多文化共生とは
多文化共生とは、国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的なちがいを認めあい、対等な関係を築きながら、地域社会の構成員として共に生きていくことである。ここで課題となるのは自文化中心主義の克服である。自文化中心主義とは、自分の文化や体験が、暗黙のうちに、他者の文化や体験を推し量る基本となってしまうことである。同じ国籍や民族の者同士であっても、たとえば娯楽や余暇の過ごし方など、ある人が無我夢中に取り組んでいることについて、類似の個人的な体験を論って非生産的だ、時間の浪費だとみなしてしまう場面はありがちではないか。こうした考え方を、特に国籍や民族などの異なる人々と関わるうえで、克服せよということである。
Multicultural coexistence can be defined as people who have different nationalities and ethnicities respecting each other’s cultural differences, building equal relationships, and living as a member of the community. What matters here is that we should overcome ethnocentrism. The term means that one may judge others’ cultures and experiences based on his or her own culture and experience without knowing it. Even people who have the same nationality and ethnicity sometimes criticize each other, saying that what others are enthusiastic about, such as a leisure activity and hobby, is meaningless and waste of time. This way of thinking we must overcome when we communicate with people from different nations and ethnic backgrounds.
しかし現実世界では、まず生活レベルで「郷に入れば郷に従え」の如く外国人に地元民への同化を求める場面が散見される。あるいは国家が「ナショナリズム」の名の下に同化政策を実施するなど枚挙に暇がない。いままで国籍や民族などの異なる人々が共に暮らすと言っても、外国人側に様々な強制を伴い、前段落の意味で多文化共生的な社会とは言えなかった。
In reality, however, people tend to require foreigners to assimilate into the community as if to say “When in Rome, do as the Romans do.” Countries also implement assimilation policies in the name of nationalism. There are too many cases of this nature to count. At this moment, although people with different nationalities and ethnicities live together, foreigners are under pressure to assimilate. It can hardly be said to be a multicultural society as described in the previous paragraph.
さてSNSがもたらす功罪についてだが、これを考えるうえで、現実世界と違ってSNS世界では個人的に気に入らない人々との接触を回避できる、この特徴は無視できない。確かにSNSは遠く離れた人々との交流を促進するという意味で異文化交流を促進してきたかもしれない。しかし現実はどうだろうか。Twitterでは、まず興味関心の近い人同士のクラスタがあり、さらにその中に親しい者同士の相互フォロー関係がある。こうした関係性を構築するうえで参照するのが、プロフィールに書かれたユーザの特徴、または好きなもの、あるいは過去のツイート情報である。そしてTwitterでは、嫌だと思えばフォロー解除、そのような振る舞いも可能である。Twitterに代表されるSNSのこうした「気に入った人達とだけ関わりあいになれる」という特徴は、自文化中心主義をむしろ育てやすいと思われる。共通点があれば交流しましょうというスタンスのSNSが普及したことの功罪と言えるだろう。
When considering the pros and cons of social media, their characteristic cannot be ignored that in social media, unlike in real life, one can avoid communicating with anyone who he or she does not like. Of course, social media have promoted intercultural communication in that they have facilitated communication with people who live far apart, but we have to see the real situation. In twitter, for example, there are groups of people who share the same kind of interest, and in those groups there are closer mutual relationships between followers and following. When building those relationships, one refers to what is written in user profiles such as their personalities and interests, and their old posts. Those characteristics of social media represented by Twitter seem to strengthen ethnocentrism. This is one of the adverse effects brought about by popularization of social media where one can interact only with those who share the same interest.
