小説・さくらいろのあお(第三十四回やまなし文学賞応募作品)

 高二の春。
 学校の正門広場には、まだ桜が咲いている。
「また同じクラスだったね」
「メッセージアプリでメイクの見せ合いしようよ」
 仲が良さそうな人と人との間に弾ける、楽しそうな言葉たち。
 私は誰とも話さず、颯爽と通り抜ける。
――大きな丸眼鏡をかけた私。
 丸眼鏡は顔を隠すためじゃない。
 もちろん視力が悪いから。
 けれど都合よく目立たなくなるのも事実だ。
――私の顔には青いあざがある。
 私の名は村家沙織。――長い黒髪は櫛でとかし、ヘアゴムで一つ縛りにした。
「青いあざのせいじゃないもの」
 私は心の中で呟く。まるで自分にかけられた呪いを払うように。
 学校で私の居場所とは、将棋部の部室だ。

 ジャララ……。
「沙織さん! もう一局指そう!」
 
――あっという間に終わった始業式とホームルームの後。私は、文化部室棟の廊下の突き当りにある将棋部の部室で将棋を指す。
 
 将棋部には、私の懇切丁寧な友人がいる。
「琴音さん。お手柔らかにお願いします」
 三石琴音は、囲碁から転向したアマ二段。
 長い黒髪を臙脂色のリボンでハーフツインにして結んだ美少女。
 私達は、将棋の駒を整然と並べる。
――それにしても、琴音さんは、春休み中は誰とデートしたのだろうなあ。
 パチッ! パチッ!
 対局を進めると、中盤の乱戦を経て、終盤。
 私は、いつも一歩及ばず琴音さんに負けてしまう。
――ひとつの対局に三十分程度の時間がかかる。
「参りました」
「ありがとうございました! 感想戦をしよう!」
 感想戦は、対局を終えたあとに行う小さな反省会だ。
 勝った琴音さんが、穏やかに指摘や助言をくれる。
 その十五分ほどの時間が、何より勉強になる。
 棋力で上回る彼女の言葉には、いつも新しい気づきがある。
――尊敬できる人なのに、いろんな男子とデートをする人でもある。
 いつの間にか部室に来ていたのは、松岡くん。――アマ四段の松岡竜星。
 昨年の夏休みも全国大会で準優勝して、大忙しだった。
 琴音さんは「松岡くん! おつかれ!」と猫撫で声で言う。
 松岡くんは、アマ二段の琴音さんより格上の棋士。
 琴音さんは「一局指そうよ!」と猫撫で声で言う。
 松岡くんは「オッケー! 琴姫! オッケーです!」とチャラけた声で言う。
「琴姫。強くなるには俺と付き合って! 琴姫も全国大会に行こう!」
――松岡くんは、琴音さんがいろんな男子とデートすることを知っている。知っていて、琴音さんを自分の彼女にしたがっている。琴音さんも平気な様子だ。
――琴音さんの何が好きなのだろう? やはり外見かな。そもそも内面ってなんだろうな。人は外見じゃないと言う人もいるけれど。
 そんな風に考えごとをしていると声を掛けられた。
「村家さん。ちょっと相談したい事があるのだけど、廊下に来てもらって、いいかな?」
 部長・柊倫平が相談を持ち掛ける。
 突然の相談だけど、いつもジャンルは決まっている。
「はい、柊部長。どうしたのですか?」
 廊下に出ると、バイオリン同好会の澄んだ音色が聞こえる。
「よぉし! ここなら心置きなく話せるぞ!」
「……また琴音さんの話ですか?」
「そうだ! 琴音さんをデートに誘いたいのだが!」
「……私の協力が必要な時点でダメだと思います」
「学年が一個上だから! き……気持ちが悪いかなあ……!」
「学年とかではなくて、琴音さんはいいなと思うと自分から男子に声をかけてまるで幼馴染のようにデートに行きますよ」
「いや! 本当に本命には奥手だと信じている! それがこの僕であると! 思いたい! ああっ! スッキリした! 僕は琴音さんのような才媛と付き合いたいのだ!」
「柊部長。文化部室棟の廊下は人が全く通らないわけでも、バイオリン同好会が常に美しい音色を奏でているわけでもないので。私はこの辺で部室に戻らせて頂きます」
――前田くんが来た。
 前田くんがノッシノッシと歩いて来た。
 私は柊部長の後方を指さした。
 柊部長は、ハッとした顔で振り返って前田くんを見る。
「前田くん! 段持ちばかりの同級生に気後れせず、なんだかんだいつも部室に来る真面目な君を信頼している!」
「はい。本当はバレーボールをやりたかったって、去年あれだけ言ったにもかかわらず、こうして受け入れてくれる将棋部に恩返しがしたいです」
 低い声とのそっとした挙動。背が高く、頭が高い前田くん。
「村家はいつも対局相手になってくれてありがとう」
「いいよ。前田くんは絶対強くなるよ」
「村家にそう言って貰えて嬉しい。また対局してくれ」
 私は、この男前が平気で言う言葉の響きを、ちょっと好きだ。
「いいよ!」
 私は、思いがけず満面の笑みで部室に戻った。
 前田くん。――前田義人は、中学時代はバレー部だった。
 ――部室に戻ると、琴音さんと松岡くんがお喋り中だった。
 私は、誰かと一局指そうかなと思った。
 前田くんは詰将棋の本を鞄から取り出した。
「村家はこの詰将棋が解けるか? 初段を目指す七手詰め」
「この本は私も前に読んだから答えを知っているよ」
「村家は一度解いた問題を覚えているのか?」
「そうだよ」
「村家が言っているのは、問題を見れば思い出せるって意味か?」
――でなきゃ天才です。
「そうです」
「それなら俺も出来る」
 前田くんの低い声はよく通る。
 前田くんは私の目を見て話す。

――青いあざをどう思っているのだろう?

 去年からずっと、前田くんは私の青いあざに気がついていないかのようだ。
「村家。それじゃ一局、指さないか」
 前田くんが空いている席に座る。
 私は前田くんの向かいに座る。
 前田くんは目線を下げ盤面を見つめながら駒を初期配置に置く。
 パチリ! パチリ!
 私はススッと並べて、先手後手を決める振り駒をする。
 ジャララ……。
「村家は、いまアマ初段?」
――春休み中の新聞社の昇段テストに落ちました。
「アマ一級だよ」
「そっか」

 私と前田くんは、パチリ! パチリ! と将棋を指す。

 アッハッハッハ!
 琴音さんの楽しそうなお喋り声が聞こえる。

 ――十分程が経過した対局の最中、盤面が中盤の只中にある時だった。
 ガタッ……!
 私は「わっ!」と驚いて声を漏らしてしまった。
 前田くんは「ちょっとごめん」と言って立ち上がると、そそくさと部室の玄関から廊下へ出て行った。
――おいおいおい。対局中だろう。
 私は後を追うように文化部室棟の廊下へ。
「どうしたの? 前田くん」
 前田くんは頭をコチンと叩きながら「三石が……うるさい……」と言う。
「なにそれ?」
「集中できない」
「そっか。落ち着いたら戻っておいで」
 うるさいってどんな心理だろうな?
――私は部室に戻った。
 部室の玄関扉に貼ってあるポスターは今月中旬に行われる「高校将棋選手権大会県予選」の案内だ。
 琴音さんは手が空いていて、松岡くんとお喋りしている。
 私はここで悪戯心が湧いて、柊部長に向かって、
「琴音さんと対局してはどうですか?」
 とすすめた。
 聞こえる声で言ったから、琴音さんと松岡くんの会話がハタッと止まる。
 柊部長は「じゃあ! 三石さんと指そうかな!」と言う。
 琴音さんは「はい! アマ三段の柊部長となら稽古になります!」と快諾する。
――部長も頑張れ。
 柊部長は「松岡くん。ちょっとゴメンね」と言って松岡くんを席から立たせた。
 柊部長はそのまま空いた正面の座席に腰掛ける。
「宜しくお願いします」
 そして向かいの琴音さんに礼をする。
 ――その時、私は人が戻ってくる気配を感じた。
 前田くんが戻って来たのだ。
「村家」
 私は振り返って、戻って来た前田くんを見る。
「前田くん。どうしたの?」
 前田くんは、何か疲れたような顔だ。
「帰る」
――え?
「俺、今日はもう帰る」

――ここで、私も帰ると言ったらどうなるのだろう?

