日本円は強い通貨だ。
「何を馬鹿なことを。未曽有の円安ではないか」
と思われるかもしれない。しかし、ここで述べているのは為替レートの高低ではなく、世界経済からの信任の度合いである。
世界の外国為替市場において、取引の片側に最も頻繁に登場する通貨はアメリカドルであり、その割合は三十年以上にわたり九割前後を維持している。次いで取引量の多い通貨はユーロであり、その割合は三割前後、日本円は二割弱である。合計が百パーセントを超えるのは、一回の取引に必ず二種類の通貨が登場するからだ。
通貨を世界からの信任の度合いによって並べるならば、日本円が上位に位置することは間違いない。
貨幣が信任されていない状況とは、
「貨幣を持っていても、明日その貨幣で生活に必要なものを購入できる保証がない状況」
と言い換えることができる。
貨幣への信任が低下すると、人々は交換手段として貨幣を用いることを避け始める。代わりに、現物資産を保有したり、直接的な交換関係に依存したりするようになる。
古典的な経済学は、貨幣のない世界を物々交換から説明した。しかし近年の経済人類学は、貨幣以前の社会では単純な物々交換だけではなく、贈与や互酬、信用関係が重要な役割を果たしていたことを明らかにしている。
また、異なる集団同士の交易では「沈黙交易」と呼ばれる方法が用いられた例も知られている。互いに姿を見せず、決められた場所に余剰生産物を置き、相手がそれに見合う品物を残していく。後に商人や市場が発達する以前にも、人々は様々な方法で交換を成立させていたのである。
あえて人間社会に貨幣が必要とされた経緯については、物々交換における欲求の二重の一致というロジックがある。
リンゴを持つ人がバナナを欲しければ、バナナを持ちながらリンゴを欲している人を探さなければならない。交換したい財の種類が増えるほど、取引成立までの時間コストや交渉決裂のリスクは増大し、この問題は急速に複雑化する。
貨幣は、この問題を解決する。
貨幣が広く信任されている社会では、人々は自分が必要とするものを直接生産する必要がない。自らの労働によって貨幣を獲得し、その貨幣を通じて他人の生産物と交換できるからである。農民は農業に専念できる。鍛冶屋は鍛冶に専念できる。さらに市場が大きくなれば、楽器職人や小説家、研究者、漫画家、ゲームクリエイターのような、生活必需品を直接生産しない職業すら成立する。もしも、貨幣の信任が低かったり、市場が安定でなければ、彼らは貴族や資産家の「おかかえのひと」になるしか生きる道はない。彼らは主人の機嫌を損ねることは出来ないし、気まぐれに処刑されることもある。
貨幣への信任が高い社会ほど、人間は自らの才能や関心、予め持っていた財産と相談したり、教育を受けて(均等な機会に則って、能力に応じて)労働を選択できるようになる。その際、自己実現を求めることも可能になる。音楽が好きだから音楽家になりたいという願望は、貨幣があり、市場があるから成立する。
その一方で、資本主義社会において人間が労働から疎外されることは多くの社会科学者が指摘する。確かに巨大な市場と分業は、人間を生産工程の歯車へと変える側面を持っている。貨幣への信任が存在するからこそ、生存に必要な貨幣量の水準(以後、生存ライン)が引かれてしまう。その水準を、要は手に職のない者がクリアしようとする場合、身一つを労働力として資本家に売り渡すことになる。生存ラインを下回る危険のある者は、自らの関心よりも生活を優先して職業を選択せざるを得ない。労働者によっては、賃金が、生存ラインを余裕をもって超える形で、余暇活動に没頭するかもしれない。彼らは、「就労で自己実現を図る」という生き方の基準点から見て、不幸な人と言われる謂れはないと感じるかもしれない。そもそもここでいう幸福な人というのも定義が難しい。もっとも狭い意味で幸福な人とは成功した音楽家なのだろうか。それもわからないし、そもそもここでいう幸福と幸福でないの間に挟まって、皆、決断して今がある。こうした職業選択の結果を、しばしば社会は自己責任として理解する。
本稿の目的は、現代経済を別の角度から眺める視点を提示することにあった。一般に貨幣は格差や労働の疎外を生み出すものとして論じられる。しかし同時に、貨幣への信任は分業を発展させ、人間が自らの関心や才能に応じた労働を選択する条件ともなっている。日本円への信任は、単なる金融上の問題ではなく、こうした多様な職業や生き方を支える社会的基盤でもある。円への信任が低下するとき、失われるのは為替レートだけではない。私たちが当然のものとして享受している労働の多様性そのものかもしれない。


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