2026.8.10 小説が上手くなりたかったら文字数がすべてかもしれない

 私が小説として書いた文字数はおよそ七十万字から八十万字くらいです。
 短編がほとんど、中長編が三作あって、それら自作した小説の文字数の総計が、およそ七十万字から八十万字だということです。
 学生時代のレポート、論文、ブログや小説以外の記事も沢山書きましたけれど、それらは除外します。

 さて三十万字を超えたあたりから、作品を生み出すことが楽しくなりました。
 表題の件、
「小説が上手くなりたかったら文字数がすべてかもしれない」
 という手応えを感じたのは、一年以上前です。

 それが今、あの時とは比べ物にならないくらい、まるで真実であるかのような実感を伴っています。

 私は、小説が書けると、数回読み返して、
「傑作が書けた」
「世界の藤倉だ」
 と思うことがよくありました。

 ――入選するとしたら、ここが評価されるのだろう。
 そんな自画自賛を繰り返していました。

 しかし今日、そのような慢心の固まりがまた公募で落ちました。
 ただ奇跡的に落胆はありませんでした。
 なぜなら、今日が結果発表とは知らなかったため、出版社のウェブサイトで偶然に結果を知る直前まで、
「そろそろ新しい作品を書くか。たったいまアイデアが思いついた。小説を書くのは楽しい。書くこと自体がすごく楽しい」
 というメンタルだったからです。
 そして不思議なことに、あることに気がつきました。

 ――落選、それも一次選考で落ちるとしたら、どのような理由でそうなると思いますか?

 公募によって、一次選考の基準は全く違う、運否天賦だという説もあるけれど、そうした議論をここでは避けます。
 要は「箸にも棒にも掛からぬ結果」になるとしたら、何を痛烈に否定されると思いますか?
 そのようなブレーンストーミングを、プロットの段階でやらないと、何度も何度も落ち続けるハメになりそうです。
 それに気がつきました。

 そして、そのようなプロセスで小説を書くには、プロットを作品にする工程については、
「データ入力」
「打ち出し」
 という感覚で、まるで無味乾燥なことのようにこなせないと、いけないのではないでしょうか。
 プロットが書けたならば、もう小説が書けているようなものになるまで、文字起こしが達者でないといけないはずなのです。
 ならば文字数の経験値が、その程度には達者な者に至るまで、蓄積されないといけないのだろうと思うのです。

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