「そっか。じゃあ、松岡くん、はじめから指そう」
――バイバイ。シーユーアゲイン。
 私はそう言って、手の空いている松岡くんを呼んだ。
 松岡くんは「いいよ」と鈍い声で言うと、前田くんが座っていた席に移動する。
「村家さん。対局が終わったら、ちょっと……」
 松岡くんは両手の平を合わせる。
 ごめんのポーズ。
――なんですか?
 それから松岡くんと二枚落ちで対局した。
 アマ四段の松岡くんは駒落ちも丁寧に指す。
「駒落ちは小学生の頃に沢山指して覚えたよ」

――ひとつの対局に三十分程度の時間がかかる。

 感想戦も丁寧だった。
 しばらくして松岡くんは「それで村家さん、正門広場の自販機の所でお話したい事があります」と言って立ち上がった。
――え?
 私は「いいけど、相談かな?」と言って立ち上がる。
 松岡くんはニカッと笑って「そ! 琴姫の事!」と言う。
 琴音さんに聞こえるような声だ。
 これから「貴方の事を相談します」と言われたに等しい琴音さん。
 私は部室の玄関を出ると、文化部室棟の廊下を一歩一歩踏みしめて歩いた。足の裏から伝わってくる感触を感じ取る。
 それから教室棟を通り、昇降口を出て、正門の広場の自動販売機に着く。
 自動販売機でカフェオレを買った松岡くんは、笑い話に明け暮れる。話が意外と面白かった。
 深夜見たお笑い番組の話――私は思わず笑った。松岡くんも将棋が強くて、真面目でストイックな性分でもあるのに――琴音さんのことになるとチャラける。
「それで本題に入るけれど、相談って何?」
 松岡くんは「琴姫に告白した」と言う。
「もうとっくに告白しているようなものだったでしょ」
「本気で告白した」
 松岡くんは力説する。――春休みに一緒に都会に行って、全力でデートして「正しく告白した」と言う。
――それで断られたの?
「誤解を招かないように、この手の相談相手は村家さんがうってつけだ」
――なにそれ!
「それで、琴姫の片思いの相手って誰だろう?」
――え?
「琴姫は言っていた。私は、本当は好きになると長い人でずっと一人に片思いしている。村家さんは何かその辺りを詳しくないかな?」
――そんなの嘘だよ。
「それで『俺、待っている』って言ったら『待たないで』って……」
 私はここで悪魔が囁いた。
 私は本当の表情を隠して「柊部長だよ。前に琴音さんに打ち明けられた」と言う。
 松岡くんは雷に打たれたような顔で驚きながら「はあ?」と言う。
「琴姫は柊部長の事は『嫌い』って言っていたよ?」
 私は咄嗟の判断で、――自分のオデコをパンと叩いて「あいたたた」という反応をする。
 そして松岡くんに言い放った。
「何一つ本当の事を教えて貰えていないなら諦めなよ」
 松岡くんは「あ……あの……そこまで言われる謂れはない……」と言う。
「村家さんは俺を馬鹿にしている」
 私はドキッとした。
――まずい! 怒らせた?
 しかし松岡くんはフッと息を吐く。
「村家さん。……でも今日は重大な情報をくれてありがとうございます」
 松岡くんはカフェオレの残りをグイッと飲みほした。
「もう少し男らしくするから俺の事を悪く思わないでくださいね」
 私は、思わず尋ねる。
「琴音さんの何がいいの?」
「一緒にいて楽しい」
「見た目とかじゃないの?」
「見た目は関係ないよ」

――いつも思うけれど、誰も青いあざをなんとも思っていないな。

 中学時代は、あざをじっと見て話す人が、男女問わず、何人かいた。
 高校では、皆、部活とか、勉強とか、方向性を持って暮らしている。
 他者に思うことも、その方向でもって進んでいるとか、遅れているとかそういう目線が多い気がする。成績の良い人、部活で強い人、人付き合いが上手い人、彼らへの羨望だったり、尊敬だったりする心を持って、優れた人を見ようとする目で他者を見る。
 それでいて、そんな自分達が善良だという感覚があるわけでもない。昨年は定期テストの成績上位者が教室に貼り出されていた。おそらく今年もだと思う。たとえば学業成績で私達は互いに競い合う存在でもある。善良というよりもむしろ競争心を持っている。
 顔に青いあざがあるからとか、ある癖にとか、自分で自分を責め立てても、周囲の同年齢から後れを取っているような、違和感を覚える。
――何もかも青いあざのせいだと思うときがある。
「これは呪いだ!」
 私は心の中で呟く。青いあざは、私を稚拙な価値観に閉じ込める呪いだと感じる。自分の精神は知らず知らずのうちに、青いあざに毒されている。青いあざを考えても、考えなくても、とにかく青いあざが起点となっているではないか。
 私は去っていく松岡くんの後を追わなかった。
――このまま帰りたい。……でも私も荷物を部室に置いたままだ。
 私は少し間を置いてから部室に戻る事にした。
――それにしても琴音さんは策士だな。
 正門広場の桜がまだ綺麗だ。
 もうすぐ夕闇が来て、五分咲きでも夜桜のような風情がまた映える。
――でも琴音さんには本当に片思いの相手がいるのかも?
 私はその場に五分くらい佇んでしまった。
 ズンチャッチャ♪ ズン♪
 私は「うわっ」と思わず声を上げてしまった。
「なんで忘れて行くの?」
 松岡くんの携帯電話が落ちていた。
 私は落とし物を拾おうと手を伸ばす―仕方がない、届けてあげよう。
 ズン♪ ズズチャッ♪ ズズン♪
 応答するのは躊躇った。
 ズン……。
 音が止み、待ち受け画面が浮かび上がった。
――琴音さんとのツーショット写真。
 私は二人の制服姿しか見た事がなかった。
 私服で会っている二人の楽しそうなツーショットは本当に気心知れた仲に見えた。
「松岡くん。もう付き合っているつもりだったのだな。ちょっと可哀想」
――琴音さん、策略にせよ本心にせよ、何を思ったのだろう。
 私は落とし物を手に持って部室に戻った。
――お疲れ様です。
「松岡くん。携帯電話を落としていましたよ」
 松岡くんは無言で首を下げて、受け取った。
「まだやってくの?」
 私が尋ねると、松岡くんは「琴姫ともう一局指したい」と言う。
「そうだね」
――一緒にいて楽しいものね。
 琴音さんは内面も優れているのだろうと思う。
 柊部長は「才媛」と言うし、松岡くんは「一緒にいて楽しい」と言う。
 見た目が良い人は、外見へのコンプレックスが精神の偏りを生まないのだろう。怪我や障碍で外見に自信がない人はどうすればいいのだろうかと思う。
 平等なんてないと言えばそれまでの話かもしれないけれど。
 中学時代のある日、トリーチャーコリンズ症候群という疾患をインターネットで知った。
「私の顔を気にしないでくれてありがとう」
 私は心の中で呟くと、ぽっと胸が熱くなった。

