ブラック企業
いわゆる「ブラック企業」とは、危険な長時間労働で人を消耗させたり、入社後に恣意的な選抜をして実質的に追い出したりする企業を指す。求人票に「当社はブラックです」と書かれることはないため、求職者は企業の内情を十分に知れないまま応募しやすい。ここには、情報を持つ側(企業)と持たない側(求職者)の差=情報の非対称性があり、不利な選択が起きる。これは公民で学ぶ「市場の失敗」の典型である。
同じ構図は人材派遣の世界にも見られる。競争が激しいなかで、見栄えのよい条件を掲げつつ、実際には募集が埋まっている、あるいは存在自体が疑わしい「空求人」を出し、登録だけを促す手口が散見される。派遣会社にとって主な顧客は人員を発注する企業であり、働き手は供給側の資源として扱われやすい。この構造が、求人の誠実さと実態のズレを生みやすい。
こうした不誠実さは「フリーライド(ただ乗り)」として整理できる。ブラック企業が実態を隠して人を集めるのは、他社が時間と費用をかけて育てた人材(人的資本)を、育成投資なしで使い潰すことに近い。同様に、空求人で登録を集める事業者は、真っ当な求人を出して市場の信頼を支える事業者の努力にただ乗りする。公園清掃を少数が担い、多数が恩恵だけ受ける例と同じで、雇用の場面では「育成」や「求人の信頼性」といった公共財が食い潰される形で現れる。
このようなブラック企業の広がりの背景には、バブル崩壊後、数十年にも渡る不況(c.f.失われた30年)の影響がある。特にデフレ不況期に台頭した低価格サービス業は、低価格を実現するため低賃金と長時間労働、つまり労働条件の切り下げを積極的に行った。このようなブラック企業にも就職を希望する労働者がいる背景に、働き口が少なく、待遇が悪くても無職よりは働いていられる方がよいと考える労働者が後を絶たない(c.f.労働市場の買手市場化)ことが挙げられる。ただし長時間労働や過労死は高度経済成長期から存在し、いまブラック企業が社会問題化したのは、労働者への見返りが乏しく彼らの生活が潤わないからだと考えることもできる。ブラック企業が広がったことも、いま問題視されていることも、全てバブル崩壊後の長引く不況に起因すると思われる。
そのようなブラック企業の出現は、経済不況などマクロの要因で促されるものの、単一の企業に固有の問題として考えることもできる。つまり抱える仕事内容、業務に高い能力を要しない企業ほど、そもそも無い仕事は教えられないし、雇用期間中に多様な能力開発を労働者に施す投資をしても、リターンが見込めず、投資のコストを自社で回収できないだろう。だからそうした企業は、上で定義したブラック企業的な振る舞いを労働市場でする状況に追い込まれやすいはずだ。ここでたとえば介護、運輸などは業界でみてもそのような企業の割合が多い。もしもそうした業界で需要が厚くなる、または参入規制の緩和などがあれば、ブラック企業を後々に増やす可能性がある。現に介護は高齢化で需要が増し、また運輸は参入規制緩和が90年代に執り行われた。ここに長引く平成不況が重なってブラック企業は増え、特に介護と運輸は、半ばブラック業界化した。
格差社会を解決する企業の役割
格差を考えるとき、所得格差は分かりやすいが、単年の年収比較だけでなく、生涯所得の差として捉える必要がある。正規雇用は職歴が長期化しやすく、生涯所得が高くなりやすい。一方、非正規雇用は短期・断続的になりやすく、生涯所得が伸びにくい。ここで重要なのが、企業内トレーニング(OJT)の機会が雇用形態によって偏っている点である。経験に応じて高度な仕事を任せる機会は正規に厚く、短期補充が前提の非正規には薄い。結果として、非正規中心の職歴は「年齢の割に訓練機会が乏しい」と評価され、再び非正規に戻りやすい負の循環が生まれる。雇用形態と所得格差を結びつける根は、この訓練機会の偏在にある。
