近代――江戸時代の経世家・本多利明を訪ねて

近代とか、近代化と聞いて、明治・大正を思い浮かべるのは自然なことだ。江戸から明治・大正にかけて社会が大きく変わったという認識のひとがほとんどではないだろうか。ただ社会が大胆に変容することを近代化というようでは、理解が浅い。

何を根拠に明治・大正が近代なのか、この頃起きた社会変化の一例を挙げると、たとえば電灯などの現代的生活インフラが整備されはじめた。京都市の家屋電灯の普及率は、日露戦争中の1905年に8.4%であり、1912年に50%を超え、第一次世界大戦中の1916年に90%を超える[1]。全国26府県で市部(都市)と郡部(都市以外)の電気普及率を比較したデータによれば、市部の電気普及率は1910年に16.71%だったのに対し、1920年に95.29%だった[2]。郡部では4.84%(1910年)から52.72%(1920年)に上昇している[2]。1920年の日本は、電気普及率でみれば、現代のウガンダ、ギニア、タンザニアなどの国々に類似している。現代的生活インフラの充実を見て、その国が豊かだとか、進んでいるとか、言う事は可能だ。

日本が、まるで沈黙を破ったかのように豊かになった時期があって、それが明治・大正だと思っている――それは、あながち間違いではない。日本は、アメリカと西欧を真似たし懸命に追いつこうとした。ただし、日本のキャッチアップには明確な動機があった。それは江戸時代末期に締結された不平等条約の改正交渉だ。当時の、現代的な国際機関を欠いた国際社会で、欧米を相手方に二国間が対等な関係を結ぶには、貿易や軍事のパワーで肩を並べ互いに利用価値を持つだけではなく、①近代的な法律が整っている(刑法・民法・商法など)、②裁判所が機能している(手続が明確、判決が実行される)、③行政や警察の運用が恣意的でない(一定のルールで動く)、④外国人・外国企業の契約や財産が守られる見込みがある、などを必要とした。

西欧がどれくらい先進的だったかを説明するうえで、アダム・スミス(1723–1790)は着目に値する。彼はスコットランド啓蒙の思想家・経済学者で、『国富論』(1776)で分業や市場の働きを通じた富の増大を理論化した。自由放任の主張で知られるが、国家の役割として国防・司法・公共事業も重視し、契約や財産を守る法の支配が商業社会の前提だと考えた。この思想は、スミスが突拍子もなく思いついたものではなく、当時の西欧を飛躍なく理論化したものだ。ただし、スミスが『国富論』の中で自由貿易(c.f.対義語として保護貿易)を奨励したことについては、84年後の1860年英仏通商条約の成立をもってようやく対外関係に波及している。注意すべきことは、キリスト教的な「強欲」への警戒や、貴族的な名誉観から、商業・利潤に対する道徳的な抵抗があったこと――前時代から重商主義といって、国家が商業を文明化の力として肯定する方向性があったものの、社会全体の価値観として「商人は立派」という風潮が生まれるには、長い時間がかかっている。

日本の江戸時代は、建前として「商い=利を取るから卑しい」という価値観が存在したものの、実際には都市経済が発達し、武士や藩も商人の資金・流通・信用に依存し、価値観は内側から揺ぐ。徳川吉宗(1684–1751)は商品作物の栽培をすすめ、新田開発に商人資本を投入させ殖産興業をはかったが、商業の自由な発展を促進するよりもむしろ商人と町人を厳しい統制下に置いた。田沼意次(1719–1788)は、幕府収入の直接の増加を企図し、御用商人を育成した。御用商人は当時の思想家から憎まれていた[3]。

江戸後期の経世家・本多利明(1743–1821)は、鎖国の只中にある日本で国際貿易の必要性を論じたが、担い手は商業者ではなく、政府が直接経営する官営貿易の必要性を説いた。本多は著書『経世秘策』(1798)の中で、貨幣と金銀銅について、下記の様に論じている。

貨幣は国の生産物の流通を仲立ちする役目を果たす。それ自身に価値があるのではなく、貨物との関係、貨物に対する役目の故に価値を持つ。長期的な価格相場を見定めて、丁寧に貨幣供給量を調節することで、価格を統制すべきだ。流通させない貨幣は厳重に保管しなければならない。

貨幣として流通する金銀を制限なく市中に流すなら、規格外に豊かになる庶人が出て来るだろう。彼らは国政に害をなすだろうが、奸商が、こっそりと外国へ金銀を横流しにするかもしれない。それはよくないことだ。金銀銅は貨幣の用途になるもの以外は全て幕府が買占め、厳重に保管しなければならない。