――そんな台詞は、私は本当に大切な人にだけ言うよ。

 道行く人が、不思議そうに振り返る顔。――疾患でそうなった人がいる。
 私はそこまで大きな特長を持たない。
「顔のコンプレックスを回復したい気持ちが膨れ上がって、悔しいとまで思えた時に、自分より可哀想な人がいると思うと我慢できる」と打ち明けて、「そんな風に私の助けになりました。どうもありがとう」と伝えたいとは思わない。
「乗り越えるものが大きいぶん、強い人になれるでしょう」と言っても、美しいとか、美しくないとか、そういった話題を強引に逸らしているだけに思える。
 ならば、まず自分に言えばいいだろう。 ――村家沙織、貴方が乗り越えるべき試練が顔に刻まれているのですよ、と。
――私は帰宅した。
 帰宅後は学校の予習と、詰将棋を少し解いて、寝た。
 お笑い番組は見なかった。
 今年はどんな一年生が入って来るのかな。
 春の嵐のような女の子が来たりして。
 漫画だったら松岡くんに一途なトラブルメーカー的な後輩が出来るのに。
 
――なんてね。

「そんなわけないでしょう」
――翌日の部活の時間。
 私は、同じ事を想像した柊部長に文化部室棟の廊下で言った。
 柊部長は「毎日のように相談してすまない! 松岡くんに睨まれるようになったのだが! これは僕と琴音さんの恋が進展する兆候なのだと思いたい!」
――はい。
「ああーっ! スッキリした! 村家さんに相談するとスッキリするなあ!  今月中旬の県大会予選は、僕と松岡くんと女子の部が免除だ。部員は大会に向けて熱くなっている。部長として、琴音さんにうつつを抜かしてばかりいてはいけない」
「別に好きな人がいるのは良い事だと思いますよ」
「それなのだよ! 色恋沙汰と大会に向けた切磋琢磨とがミックスになるのは僕もうんと嫌なのだ。将棋は将棋、恋は恋って、分けて置きたいのだよね! 結局、混ざっちゃっているのだけどさぁ!」
 私は、適当に会話の相手をして部室に向かった。

 ――部室では琴音さんの声が鳴り響いていた。

 相手は松岡くん……ではない! 別の同級生だった。
 二人はこれから部活動を早々に切り上げて、駅前に出来たケーキ屋さんに行くらしい。
――デートか。行ってらっしゃい。でも駅前に出来たケーキ屋さんはどんなお店だろうな?
 私は「琴音さん。可愛いお店だと良いね」と言う。
「沙織さんも来る?」
 私は驚いた。
――え? それは社交辞令というヤツだろうか?
 私は戸惑いながらも「邪魔しちゃ悪いよ」と断った。
 琴音さんは「構わないよね?」と、お相手の方に言うのだ。
 私は「いいです! 大丈夫です! 私は将棋を指していたいです!」と言って、お断りした。ケーキ屋さんには興味があったけれど。
 ガチャッ……!
 絶妙なタイミングで部室の扉が開いた。
 前田くんが来た。
 琴音さんは「行こう!」と言って、入れ違えるように相手の男子と出て行った。
 前田くんは「今日も宜しくお願いします」と挨拶して、また詰将棋の本を読む準備を始めた。
 
――ここからいつも通りの部活かと思いきや……。
 
 いつの間にか部室にいた柊部長は「県大会予選に出る人がほとんどだから! 大会前だし指導対局をしよう! 僕と松岡くんが先生役で多面指しをしよう!」と言う。
 多面刺しとは、先生一人に教えてもらう対局者が四、五人同時に相手になることだ。
 部員達は急いで机をコの字型に整列させて、指導対局の準備をした。
「柊部長も有言実行だな。将棋部が大事なのだな」
 私は心の中で呟いた。
 そして指導対局が始まった。
 将棋を指す柊部長も、松岡くんも真剣な眼差しで、私は淀みない心を感じる。
 私は松岡くんに稽古をつけてもらう。
一手一手に重みがある。
 格下の私への侮りがない。
 四段が、一級と指す時は四段として対峙する必要は全くない。二段くらいの棋力で相手をしていればまず負けない。そのような侮りが、指先から全く感じない。
 真剣に相手をされている。
 琴音さんはデートに行っちゃいましたけれど。
「参りました」
 松岡くんに負けたとき、松岡くんは手短に感想戦をしてくれた。
「詰将棋の本は今の棋力で選んで読むといい。寄せの本は、少し背伸びをすると発想が身につく」
 次の指導対局は柊部長が相手だった。
 柊部長も、丁寧に稽古をつけてくれる。
 私はつい余計なことを考えてしまう。
 二人とも真面目なのに琴音さんに振り回されているのではないかと思う。
 余計なお世話かもしれないけれど。
 フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルは「他人は地獄だ」と言った。他人はどこまでも自分と異なる。私も、迷路のようだと思う時がある。私はサッカーとバトミントンでは、バトミントンのほうが好きだ。私という迷路は、そっちに曲がると先へ進める。恋愛の相手に好みの顔がペタッと貼られていれば、相手の行き止まりにも耐えられる。逆に自分という迷路を途中で投げ出されても耐えられる。それはわかる気がする。
 五局目が終わって、六局目を指そうかと思った時に、松岡くんが「終わりにしましょう。頭が限界です」と言う。
――そうだよね。先生役は疲れるよね。
 確かに指導対局の多面指しは辛いと、私は容易に想像がついた。
「松岡くん。片付けを手伝うよ。それで、また自動販売機の所で少し話さない?」
「いいですよ。村家さんが僕に何か御用ですか?」
「琴音さんのこと」
「……部室で言えないことですか?」
 私はギクッとした。松岡くんが今日の琴音さんをどう思っているか知りたくなったけれど、安易だったかなと思った。
「……松岡くんは将棋部のために頑張っているのに」
 私は口を滑らせるように、話しを始めた。
 松岡くんは少し考えてから「俺、信用されてないです。将棋と琴姫のどっちを取るかって言われて、失いたくないのはアマ四段の棋力のほうです」と深い声で言った。
 言葉の重い音の響きに、思わず部室がしんとなってしまった。
 気まずい空気とはこのこと。
 前田くんが「松岡! 今日はありがとう!」と言う。
 松岡くんは首を下げて、無言で片付けを再開した。
 私は、片付けを手伝おうとした。他人の心に気安く触った気がして申し訳なかった。
 前田くんは「いいよ。村家、俺がやるよ」と言って、私を先に帰らせようとする。
 私はお言葉に甘えて、手に持っている駒箱を棚に返しただけで、下校した。
 私はもやもやしていた。
 琴音さんは、どうして松岡くんの心の深い所を粗野にするのだろう?
 私が拾ってあげたいわけではないけれど。
 