是正策として第一に考えられるのは、トレーニング機会の均等化である。非正規であっても一定期間働いた人には、正規と同じタイミング・同じ水準の訓練を付与し、仕事の質の配分によって格差が固定化されないようにする。企業は「労働者を平等に育てる努力義務」を自覚し、それを社会的規範として広げる必要がある。ブラック企業が批判されるのは、外部が投じた育成コストにただ乗りし、獲得された職能を消耗品のように扱うからにほかならない。
貨幣信仰の罠
一方、現代社会には「お金があれば一人で生きられる」という感覚が広がりやすい。貨幣は生活機能を外部化し、選択肢の幅を広げる。孤立が進むほど、お金で買えるものの選択肢の多さが自由そのもののように見え、蓄財が善、職業が自己実現(天職)と捉えられやすい。この貨幣信仰ともいえる価値観で日本人は一人ひとりが本質的に孤立している――新卒の若い時期に特定技能へ賭け、その後も「高く売れる道」を選び続ける合理性を後押しする。優秀な人材であるべきだという呪縛は強烈なものだ。なぜなら一度貧困に転じると、選択肢を管理する余裕が失われる。貨幣が、生きる意味とは何かなどという次元ではなく、もっと直接に人間を縛りあげるのだ。時間もお金も気力も足りないと、情報を集めて比べたり、失敗した場合のやり直しを考えたりすることが難しくなる。その結果、人は複雑な状況を自分で整理するより、「これが正しい」「これに従えば大丈夫」とすぐ答えをくれるものや、強い言い切りに頼りやすくなる。外から見ると偏った判断に見えても、本人にとっては負担を減らすための現実的な選び方になってしまう。上述した格差社会の解決方策は、現実にはブラック企業という社会の暗部を育てかねないものだ。
背景にある日本型雇用慣行の崩れ
日本型雇用慣行のいま
日本型雇用慣行とは、終身雇用、年功序列賃金、企業別組合の三つを指す。平成バブル崩壊以降、長きにわたる不況(c.f.失われた30年)で、企業によるリストラ、業績悪化に伴う整理解雇が急速に増加していった。それをもって終身雇用は崩壊したという考え方もある。年功序列賃金とは、ある労働者が年齢や勤続年数に応じて賃金が上がっていくことをいう。こちらも長きにわたる不況で、成果報酬、業績に応じて賃金が上がっていく方式へシフトする企業が増えていった。それをもって年功序列賃金は崩壊したという考え方もある。



出典:『中学校の公民が1冊でしっかりわかる本』蔭山克秀
昭和高度経済成長とアベノミクス
| 高度経済成長を可能にした諸要因 | 1990年代以降どのように変化したのか | |
| 農業 | 技術革新による生産性の向上と近代化(c.f.農業の機械化) | 高齢化の進展、および産業構造の高度化による後継者不足、これらに起因する基幹的農業従事者の高齢化による生産性の地滑り的後退(c.f.高齢化農村) |
| 若年雇用 | 卒業と同時に企業に就職する新規学卒労働市場の制度化による雇用の確保(c.f.新卒採用) | 経済の長期低迷に直面した企業の雇用調整手段としての新規学卒採用抑制による若年失業者の増加(c.f.就職氷河期、フリーター) |
| 金融 | 量的拡大を目指す銀行と資金不足に直面した企業の緊密化による設備資金貸付や救済融資の積極化(c.f.メインバンクシステム、護送船団方式) | 1970年代からの金融自由化を遠因とするバブル経済。その崩壊後に銀行など間接金融は遅延(c.f.バブル崩壊、貸し渋り) |
参考
『チャート式基礎からの中学公民』編 数研出版編集部
『日本経済史‐近世から現代まで‐』著 沢井実・谷本雅之
