層強固なものにしていきました。

しかし、現実には正規・非正規の所得格差は、教育格差と密接に結びついています。2010年代半ばの統計を見ると、学歴と雇用形態の関係は明確であり、学歴が高いほど正規雇用に就く割合が高い傾向が確認されています。ここで問題となるのは、学歴そのものもまた家庭環境、特に親の所得によって大きく左右される点です。高所得の家庭ほど子どもが高等教育に進む機会に恵まれるという傾向は広く指摘されています。

この問題に踏み込むと、「どこまでが自己責任なのか」という問いを避けることはできません。格差が個人の努力で説明できる範囲にとどまるのか、それとも出発点の不平等が決定的であるのか。この問いに対する社会的合意は、必ずしも形成されていません。

むしろ近年では、教育機会の格差そのものが半ば容認されつつある傾向すら見られます。ベネッセ教育研究所と朝日新聞社による調査では、「所得の多い家庭の子どもほどよりよい教育を受けられる」という状況を問題視する保護者の割合が、この10年で大きく低下しています。その一方で、将来的な格差拡大を予測する意識は非常に高い水準にあります。

この結果が示唆するのは、格差の是正に対する意欲の低下です。とりわけ教育格差という「原因の原因」にまで遡って問題を解決しようとする姿勢は弱まり、各家庭がそれぞれの条件の中で対処するしかないという諦念が広がっていると考えられます。高所得層は資源を投入して競争を勝ち抜こうとし、低所得層は現状を受け入れるほかないという構図が固定化しつつあるのです。

こうした状況の中で、政府の政策にも転換が求められています。従来のように「教育を通じて格差を乗り越えよ」と各家庭に期待する、いわば父権的な温情主義には限界が見え始めています。仮に公教育の無償化を進めたとしても、「努力すれば上に行ける」というメッセージ自体が社会に響きにくくなっているからです。

そのため、正規と非正規の格差を是正するには、より直接的な手段――すなわち賃金格差そのものの是正――に踏み込む必要があります。ここで改めて、「同一労働同一賃金」という原則の意義が浮かび上がります。それは単なる労働政策ではなく、「自己責任論」という長年の前提を問い直す試みでもあるのです。

このように考えるならば、現在の政策転換は一時的な対処療法にとどまるべきではありません。むしろ、日本社会が抱えてきた構造的な問題に対する認識を改める「パラダイムシフト」として位置づけられるべきでしょう。そうでなければ、同じ問題は形を変えて繰り返されることになります。

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