 ケーキ屋さんに行きたかったのかもしれない。
 ――そして、私は帰りに件のケーキ屋さんに立ち寄った。
 
 ケーキ屋さんは 可愛いお店だった。
 中には入らなかったけれど。
 ポヨン♪  と携帯電話の通知音が鳴った。メッセージアプリの新着。
「琴音さんだ。どうしたのだろう?」
 琴音さんからのメッセージに「明日、駅前の記念公園に行かない?」と書いてあった。
「いいけど。デートの付添は嫌ですよ」
 我ながら率直な文面を送ったが、すぐに既読がついた。
 そして「女子二人で! 相談したい事があるの!」と送られてきた。
「もしかして恋愛相談ですか?」
「そう!」
「いいですよ」
――松岡くんのこともあるけれど、先に相談を請け負っていた柊部長のほうを進展させてあげないといけない。
 ――この夜は少しだけ寝つけなかった。
 なんて言おう。
 私は「柊部長と仲良くしてあげてください」って言うのかと思うと、相談相手を安易に引き受け続けたものだと少し後悔した。
 ――そして翌日の放課後は正門広場で待ち合わせした。
 琴音さんは、親衛隊のような男子を連れてこなかった。
「琴音さんの事だから男子を連れて来るかと思ったよ」
「沙織さん。突然、記念公園に誘ってそれはないよ」
 琴音さんは正門広場を踊るように「沙織さんとデートだね」と冗談を言う。
 記念公園までの道で琴音さんの口から出た話は信じがたいものが多かった。男子バレー部の背の高い選手と一度デートしたいとか、水泳部の肋骨が好きだとか。
――男子なら誰でもいいのだろうか。だったら部長とデートしてあげて欲しい。
「ああ! あのお店! 運動部の男子達の間で人気の中華料理屋さんだね!」
――ん? まてよ。
「本当は運動部の彼氏が欲しいの?」
 琴音さんの時間が止まった。
 琴音さんの顔が赤くなった。
 琴音さんはムスッとして私を見ると、何を思ったか「ギャルギャルしい」と言う。
「何を言うの? ギャルギャルしいのは琴音さんだよ? 男子なら誰でもいいの?」
――ええい! ままよ!
 私は「男子なら誰でもいいなら柊部長とデートしてみせてください」と言った。我ながら機転が利いたと思った。この言い方なら全てが解決するに違いない。
「柊部長だけは嫌だ」
 琴音さんはキッパリ断った。
――どうして?
 琴音さんは「ごめん」と言う。
「でも沙織さん、自分の気持ちに正直になったほうがいいよ? 柊部長のこと好きでしょ?」
――いいえ。
 私は「断崖絶壁で違う」と即答した。
 琴音さんは「断崖絶壁か!」と笑った。
 そうしている間に記念公園に着いた。
 まだ咲いている桜の花がのどかな午後の色合いにぴったりだった。
 違う学校の子もいて、花見のように桜を見物している様子だ。
 石畳に囲まれた大きな噴水。空間を囲むように背の高い桜の木が散り際の美しさを見せつける。満開の時に来たかったかな。綺麗な場所だなと、私は思った。
 琴音さんは「柊部長をゴリ推ししてくるとは思わなかったな」と言う。
――柊部長のこと、そんなに嫌いなのか。
「本当のことを教えたら、私が今好きな人を教えてあげるよ?」
「え? 本当のことって?」
 私の曖昧な反応に琴音さんが笑う。
「琴音さんの好きな人は気になる」
 私がそう言うと、琴音さんは黙った。
 時が流れていくのを惜しまずに無言の琴音さんと私。
 でも散り行く桜が綺麗だなと私は思った。
 琴音さんがパン屋の方を向いた。記念公園にある一軒のパン屋さん。首を横にひねって、不自然なほど私を見ない。
「琴音さん。パンが食べたいの?」
 すると鋭く尖った男子の声がした。「下僕?」と突然誰かに尋ねられた。私はハッとして見ると、男子は長身に銀色の髪。肩まで伸びた真ん中分けの髪を手櫛でかき分けながら琴音さんに向かって「もしかして、下僕か?」と蔑むような言葉を浴びせる。
――何? この失礼な人!
 すると琴音さんは顔を赤くして下を向いたのだ。
 パンッ……!
 手を叩く音と同時に「キャハハハハハ! え? 偶然ってこと?」と女子の笑い声。
 すると別の男子の野太い声。
「マジ? マジだ! 写真で見た中学のオンナだ!」
 私は耳を疑いつつも、「お知合いですか?」と強い口調で言う。
 野太い声の男子は「名乗れと言っているよ」と言う。
――嫌だ! 怖い!
「俺は白銀御剣! 囲碁の元中学チャンピオンで高校チャンピオンの御剣です!」
――なにそれ!  知らない!
 私は琴音さんの肩を揺する。
「行こう! あっちに行こう! 逃げよう!」
 しかし琴音さんは岩のように動かない。
 私は精一杯の力で琴音さんを動かそうとした。
 次の瞬間だった。
 アイ♪ ワナ♪ ビーザ♪ プロ♪ ゲイマア♪
 琴音さんの携帯電話の着信音が鳴った。
 白銀御剣は「ほら! 下僕だ! 番号変わってないな、着信拒否ってない!」と言う。
 琴音さんは顔を赤くして下を向いたままだ。
――逃げよう! 動いて!
「御剣の馬鹿……知らない……下僕じゃない」
 ようやく口を開いた琴音さんは、あれだけ動かそうとしても動かなかった癖に、今度は私の手を強引に引っ張ってパン屋の方に歩き出した。
――痛いっ!
 白銀御剣は「たまにはデートしてやってもいいぜ!」と遠慮のない大声で言う。
――昔、ああいう変な人と交流があったのだな!
 琴音さんと私は次第に早歩きになって、最後は駆け出した。
 パン屋を通り越して、公園の隅の美術館まで逃げた。
 美術館の前で立ち尽くす琴音さんに、私は「アレはなんだ?」と尋ねる。
「中学の頃に告白したの。イケメンだから……ちょっと付き合っていた」
 琴音さんは涙目になって、シクシクと泣き出した。
「このまま終わるのは嫌だ! でも男子が怖い! 他の男子はもっと怖い!」
――は?
 私と琴音さんは立ち尽くした。
――友人として、泣き止むまで待っていようか。
 私は、そういえば白銀御剣は「囲碁のチャンピオン」を名乗ったと思い起こした。
 琴音さんは将棋の前は囲碁をしていた。囲碁で接点があった男子に告白して、付き合って、何か訳があって「下僕」なんて呼ばれている。琴音さんは下僕のまま終わりたくないと思っていて? ……男子が怖いというのが理解不能だな。
 私は、ハンカチを差し出して「気分が悪いならベンチに座っていよう」と促した。
「とんだお花見になっちゃったね」
 琴音さんはハンカチを受け取ると号泣した。
 そして二人でベンチに座って、桜の花びらに吹かれていた。
 私は結局、白銀御剣との間に過去何があったのかはそれ以上聞けず仕舞いだった。
 琴音さんは心に深手を負っていて、寸での所で男子と、彼氏彼女という交際が出来ないらしい。
 この日、なぜ琴音さんが恋愛相談をしたかったのかというと、まさにそのような心のままでいるのが辛いということだった。頑張って松岡くんあたりと交際できるように努めようかと思うと、なかなか白銀御剣のことを乗り越えられないという。今日も、彼のSNSアカウントの投稿を頼りに、実はタイミングを見計らって記念公園に花見に来たという。
 琴音さんは、渡したハンカチを握りしめる。
「言ったじゃない。本当のことを教えたら、好きな人を教える」
――そっか。私は、琴音さんが色々と悩んでいることを知ってしまったな。
 私は「前田くん、ちょっと好き」と伝えた。
 桜の花びらが降り注ぐベンチで、琴音さんはまた下を向いて泣き出した。
 琴音さんは無言だった。
 私は「ちょっと好きなだけだから」と言って、琴音さんの傍にいた。
――嫌だな。女子同士でこんな話をしたせいでその気になってきた。松岡くんは何も知らない。ちょっと可哀想に思えた。部活では先生役をやっているのに、白銀御剣という最悪な男子がいて、若干キャラが被っている。
 