金銀銅は、藩の買取価格が高すぎて、生産費、人件費を賄うことができない。もしもそのような制度がなければ、売手と買手が自由に値付けをしただろう。やがて金銀銅が外国へ流出して、幕府は「国の骨」を失っただろう。藩の買取価格は間違った制度だが、助かったのだ。

また『西域物語』(1798)の中では下記のように論じている。

長崎の出島で、昔は税さえ払えば何人も外国人と取引交渉が出来たが、しばらくして取り締まるようになった。おかげで金銀銅が無数に外国へ流出することはなかったし、もしも取り締まらなければ日本から金銀銅は無くなっていただろう。官営貿易となった後は、市中の商人の訴えを受けて、事業規模に応じて役人に登用する様になった。出島にいる者の十人に八、九人は役人だ。

著書の中で、本多は貨幣について、「信用貨幣」だと理解するが、同時に「国の骨」ともいえる重要な貴金属とも理解する。日本国内で無秩序に流通することはよくないと考えるし、外国へ無秩序に流出することに至っては並々ならぬ警戒心を持っている。動機として、本多は、田沼意次の時代に保護育成された、高利貸しのような御用商人達に疑問があったといわれている[3]。さらに本多は著書『西域物語』で、日本を「海国」と見定めながら、下記の様に論じている。

海国が備えるべき天文、地理、海洋渉渡の道を開き、国君の船舶をもって、天下の国産を渡海、運送、交易をもって外国と有無を通じたならば、国中の産物にみちかけもなくなり、物価も落ち着いて、庶民の産業に勝劣もなくなる。庶民の恨悔、憤怒の遺念もなくならば、真実に有難く思ひて万民より治る道を勤めて、治ざれた万歳の基を開く風俗とならばなんぼう目出度事に違いない。

本多の論点は、もしも君主同士が船舶によって交易をしたならば、やがて心から有難がって万民のほうから世に治まるというものだ。本多の問題意識の出発点は活火山噴火による飢饉だといわれ、本多が憤りを感じたことは、幕府が農民を虐げること、農民が武士からも、商人からも搾取されていることなどだ[3]。その一方で造船、科学技術や航海術が海国・日本に必要不可欠なものだと論じた[3]。重商主義とか、重農主義とか、西欧のパラダイム――大航海時代が存在しなかった日本で、果たして本多の思想が似通っているのはいずれであるかを論じることはナンセンスである。ただ、本多が渇望したものが、まるで200年以上経った現代日本を一部言い当てている気がしても、当時としては我が国の社会経済に根拠の無い空論だった。本多の論述に「正しい解決方策だ」と言いながら援用する現実の事実が当時我が国に何一つない――当時輸入物だった蘭学を基に構築された理論であるというのが定説だ。理論を基に理論をつくったのだ。ただし喜田川守貞(1810~?)の著書『近世風俗史(守貞謾稿)』の「貨幣(巻之八)」に、「昔から世界各国と信用(信義)を通わせ、時には交易(商取引)をして、金・銀・銅といった貨幣(金属)を海外へ持ち出して行ってしまったことは、数え上げることなど到底できないほど多い」という趣旨の件りがあって、貨幣が流出しているという問題意識は他者に共有されていた[4]。

明治になると、条約改正や国力競争のために「富国」が最優先になり、政府は殖産興業・金融・会社制度などで商工業を国家目標として公認・奨励した。そこで「利は卑しい」という道徳より、利益=投資と産業化を進める力という見方が強まり、商人観は「身分の下」から「経済の担い手」へと転換していく。日本は商業の実態では早くから成熟したが、商業の正当化(尊敬される語り)が国家目標として前面化するのは明治以降だった。

近代とか近代化というものは、論者によって様々に作業定義されることはあっても、論者同士であまりにも話が噛み合わないということもない――18世紀後半以降100年間の西欧の体験を模倣すること――少なくとも、日本の場合そういう意味合いだったはずだ。

[1]田中尚人・川崎雅史・亀山泰典(2005)「電気事業に着目した近代京都の街路景観デザイン」景観・デザイン研究講演集 No.1 December 2005
[2]南亮進・牧野文夫(1988)「農村機業における力織機化の要因 1910-20年」経済研究Vol. 39 No. 4, pp. 308-315
[3]中沢護人・森数男(1993)『日本の開民思想』紀伊國屋新書
[4]喜田川守貞(著)・宇佐美英機(校訂)(1996)『近世風俗史(守貞謾稿)(一)』岩波文庫

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