経団連が、2010年代の終わりに「日本型雇用慣行の崩壊」を宣言したとき、日本はアベノミクスの最中にあった。当時は「少子化解決のため、女性は速やかに結婚をし、そして出産をすればよい」などの言説が、公的空間、私的空間を問わず散見され、含意として女性社会進出への批判(c.f.産む機械発言)があった。しかし、アベノミクスは女性社会進出を有益なことだと捉えていた。女性社会進出が進むほど少子化関連課題である社会保障財源確保や労働力人口確保に一定の解決が期待されるからだ。それに加えて、女性社会進出とは1980年代以降の政府政策(c.f.男女雇用機会均等法)で促されてきた、いわば世の女性に対する約束であり、上述の言説が社会で流布することは裏切りなのである。
そもそも女性社会進出と少子化解決が対立する(c.f.大卒女子、晩婚化)理由は、女性が、家族の世話人として生きていたいと考えようと、あるいは社会で活躍したいと考えようと、いずれにせよ家族の世話人として責任ある立場を果たすべきだという固定観念がまっているからだ(c.f.コロナ禍で男性の在宅時間が増えても、女性の家事労働時間は増えたという報告もあった)。これについては遡ること1960年代(高度経済成長期)以来の「女性は家族の世話人として責任ある立場だ、そうすることで男性が仕事に専念でき経済が発展する」という考え方を社会が脱ぎ捨てていないからだという指摘もある。昭和時代の女性従業員とは、職場の花と呼ばれ、未婚の間、短周期雇用を繰り返す慣習があった。少し話が逸れるが、正規-非正規の棲み分けとは、ずっと以前であれば男女の隔たりだったのだ。そして今でも現実に多くの女性が結婚を機に離職をする(c.f. Mカーブする女性の労働力率曲線、女性の非正規雇用)。結婚-出産-育児という人生の重大な出来事の連続にも関わらず、女性が働き続けることができ、またキャリアを積むことができる、そのような職場は、まだ少ない。
また少し話が逸れるが、正規雇用という概念が日本史の中で出現したルーツとは、明治期の立身出世の価値観にあるとされる。維新によって、武士の身分を剥奪された士族層を官公庁は大量に吸収した。実は江戸中期には既に、武士は刀を持つ戦力というよりは、むしろ識字率を活かして働くホワイトカラーのような存在だったことが密接に関係している。現代風に言えば公務員である。彼らの働き方は民業に波及し、大正期には「サラリーマン」という言葉が登場する。
少子化解決と矛盾なき女性社会進出とは、上述の問題の解消を意味する。具体的には、未就学児の世話を含めた家庭内の家事労働と、収入を得るため企業で働くこととを、夫婦で分業するだけでなく、選択肢として夫婦両立(男女ともが両方をこなす道)もあるべきだ。そうすることで、女性のキャリア形成も結婚-出産-育児と両立でき、それを可能にするための施策としては男性の残業時間の削減は取り掛かるべき課題だ。現状、男性と女性では圧倒的に男性が残業している。この実態をそのままに、たとえば裁量労働制を拡大(c.f. 働き方改革)しても男性は職場から解放されないと思われる。そこで労働時間上限の例外なき厳格化と、残業の可否を評価に直結させない規範づくりは行うべきだ。父母とも家族の世話人で、かつ働き手、そのような家庭を望んだとき、それが実現できる企業社会であるべきなのだ。
遠のく社会の公器
しかし、人の営みを育む社会公器として企業が存在し続けられるだろうか。松下幸之助が「松下電器は人をつくっています。ついでに電化製品もつくっています」と述べたことは有名だ。それでも現代企業の多くは、社会公器の役割を果たせずにいる。ジョブ型雇用など、企業は労働のプラットフォームに過ぎない――要は、業務と労働者の出会いの場という考え方は今後ますます進展すると思われる。企業は、いつか真っ当な企業に拾われて幸せになるはずの人を雇っているという考え方は、旗色が悪くなる一方だろう。

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