――それから魔法にかけられたように時は経ち。県大会予選を二日後に控えた金曜日まであっという間だった。将棋部の平穏な日々が記念公園の一幕を癒したのか、琴音さんはいつも通り、部室では明るかった。

――前田くんともっとお話ししてみようかな。
 
――私は部活の時間に、前田くんの向かいの席に座る。
 前田くんは私を見て「村家。今年は俺、本戦に出たい」と言う。
 県大会予選は抽選で組まれた二試合を二連勝で通過。例年の傾向から言って、初段あれば通過は固いと、柊部長は言っていた。
 私が棋力を尋ねると、前田くんは「村家と同じ」とだけ答える。
 私は「通過できますように」と右手と左手を合わせて祈るようポーズをした
――少しくらい気を引くようなことをしようかな。
「今日は最終調整で私と沢山指しましょう」
 前田くんは「よろしくお願いします」と礼をして、駒を並べた。
 振り駒をして対局が始まる。
 こんな日々が続いて。
――高校の頃はちょっと好きだった男子がいたよと、誰かに打ち明けたりするのかなと思う。
 パチリ……。
 私が振り飛車穴熊を目指すと、前田君は超急戦を仕掛けて来た。
 居玉と言って、王将を定位置に置いたまま指す。
――手練れが稀に好んで使う事もあるけれど、初心者が悪形と知らずにやってしまう場合がほとんどだ。
――前田くんは初心者ではないでしょ。慌てずいつも通り指したほうがいいよ。
 駒音がパチリ、パチリと鳴る。
 パンッ! とチェスクロックを叩く音が軽快だ。
 そして終局は早かった。――七十手目で前田くんが投了。勝ったり、負けたりする間柄だけど、ここは私が勝った。
 指し手が早いなと思いつつ。
 私と前田君は感想戦をする。
――前田くんは大会を意識している。
「なんで居玉のまま攻めたの?」
「囲いの有難味がわかるように。たまには居玉で攻めようと思った。骨身に染みた」
「じゃあ次は囲って指そう」
 ――そしてまた何局か指した。
 前田くんは真剣だ。
 大会が近いから当然、気合も入っている。
 私はその心意気に答えたい。
「今のところ、左美濃が一番勝率いいよね」
「前田くんは左美濃の才能があるのかな?」
「才能は知らないけれど、無意識のうちに相手を不利にしている気がする」
 前田くんは「ありがとうございました」と言って感想戦を終わらせる。
――帰ろうかな。
 私は「そろそろ帰ろうかな。ありがとうございました」と言って立ち上がる。
「俺も帰る。体育館を覗いて帰る」
「もしかして男子バレー部?」
「そう。男子バレー部の練習を見て帰る」
――去年、男子バレー部に入りたかったのだっけ。
 私はふと疑問に思ったので「怪我で入れなかった部活を眺めるのは辛くないの?」と尋ねた。
「いいよ。気にするなよ」
――前田くんは教えてくれない。この程度の事を。
 私と前田くんは部室の玄関を出ると、正門広場まで一緒に帰る。
 文化部室棟の床を、前田くんはノッシノッシと歩く。
 半歩前を歩く前田くんの歩幅は、私に合わせているからではない。
 前田くんは男子にしては少し、歩くのが遅いかもしれない。
 ――正門広場に着く。
 私は「前田くんは怪我したのだよね?」と同じ質問をした。
 しつこいだろうかと、尋ねた後でハッとした。
――聞かれたくないのかな。
 前田くんは左足を軽く上げると「靭帯な」と言った。
「痛いの?」
「いいよ。気にするなよ。心配してくれてどうも」
――前田くんにとって怪我は辛い出来事。
 正門へ向かうはずの私と、その場に佇む前田くん。
 正門広場から覗く体育館の様子を見て、ボウッとしている姿が、男らしく見えた。
――何秒間こうしていたら、何がどう伝わるのだろうか。前田くんのことをちょっと好きな事が、正直に伝わるのは何秒だろう。
 私が「じゃあ帰るね」と言うと、前田くんはホッとしたように「またね」と言う。
 心なしか微笑んで見えたから、私は「マネージャーは嫌だったの?」と尋ねた。
 前田くんは、また急に表情が怪訝そうになって、「いや、いいよ。気にするなよ」とはぐらかす。
 教えてくれない。どんな人かわからない。
 それとも個人主義者なのだろうか?
――そして、私のことをどう思っているのだろう?
「前田くんは三石さんが苦手なの?」
「は? いや。村家は話しやすくて助かるけど。別に三石は苦手じゃない」
「うるさいって言っていたよね?」
「あ……ああ……。まあな」
 私は前田くんをジッと見た。
 目を覗き込むようにジッと。
 その瞬間、バリッ……! まるでガラスが割れるような擬音がしっくりくる瞬間が待っていた。
 前田くんは、今度は迷惑そうな顔をして「なんだ? 村家! どうした?」と言う。
 その一瞬の表情の変化で、私の心にグサッと何かが刺さった。

――前田くんは、私のことを好きじゃない。

「ごめん」
――私、何を浮かれていたのだろう。
「帰るね」
――私のこと好きじゃないなら、いいや、やめておこう。
「でも、前田くんは将棋部にしたのだね。たくさん部活があるのにね」
 私は前田くんに背を向けた。
「俺は別になんでもよかった」
 私は悔しくなった。
――冷めた目って、こうやるのだっけ? 
 振り返って「カッコつけるね」と冷笑した。
 きっと、いろんな男子がカッコつけているのと同じように、前田くんもカッコつけているだけだよ。
――バイバイ。シーユーアゲイン。
 私は日常に帰ろうと思った。
 桜の花びらも散ったでしょう。前田くんのことをちょっと好きでいても仕方が無いよ。
 琴音さんとお花見する前の日常に帰ろう。
 琴音さんも相変わらずいろんな男子と遊んでいるけれど。
「勝負が好きだ!」
――え?
 前田くんは、私に直球をぶつけるように言葉を放つ。
「かっ……カッコつける人好きじゃないってば!」
「そっちか!」
「な、なに? どうしたの?」
「褒められたのかと思った!」
 前田くんは、一歩、二歩、近づいて「悪い」と謝る。
――男前だなぁ。
 私は、コホンと咳払いをしてから「いいえ。前田くんは普通に話しているよ。前田くんは本当に勝負が好きなのだね。わかったよ」と言った。

――何かきちんと理由を見つけたら、ね。

 そして帰宅する。
 私はお花見以来、浮かれていたのは事実だと気付いた・
 あの真面目な男を危うくたぶらかすところだった! なんてね。
 下校中に何度も前田くんを思い起こす。琴音さんのこと苦手じゃないのか。
 県大会予選は厳密には地区予選だ。開催地は我が校の学生会館で、出場者と応援は共に現地集合。
 気がつけば早歩き。恋愛なき日常に帰ろうとしたけれど、心の騒めきが抑えにくい。
 私は、前田くんの直立した姿を思い出しては、そういえば恋人が出来るなんて考えたこともなかった人生だと思う。
 前田くんがもしかしたら私のことを好きかもしれないと思っていたけれど。
――応援に行かないとね。
 私は自分に言い聞かせた。仲間だから。土曜日は勉強でもしていよう。
 とても意味深な言葉を胸に送ったせいか、当日になるまで前田くんの態度で頭が一杯だった。
 ――朝。
 私は洗面台の鏡の前で青いあざに触れた。
 インクを零したような青。
 コンシーラーを使えば目立たなくなるだろうか。
 化粧を覚えようか、悩む。

