科学――ヒューマニズムの観点から

 自然科学は、計量できない部分を切り捨てた「科学的自然」を対象にする。その限定は方法の強みである一方で、「科学的自然が世界のすべてだ」という見方が広まると、人間から世界経験の厚みを剝ぎ取り、疎外をもたらすという懸念が生じる。二十世紀後半のヒューマニズムはまさにこの点を課題とし、私たちの生を科学の記述に一元化しないための感性や制度の手当てを模索してきた。
 社会学の創始者オーギュスト・コントは、フランス革命によって旧来の中世的秩序が崩壊したのち、新たな秩序が定着せず社会が不安定化したと診た。革命後の議会制の建設と並行して産業化が進み、有産階層と賃金労働者階級の対立が立ち上がるなかで、彼は持続可能な社会統合の原理を、理学的・工学的合理化の方向に求めたのである。その秩序観は短期の政治的処方箋というより、長期の文明論的展望に寄っていたと理解すべきだろう。対照的に、フーコーは近代理性が正常と異常を線引きし、狂気・犯罪・病いを包摂せず排除する統治の技法として働くことを告発した。理性は歴史の所産であり、科学はその根拠として権威化される。ゆえに近代は、人びとの自律を空洞化させる「虚無」を生む危険を帯びるというのである。両者は啓蒙を軸に反対方向へ展開したが、人間の解放をめぐっては、抑圧と疎外の双方に抗する課題を共有している。
 この緊張に、人工知能をめぐる今日の議論を重ね合わせることができる。自動運転のように規範をプログラムへ埋め込むことは可能であっても、人工知能が自我をもち自律して規範を守るわけではない。事故が起きたときにAIを刑罰主体として処断する発想が滑稽に響くのは、そのためである。サールは、対応表だけで言語運用を模倣できるとしても、それは人間の「心」を再現したことにはならないと論じ、チューリング・テストを通過する振る舞いと人間の再現を峻別した。人工知能が便利な道具として完成要件を満たした瞬間に「人間と同等」と見なす発想に対し、彼の批判は一定の歯止めを与える。強いAIや汎用型AIの可能性が議論されるとしても、そこに直ちに人格の付与が伴うわけではないという原則は重い。人工知能は人の行為を模倣できるが、善良になろうとする心までを所有するわけではない。自律とは、プラトン的な理性の能動を含み、自己の欲求を規律して善へ向かう運動である。情報法学の議論にあるように、自律を形式的能力として扱うだけでは、国家やプラットフォームが作る文脈に拘束された現実の個人を見落とすことになる。自律の実質は、他者に規定される環境のなかでも、どの程度自らの生を計画し追求しうるかという条件整備にかかっている。人工知能はその「文脈に応じて善良らしく振る舞う」模倣を示し得るにとどまり、善くあろうとする意志を持つのは人間だけである、という区別を曖昧にしてはならない。こうした観点は、人工知能の設計を便利さの尺度だけでなく、公共性と自律の実質を守る制度設計と結びつける指針となる。
 では、人間性の疎外や抑圧にどう抗するか。コントの合理化が開いた道とフーコーの批判が照らす影を、芸術という回路で橋渡しできる、と私は考える。ルネサンスは古代ギリシアの学と技と美を再生し、中世神学の抑圧に抗する「自我の能動」を、普遍的理性の想起へと接続しながら、自由と創造の地盤をつくった。そこから芽吹いた科学的世界観は、人間の可能性を拡げたが、同時に人間経験の微細な層を削ぎ落す危険も孕んだ。だからこそ、現代のヒューマニズムは道徳の二軸を持つべきだと気づかされる。一方の軸は、技術と制度が生む効率の論理に対する抑制であり、他方の軸は、芸術がもたらす共感と包摂の力である。音や言葉や像が国境や専門を越えて連鎖するとき、私たちは他者の痛みを自分の身体に引き寄せる経験を取り戻す。
 同時に、今日の高度情報化社会では、効率を極大化する設計思想がウェブのアプリケーションに組み込まれ、評価と拡散の指標が言葉を商品化する。そこでは「よさ」が速度と反応の多寡に置き換えられがちである。私たちは、いま善とされるものを少し諦め直す必要があるかもしれない。速さを少し手放し、測りやすさからはみ出す領域をあえて残し、検証可能な根拠と、検証に回収されない経験の厚みの両方を抱えた言葉を選ぶことである。科学の光を減ずるのではなく、その影に目を慣らし、影の中にある人間の自律と共感の芽を育てる。合理化の秩序と批判のまなざし、そして芸術の通路を併置し続けることが、抑圧と疎外の双方に抗する最も現実的なヒューマニズムであり、AIの時代における「人間のための設計」を支える最低限の作法である。

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