用語解説
文化本質主義
異なる文化に属する人びとを、自分たちとは「本質的に」異なる人びとと考えること。別の言い方をすれば、同じ文化に帰属する人は、全く同じ行動や思考をするという考え方。※文化本質主義に対しては、穏やかに批判する論述が答案として無難である。日本国内の文物で「これぞ日本文化」と呼ばれるもののなかで、中国や東アジアの伝来であるものは多く、日本に限らず一概に文化的な文物が近隣諸国と融合的だったり親和的だったりすることが多いから。純粋なものとして文化を定義しながらワールドワイドな人間社会を改めてセグメント化(区分け、仕分け)することに、そもそも意味があるのか、という論点も可能である。
自文化中心主義
※上記の通り
文化相対主義
すべての文化が対等で優劣のないものとする考え方(c.f.多文化主義)多文化共生と最もnearly equalな考え方である。
価値相対主義
一人ひとりの価値観を対等に扱う※これに対する穏やかな批判として、人類の普遍的価値(人間社会の最大公約数的な正しさ)の追求までも放棄してしまうという指摘が可能である。
国際交流を進めるうえで、いま多文化共生とは人びとに広く認知されている。それは単一民族国家の日本も例外ではなく、多文化共生への意識をさらに高めていく必要がある。 2019年に区民のほぼ1割が外国人となった東京都の新宿区や、ブラジル人が多数暮らしている群馬県の大泉町など、全国に外国人がおおぜいで暮らしている地域がある。いま多文化共生の考え方は尊重されるべきであるし、具体的な多文化共生の取り組みも数多く存在する。 たとえばイスラム教で食べるのを許されている料理のことをハラルフードと呼ぶが、飲食店でハラルフードのメニューを提供している場合がある。イスラム教の信者が食事をしやすいようあらかじめ配慮した飲食店の取り組みは、多文化共生の具体的な例だといえる。宗教や信仰が違ってもそれをしっかり受け入れようとすることは、国際交流を進めるうえで、ひいては国際社会を形成していくうえで必要不可欠だ。 他にも国際交流のためのイベントが開かれるなど、多文化共生のまちづくりを促進する取り組みは全国各地で見受けられる。
食事の普遍的価値とは、たとえば皆とお話できて楽しいとか、新しいメニューで知識が開かれたとか様々に考えられる。そうした価値に触れる機会に宗教や信仰の異なる人々を招き入れることの良心が第一に評価されるべきだ。そのうえで合理的配慮をするということだから、文化相対主義的な試みのはずだね。誤解してはいけないことは「そうやって配慮することではじめて食卓に参加できる」と言った差別的な考え方をしてしまったり、配慮する側、される側という差別主義的な構造を疑ってしまったりすることはよくないことだ。そのようであっては文化相対主義的ではなくなってしまう。同じ食卓に宗教や信仰の異なる人々をお招きすることは、食事の普遍的価値を考える文脈における手法だよ、だから善い行いなのですよ、と言うことだ。
食文化に関連してもう一つ――生態系を保全することは人類活動の倫理観として重大なコンセンサスだ。その立場から商業捕鯨に反対する人たちの主張と、「イルカさんが可哀そう」という価値観の人たちの主張が混ざり合って日本の商業捕鯨には反対の声があがっている。海外の人々に正しく理解して欲しいことは、戦後の食糧難を回避する目的で仕方なくやっていたことが未だに息づいているという主張が、誤解だということだ。捕鯨は室町時代から日本人に親しまれてきた食材で、食べたい人がいるから漁をする人がいるということだ。しかしお皿の上に鯨肉が乗っていたらNo thank you.というのも一つの文化的価値なのだ。
外国人労働者

| 2010年代 | 外国人技能実習生の劣悪な就労環境はインターネット上の記事などを通じてひそかに知られていた。 |
| 2018年頃 | 特定技能(就労ビザ)で来日する外国人労働者と技能実習生との間にある差別と格差は問題意識の一つだった。また、この頃は「国際的な技能移転と国内人手不足の解消を同一に考えるべきではない。」という考え方があった。丁度、ブラックバイトとして話題の只中にあったコンビニ業界が特定技能に「コンビニ」を追加しようとしたときは大いに考えさせられた。 |
| 2023年1月 | 政府の有識者会議で、技能実習生の転籍(受入先企業を変えること)を制限すべきではない(働く会社を自分の意思で変えることができるようにすべきだ)と言う意見が出た。特定技能と技能実習生の差別を解消する意向もあった。技能実習生が受入先企業で不利な扱いを受けたときの実効的な窓口の一つである監理団体について、一部で企業側に迎合的なところもあるという意見もでた。その一方で、「国際的な技能移転と国内人手不足の解消は矛盾しない。」という考え方に大きく舵を切った。 |
ヘイトスピーチ