 ――私が学生会館に着いた頃には、既に何人か到着していた。
 柊部長が会場設営を手伝っている。
 ――地区予選の会場だからといって特別扱いがあるわけではない。礼儀正しく。
 柊部長が張り切っている理由を私は知っている。
 琴音さんも到着済みだ。
 必要な数の長机を整列させて、残りを大部屋の後方に寄せる。
 高文連から借りた大会用の将棋盤と駒を、長机に並べる。
 琴音さんは「緊張して眠れなかったね。皆が、勝てるか気になる。前田くんが落ちないように。沙織さんも前田くんの応援だね」と言う。私は、不敵だなと思う。何かが凄く不敵な琴音さんの顔。そして、二回戦まで書いてあるトーナメント表を参加者に配った。四人一組で各組二勝した者が予選を通過する。
 参加者が各自の席に座る。今に始まったことではないが、将棋部らしく落ち着いた風貌の人が多い。
 一回戦が始まる前に、私は前田くんの肩を叩いた。
「頑張ってね」
「俺はまだ級位者だから、これくらいしか挙げられそうな成果がないからな」
――そうだね。集中させてあげよう。
 私は、琴音さんの背中をポンと叩いて、柊部長のいるほうに誘導した。
 対局中の前田くんは遠目に見守る。
 ――前田くんは一回戦を圧勝する。
――相手の子がまだ一年生だから。でも前田くんは強くなったな。
 前田くんが、去年は定跡も知らずに出場してコテンパンにやられたのが懐かしい。
 私は声を掛けようかと思ったけれど、やめておいた。
 二回戦をすぐにおこなうため、一回戦の感想戦はなかった。
 そもそも対外試合で感想戦をする人は有段者が多い。
 前田くんの二回戦の対局が始まる。
 私は、今度は覗いた。
――先手の前田くんは矢倉。相手は……雁木? 雁木の使い手は部にいなかった。これは苦戦するかも。
 前田くんは序盤から中盤にかけて劣勢だった。右四間飛車に振った雁木に相右四間で迎え撃つが、あれよ、あれよという間に、後手が、先手玉を寄せられれば勝ちという展開に。
――強い人が見たらなんて思うのだろう、前田くんは劣勢どころか敗勢かもしれない。
 すると琴音さんも近くで見に来た。
 私より棋力のある琴音さんは真剣な眼差しで、盤面を見ていた
――まだ終わっていないのか。
 その後、後手は数手自陣に手を入れ、寄せ切れず端を攻め始める。
――前田くん、取り返したかな?
 琴音さんはまだ真剣な眼差しで盤面を見ていた。
――まだわからないのか。
 残り時間は前田くんが有利だ。
 私は、入玉を狙っても面白いのではないかと思った。
 前田くんは攻めに転じて、寄せた。
 ――そして前田くんが勝った。
「参りました」
 相手の小声が私にも聞こえた。
 前田くんは椅子の背もたれにガタッと体重を預ける。
「ありがとございました」
 フウッという溜息が零れた。――間髪入れず、琴音さんが感想戦を始める。
「終盤は双方にミスがあったね」
 琴音さんは盤面を指差して指摘をする。
――ずっとシーソーゲームだったのか。
 対外試合の琴音さんは口調が厳格だ。部活の時とは全く違う話し方をする。
 根が真面目な人だよなと改めて思う。
 琴音さんの指摘を受ける前田くんの口調は歯切れが悪かった。
「そうだね」
 言葉が弾まない。
 やっぱり、本当は琴音さんのことが苦手なのではないかと思う。
 私は感想戦をする前田くんの代わりに「前田義人が勝ちました!」と大会運営係である他校の教諭に伝えた。
 つい声が力んでしまった。
 それを聞いた柊部長が、「どれどれ」と言って感想戦に参加する。
 駒をパチ、パチと動かして、前田くんは盤面を中盤まで戻す。
「雁木か! 雁木だったのだな! これは苦戦するなあ!」
 前田くんは「はい!」と今度は歯切れよく返事をする。
「先手は五筋で反発するとき、端を突き捨てておきたかったね。銀も五三に戻すのではなくて六四のまま攻め合いかな」
「囲いは固いに越したことはないと思ってしまいました」
「四筋の位を取られた時に五五歩から暴れたかったかな。攻め合わないと囲いの固さは生きないからね」
 それから、前田くんは柊部長に繰り返し質問をしていた。
 時間を忘れたように熱心に感想戦をする。
「前田くんは強くなったね」
 柊部長の言葉に、前田くんは嬉しそうに、笑った。
 前田くんの勝利が呼び水になったのか、同級生は全員、県大会出場が決まった。
 ――そして、昼前に地区予選は終了した。
 松岡くんも「前田くんが頑張った」と自分のことのように嬉しそうだった。
 人がゾロゾロと退出し、学生会館を去る。
 私達の部で会場の片付けをする。
――前田くんはおめでとう。
 前田くんは、部長と熱心に何かを話していた。
 背が高く、頭が高い前田くん。
 学生会館の大部屋で、これから帰宅する人達に紛れて、私は歩み寄った。
「前田くん、おめでとう。何の話をしているの?」
「部長が、新聞社の昇段審査を受けなよって言ってくれた」
「私が春休みに落ちたやつだね」
「村家ももう一回受けよう。初段になろう」
――いいよ。
 私は、携帯端末を取り出す。
 アプリのアイコンを長押しすると、QRコードを表示させた。
「これを読み込んだら昇段審査のページが開けるよ」
 前田くんは「ありがとう」と言いながら、携帯端末を重ねた。前田くんはまだわからない所が多いけれど、今すぐ付き合いますとかじゃない。先生や部長に心を開く前田くんは、真面目で硬派だ。何かが起きるわけではないし、大丈夫。
「あれ? これは?」
 私が長押ししたのはメッセージアプリのアイコン。
 QRコードはお友達登録だ。
――なんて言うかな?
「もしかして、これにアドレスを送ってくれるって意味か?」
「そうだよ!」
――いつもより明るい声が出た。前田くんの第一声にホッとした。
「だな! 便利だな! 問題の答えを相談する用じゃないよな?」
 予選を通過してご機嫌なのだろう。今日の前田くんは冗談を言う。
――バイバイ。シーユーアゲイン。
 私はその場で昇段審査サイトのアドレスを送る。
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃあまたね」
 前田くんは、琴音さんが本当は苦手なのだろうなと思った。そりゃ、胸のうちを洗いざらい話してくれるわけないものね。
 ――この日の晩。
 私は、琴音さんに報告した。
「前田くんと連絡先交換したよ」
 メッセージに既読がつかない。
 私は「取り込み中かな」と思って、眠りについた。
 ――すると朝には、大量の返信が来ていた。
「なんで?」
「報告するのはどうして?」
――月曜の朝にこれはきついなあ。
 私はなんて返すか悩んで、……そのまま送った。
「月曜の朝にこれはきついなあ」
 するとすぐに既読がついて、猫のキャラクターが「ごめんね」と言うイラストが送られてきた。
――流石、琴音さんだな。
 私は思わず感心してしまった。男子から見た琴音さんはこの猫のイラストだ。

 ――そして私は登校した。
 クラスに友達らしい友達はいない。
 クラスメイトという距離感の知人がA、B、Cといるだけ。
 前田くんのこと、少し頑張ってみようかなと思ってから、また少しずつ悩んでいた。心の中で、前田くんと無人島で二人きりになっている気がしてしまって。
 一年かけて描いた風景画のような、私の高校生活。その絵から零れ落ちるように、恋愛の真似なんてしている。――期待より不安が勝る。
 友達が少ない人はまず友達作りが大事なのではないかな。――恋愛って、琴音さんみたいに、輪が広がっている人のやることなのではないのかな?
――男子の友人なんていないから、前田くんの些細な挙動で「なに? なになに?」ってなる私は……。
 昼休みに携帯端末を見ると、新しいメッセージが来ていた。
「前田くんは我が強いよ。カッコつけているし。松岡くんは、全人類に優しいから。松岡くんのチャラけた仕草は優しさの表れ」
 私はドキッとして、「ああ! そうなの! 知らなかったなあ!」と返事をする。
「服を買いに行こう! 一緒に買いに行こうよ! デート用の服を買おう!」
「なんでそんな!」
「いいから! いいから!」
「服……バイトしていないからな……」
 私はメッセージアプリのトークルームを閉じた。負けた気持ちでいっぱいになった。私は琴音さんと勝負したいわけではないのだけれど、心のどこかで可愛い琴音さんに負けたくない。

 ――私はこの日の部活を休んでしまった。

――デートなんて出来ないよ。
 私は折れそうな心を励ましながら自宅で、机に突っ伏した。
 青いあざなんて考えたくもない。
 そんなことを気にしていたら、服とか、マナーとか、覚えなきゃいけないことが沢山あることにも気がつかない。
 でも現実に存在する顔の青いあざは消えない。
 お化粧を覚えようかな。
 自分の顔に塗料を塗ることに、私は抵抗があった。
 
――でも、やらなきゃ!
 
 私はインターネットで検索して必要な道具を調べた。
 努力しよう。将棋のように。
「大人になったら好きな人ができるのかな?」
 中学時代に友達に言った言葉を思い出した。人を好きになるなんて、大人になったら始めればいいと思っていた。小学生の頃に運動の出来る男子をカッコいいと思ってはいたけれど。
 必要な道具の大半を母が持っていたので参考にした。BBクリームが二千円以内。ファンデーションが二千円以内。コンシーラーが二千円以内。日頃、買いたいものを我慢すれば揃えられる金額だった。
 桜色を目の下や青あざの中心に薄くのせる。
 境目を指の腹で軽く叩いてぼかす。
 肌色のファンデーションをその上からごく薄く重ねる。
 順番通りに薄く塗るだけで、ずっと自分に自信が持てたのだった
――こんなに違うの? 何が悲しかったのだろう!
 私は、今度は顔全体にベースメイクを施した。
「これが私か」
――この顔を自分だと思っていよう。本気を出せばこうなると思っていよう。

――そして翌日の学校。
 メイクはして行かなかった。家でこっそり練習する用に買ったことにした。
 教室で、私は思い切って同級生の輪の中に入ろうとする。
 同級生たちに尋ねたら「そんなことで悩んでいたの?」と笑い飛ばされてしまった。
「もしかすると村家さんは、美的なものに敏感な人になのでは?」
 同級生たちは、すんなり輪に入れてくれた。話してみたかった、よかったと言われた。
 部活の時間も、私は、琴音さんを起点とする同級生の輪の中にいた。
 琴音さんの周りは確かに居心地が良い。
 琴音さんも嬉しそうに、「昨日、またケーキ屋さんに行ったの!」などと語り、会話が弾む。
「今度こそ、皆で行こうよ!」
「そうだね! 同級生全員が県大会本戦に進んだお祝いに行こう!」
 私は精一杯、明るい声で行きたいと伝えた。自分に自信を持って、声を前に発した。
「動機が真面目だね! 皆で行こう!」
「前田くんは?」
「お! そうだ! 前田くんも行こうよ!」
「前田くんも一緒に行こう!」
 前田くんは目を見開いて「え? 俺も?」と言う。
 松岡くんが 「村家さんの発案で、『予選突破おめでとう会』になったから、前田くんも行こう」と言う。
「行く」
 前田くんはボソッと返事をして、ガタッと立ち上がる。
 部長に「すみません、今日は皆とケーキ屋に行きます」と礼儀正しく伝える。
――前田くんも来る。
 前田くんが背筋を伸ばして溜息をつく。
「行こう!」
 私はこの挙動が意外だった。前田くんの表情が急速に打ち解けて、徐々に嬉しそうになる。
 松岡くんも「おし! 皆で行くぜ!」と楽しそうだ。
 そして同学年全員でガヤガヤと部室を退室する。
「お疲れ様です」
 四月のぽかぽか陽気に包まれた道中も騒がしかった。
 松岡くんは「初だよね? 同学年全員で遊ぶの!」と楽しそうに笑う。
「村家もケーキ屋に行きたがるのな」
「前田くんこそ」
 会話が少し途切れる。
 繋ぎ止めるように言葉を放つ。
 前田くんは「村家は家、どのへん?」と尋ねる。
「市役所のほう。消防署とか、あるでしょ。あの辺の家々の中にある」
「ああ。図書館に行く道にある、あの辺りか。治安はいいのか?」
 私は自然と笑みが零れた。
「治安が気になるの? 治安はいいと思うよ」
――なんで治安が気になるのでしょう?
 店に着くと六人掛けが空いていた。
――何にしよう!
 私は、今日は苺のショートケーキにした。
 前田くんはチーズケーキだった。
「俺、チーズケーキでいいや」
 声の響きを聞いて、私は心のどこからか声がした、好きな人と一緒でいいね、と。
――やだな、まだショートケーキの苺くらいだってば。
「皆は家でテレビは何を見る?」
「お笑い」
「歌番組」
「村家は?」
「私は公共放送しか見ないよ」
「俺はスポーツしか見ない」
――前田くんとの距離が近い。
「スポーツは私、ダイジェストじゃないと無理だな」
 松岡くんは「録画して、早送りで見ればいいじゃない」と笑う。
「いや! テレビ局がせっかく作ったダイジェスト動画を見ようよ!」
――前田くんが松岡くんにツッコミを入れた!
 これには一同、大爆笑だった。
 前田くんがツッコミを入れるのが意外過ぎた。
 アッハッハという声に包まれて、少し気まずそうにする前田くんと、誰よりも笑う松岡くん。
 話は盛り上がる一方だった。
 ずっと皆で話をしていた。――柊部長って、大学はどうするのだろうねと誰かが言うと、そこからずっと柊部長の話題になった。
 私達は暗くなるまで店にいた。
 帰る時、暗くて見えにくいが曇り空だった。
 月も隠れ、星が見えない夜。
「雨が降らないでよかった」
 一人、また一人と流れ解散していく中で、琴音さんは松岡くんと帰って行った。
 丈の短いスカートの後ろ姿を私と前田くんで見送った。
 私は、前田くんが帰ったら、帰ろうと思って、立って佇んでいた。
 携帯端末をいじらずに、ジッとしていた。
 前田くんが「じゃあね、村家」と言って、立ち去るだろうと思った。
――二秒、三秒。
「村家は三石と仲良くていいな」
「へ? それは女の子同士だもの。前田くんも、松岡くんと仲良さそう」
――また二秒、三秒。
「雨、降るのかな?」
「予報をアプリで見られるよ! 見てあげる」
 私はアプリをタップして今後の天気を確認した。
――今日は深夜までくもり。明日が雨。
「村家。公園に寄って行かないか」
――え?
 私は「明日が雨だよ」と教えた。
 前田くんは私を見る。
 上から、凛とした眼だ。
――カッコつけていると琴音さんが言うのはこのことか。
 一瞬、心が引き裂かれるように胸が痛んだ。
 前田くんが何を考えているのかわからない不安が不思議と湧かない。その代わり、もっと人の輪に入れとか、やっぱり容姿もパッとしない自分を恋愛対象として好きになる人はいないとか、そういう劣等感が心を切り裂いていく。
 そこに前田くんへの信頼が熱を帯びて流し込まれる。
「雨は降らないよ……だから……いいよ。公園で何の話しがしたいの?」
 私は言葉を発した瞬間、胸が焼けるように熱くなった。
「琴音さんのことかな? 琴音さんのことが気になっているの?」
 遮るように前田くんは「三石が心配で」と妙に濁した言葉で返事をする。
「公園に行こう。前田くんのことを知ってからでないと相談に乗りようがないものね」
 