「ヘイトスピーチ」や「ヘイトクライム」、あるいは「レイシズム」といった言葉が日本で一般化したのは、2013年に入って以降のことである。ただし、言葉が流通し始めることと、そうした言葉が指し示すものごとが生じることの間には、たいてい一定の時間のズレがある。日本の場合で言えば、2009年ごろから目立ち始めた「在特会」(正式名称は「在日特権を許さない市民の会」、設立は2007年)などの活動が、こうした言葉が一般化する一つの大きな背景となったことは間違いないだろう。こうした団体は、在日コリアンをはじめとする様々なマイノリティに対して、「出て行け」「殺せ」といった侮辱的、扇動的、あるいは脅迫的な表現を意図的に用いる、しかし、そうした彼らの言動を描写する言葉は、その後かなりの間、なかなか定まらなかった。それが変わったのは、2013年に入り、彼らと路上で直接対峙する反レイシズム運動(いわゆる「カウンター」)が活発になり、国会の議員会館でこうした問題を扱った集会が行われ、新聞やテレビなどの大手メディアが揃ってこの問題を取り上げるようになって以降のことである。ヘイトスピーチ、ヘイトクライム、あるいはレイシズムといった言葉は、そうした文脈の中で、ようやく実感を伴った形で一般的に流通することになったのだ。
とはいえ、ある言葉が一般化することと、その言葉の意味がきちんと理解されるということは、別のことである。むしろ、一般化することで意味があいまいになることも多い。たとえば「ヘイトスピーチ(hate speech)」という言葉だが、これは直訳すれば「憎悪言論」である。確かにhateは「憎む」とか「憎悪」とかいった意味の単語なので、その点ではこれも間違いではない。しかし、日本語としての「憎悪」がイメージさせるのは相手が憎いとか嫌いだとかいったことであり、そうなるとたんに相手に罵詈雑言を浴びせることもヘイトスピーチに含まれるような気がしてしまうのだが、実際にはこれはまったくの「誤解」である。なぜなら、ヘイトスピーチがヘイトスピーチであることの決定的な条件は、それが「相手が属する集団」それも「本人の意思では変更が難しい集団」に基づいて、侮辱や扇動、あるいは脅迫が行われるということだからだ。したがって、たんにその人個人を罵倒したり、汚い言葉を浴びせたりしても、それはヘイトスピーチではない。『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか(p275-276)』(著)エリック・ブライシュ(訳)明戸隆浩/池田和弘/河村賢/小宮友根/鶴見太郎/山本武秀
言論の自由を保護することは、誤謬や一面的な真実との衝突の中から真理が発生する可能性を最大化する。またそれは死せる教義としてその見解に固執する危険に瀕していたはずの人々の信念を、再活性化もする – 引用 p25 出典:『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン (著), 森村 進 (翻訳), 森村 たまき (翻訳)岩波書店
アレクサンダー・メイクルジョンは、言論の自由の主たる価値は、民主主義が効果的に機能するために不可欠な種類の議論を促進することだと主張する。よい判断を下すためには、市民たちは多様な思想に触れる必要がある。言論の自由によって市民たちは、様々な見解を、その真理性を強く信じる人々から聞くことができる。この最後の点は重要である。つまり、反対するために反対する悪魔の代理人(devil’s advocate)を引き受ける人々には、自分が採る立場の真正かつ情熱的な信奉者でいる自分の姿を想像できることは滅多にないだろうから。理想的なのは、反対論者だったらどう言うだろうかと想像する人々ではなく、本当の反対論者から反論を聞くことである。- 引用 p18 出典:『「表現の自由」入門』ナイジェル・ウォーバートン (著), 森村 進 (翻訳), 森村 たまき (翻訳)岩波書店
ヘイトスピーチとは、自由演説の限界を試す難問だ。ヘイトスピーチをなんら規制せずに放っておく憲法はない、しかしその国際比較で重大な差を見出せる、規制が最低限に留まるアメリカ合衆国憲法、それに対し典型的な諸外国の憲法や典型的な国際規約はより強力に規制する。いずれも(ヘイトスピーチの取り締まりとして)不完全ではあったものの、ホロコースト、虐殺や民族浄化を目撃したこの世界、そう、溢れんばかりのヘイトスピーチに取り囲まれたこの世界において、アメリカ合衆国のやり方は確実に魅力に欠けるものだった。
いまヘイトスピーチは瞬く間に世界に広がるようになった、国家の多様性が増すにつれ、そう、社会的、民族的、宗教的、あるいは文化的な多様性が増すにつれ、(ヘイトスピーチへの)規制の必要性は急を要するものとなった。この重大な変化を理由に、国家は、もはや闊達な議論を見守る中立的な立場を正当化できず、(多様な社会的、民族的、宗教的、あるいは文化的な属性の)多元的な共存を擁立すべきであり、かつ自治と尊厳の保障をすべきであり、かつ最小限の相互理解を維持するよう努めるべきである。これらの価値観は、国家へ、ヘイトスピーチに対する積極的な奮闘を求める。
もちろん理性でもってヘイトに打ち勝つことが望ましい。しかし不幸にも、それが歴然としたものではなくなっているから、規制をもってヘイトスピーチと戦うこと、公の場での最低限の行儀作法を厳重に守っていくためにも、それ以外に道はないのである。
参考文献:Hate Speech in Constitutional Jurisprudence: A Comparative Analysis,M Rosenfeld – Cardozo L. Rev., 2002 – HeinOnline

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