――本当はそんな予感がしていたのだ。

 二人で歩く記念公園までの道で、一年生の頃の話をするうちに、まるで私と前田くんの間に、一個の生物がいるような感覚を覚えた。毛むくじゃらのフクロウのような生き物が、間に入って一緒に歩いているような不思議な感覚だ。
「俺、マネージャーだけは絶対に嫌だった。昨日まで身体を鍛えていたのが、恥ずかしいと思って、カッとなって辞めた。でも今は違う。バレーボールが好きな気持ちが残った」
「それで体育館を覗いているの。未練があるの?」
「未練はないよ。怪我をした選手の肩を叩いて『お前が悪い』と言うのは間違っている。ただレギュラーメンバーと揉めごとを起こした時は、怪我で離脱した選手に『お前が悪い』と言う。それがスポーツチームだと思っている。そして、コートの外で言い合ったり、コートの中で励まし合ったりする所がバレーボール選手だと思う。俺は、正しく選手で終わったと思える。マネージャーは恥ずかしい立場ではないと改心したけれど、俺は選手がよかった」
「将棋は怪我とかないものね? 盲目でも出来るよ」
「村家はそういうことを平気で言うところがあるよな。怪我や障碍を乗り越えた人でないと、言葉が芯に刺さらないぞ」
「芯に刺さるって何?」
「この人の話しを聴かなきゃいけないなって思えることだ。壁に画びょうで貼られるように、そういう気持ちにさせられる。村家が、怪我とかハンディキャップの話をするときは、そんな気がしない」
――ふうん。
 記念公園の入口まで来た時、思ったより真っ暗な闇が待ち構えていた。
 前田くんは中に入らない。
 思ったより暗いからやっぱり帰ろうとも言わない。
 
――会話がストンと本題に入る。

「三石は何をやっている? あんなに良い所があるのに」
「いろんな男子と仲が良かったり、気に入ればデートをしたりするのが不思議?」
「そうだ。教室でも沢山の男子と話している。逆に女子といえば、教室でも、村家みたいな相方を一人つくっただけで、どちらかというと男子の輪にいる」
「同じクラスなの?」
「ああそうだ。三石は器が広かったり、頭がよかったりする。男だったらキャプテンとかが務まるタイプだろう。それがデートクラブみたいな真似をしている。女に生まれたらそうなるものなのかと思うと、悔しい。せめて危ない目に遭うなと思う」
「それで、その問題をどうしようというの? 私に何が出来ると思うのだろう?」
「俺が守りたい」
――え?
「ただし親衛隊はごめんだ。たった一人しか座れない椅子に俺を座らせて欲しい」
 私は、背中からじわりと汗が出るかと思った。
 前田くんにとって、私は一体何者だろう。
――もしかして私は罠に捕まった悪戯猫かもしれない!
「村家はそんな俺をどう思う?」
 顔が紅潮していくのを抑えられない。なぜ、私に尋ねる? ただ、逆に「私は何なの?」と尋ねることで、この先の展開が上手く行く気がしない。
 私は、携帯電話を落としてしまった。
 ガシャッ……!
 会話が止まる。
 わざとではない。
 ただ前田くんの足元に落ちた携帯電話を、私はゆっくりと拾った。
 腰をかがめて、前田くんの靴紐が見えるような位置で拾う。
「すまない」
 二人の間を沈黙が支配する前に、前田くんが口火を切った。
――謝られた。
 ここで私は、心に賢者の声のような言葉が響き渡った。

――ここで見せたお前の優しさがこの男の全てになる。
 
 私は起き上がる。
「強そう!」
 私は、まるで時間を止める魔法が、使えるような気持ちになった。
 前田くんはハッとした顔で私を見る。
「強そうだよ、前田くん。琴音さんは安心だね。もっと隣にいたら? ……帰ろう。帰るね? もっと隣にいたらいいよ」
 後からじわりじわりと、「琴音さん、よかったね」という気持ちが沸き上がってくる。
 私は前田くんに背を向けて一歩、二歩、来た道を引き返す。
「村家……」
「なに?」
 私は振り返らない。
 このまま元に戻ろうか悩んでいる最中ですよ。四月は春だから仕方がないなんて、何年かしたら思うのかな? この年のこの季節を。
「村家も、俺が……」

――え?

「村家も大切な仲間だから。俺が守りたい」
 私は、ゴクリと唾を飲み込んで、立ち止まった。
「前田くん! 男の子が女の子を守る時代は終わったよ!」
 私は振り返らずに叫んだ。
――たぶんそういう誤解をしているのだろう、この男前は。
「家まで送るなんてダメだからね?」
 私と琴音さんのどちらを好きなのか聞く勇気も、義理もないと思ったものの。いいや、義理ならあるだろう。
「どっちが好き? 教えてごらんなさい!」
 前田くんは数秒間沈黙した。そこで悩むってどういうこと?
「三石」
 私は、教えてあげようと思った。
「女の子には『ちょっと好き』というのがあるし、すぐに付き合いたいわけじゃないよ。『試しに』とか『付き合って確かめる』とかはまず無いよ。デートをすれば『この人と付き合っています』と街中に知られると思うよ。『ここまでしか許せない』というブレーキを一緒に踏んでくれるか不安だし、踏んでくれて申し訳ない気持ちまでは汲んで貰えない寂しさもあるよ」
 前田くんは目を見開いて、聞いていた。
 ――私だよ、それは。だって琴音さんは、違うもの。
「友達だね。こんな話までしたのだから」
 私は気持ちを落ち着けて、友達、友達と言い聞かせるように帰ろうとした。
「俺からバレーボールを抜き取ったら、案外とても弱い人間だった気がしていた。本当は弱い人間なのかと」
「本当は、とかはやめてよ! 意味がわからない! 前田くんは間違っても弱い人じゃないよ!」
「友達を大切にする。俺のことを強いと言う村家を大切にしたい」
 私は前田くんの言葉を聞いていた。まるで掬い上げた小さな大切な心を前田くんに預けるように。
――高校の頃は友達がいたの。背が高くて、男前の友達がいたのよ。
 十年、いや二十年経って、そんな話を新しい自分の家族にするのだろうか。
 私は感情が高ぶった。
――また来年の春に、もしかしたら花が咲くかもしれない心。
 青いあざを隠すのに便利な丸眼鏡も、覚えたお化粧も、前田くんの頑固さには歯が立たないと思ったけれど。青いあざなんて、気にも留めない様子の前田くんが、本当はもう私を守っている。私も、前田くんが本当の意味で怪我を乗り越えられるように、近くにいる。

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