小説・時計台のピエロ

  時計台のピエロ  作・藤倉崇晃

 ある六月の夕暮れ――村木しおりは小学五年生だ。
 家族三人の家路で、父・達哉は、娘・しおりの習い事を何にしようかと話しだした。
「お父さんと一緒に遊べる習い事がいい」
 母・清恵は微笑む。
「達哉が得意な卓球がいいかな」
「ふへへ! マジか! 卓球! しおりも卓球やるか!」
 達哉の明るい声と清恵の丁寧な口調――しおりは、両親の愛情を受けて育つ。
 ――しおりが少しだけ知っていること。
 村木家は生活保護受給者世帯で、父・達哉と母・清恵は二人とも精神障碍者ということ。両親は十五年前、同じ病院のリハビリ施設で出会った。精神科のリハビリは、主に入院患者の退院後の予後観察を目的とし、スポーツをしたり、合唱をしたり、レクリエーションをしたり、様々なプログラムが用意されている。
 生活技術の向上と認知機能の安定の為、現在も週二日は通っている。
 清恵が二十八歳の時に出産した子が、しおりだ。
 しおりは、両親が仕事をしていると思っている。仕事とは「作業所に通う事」だ。同居の祖母(達哉の母)も作業所通いを「仕事」と呼んでいる。
 しおりは、嬉しそうに笑う達哉を見上げる。
「卓球は楽しいの?」
 しおりは、自分を真ん中にして嬉しそうにする両親の姿を、何度も見て育った。
 卓球(タッキュウ)という言葉が、両親の間を飛び交う、まるで魔法みたいに聞こえる。
「テーブルの上でピンポン玉を突く遊び! 楽しいよ!」
 しおりは、達哉の言葉を信じて、「やってみたい!」と大きな声で言う。
「奥井さんの卓球教室がいいわよ」
「次の土曜日に連れてってあげる!」
 しおりは、卓球という言葉に魔法のような響きを感じる。
「お父さんと一緒に遊べるなら卓球がいい!」
「ふへへ! マジか! よし! じゃあ! 卓球を習いに行こうか!」
 ――次の土曜日。達哉は、しおりと清恵を連れて奥井卓球教室を訪れた。達哉と清恵は車の運転が出来ないから、家族はバスと徒歩で現地に向かった。
「着いたぞ」
 しおりは、希望に満ちていて、習い事をするぞという決意で胸がドキドキしていた。
 教室の玄関の扉を開けると、奥井は練習生の子どもたちと戯れているところだった。
 奥井は見るからにオジサンだ。
 昔、保育園だった建物を少し改装して作った内装。
 小学生が喜びそうな折り紙の飾りつけがところせましと施されている。
 奥井は、病院の看護師で、件のリハビリ施設で働いているらしい――リハビリのプログラムで卓球を教えるのが高じて、趣味で小学生向けの卓球教室を開校して何年か経つのだそうだ。
「奥井さん、体験に来ました」
 奥井は、玄関まで小走りでやって来た。
「はじめまして! 今日は来てくれてありがとう!」
 しおりは、屈託ない笑顔で奥井を見る。
「卓球で遊びたいです!」
 しおりは教室の中をキョロキョロする。
 卓球台が三つある。
「奥井さん、入っても良いですか?」
「もちろんですよ」
 しおりは、学校の体育館履きに履き替えて、教室の中に上がり込んだ。
「今日は天使のような子が来ましたね」
 それからシェイクハンドのラケットの持ち方や、右利きの打ち方のフォームを奥井は丁寧にしおりに教えた。ラリーをする子ども達とは別に、初心者の子どもは壁に向かって素振りをした。しおりはそこに混ざった。
 しおりは、時折、達哉と清恵のほうをチラチラと見ながら素振りをした。
 卓球台でカラン、コロンとピンポン玉を打って遊ぶ子ども達の声を背中で聞きながら。生まれて初めて習い事をしている所を、お父さんとお母さんに見てもらいたかった。
 しばらくすると奥井は、初心者の子にはこれだよと言って、しおりを壁当て練習のスペースに案内した。
 そこには卓袱台が斜めに、壁に立てかけてあった。
「行くよ」
 奥井がピンポン玉を軽く投げると、カチンと当たって跳ね返った球がしおりのラケット付近に飛んできた。
 ビュン
 としおりは勢いよく空振りをする。しおりは背中を曲げて笑った。笑ってはいるが、この野郎と思い、悔しかった。
「ムカつく!」
 奇声を上げるしおりに、奥井は、「よぉし! 当たるまで特訓だ!」と言って小走りにピンポン玉を追いかけて、また元の位置に戻って来た。
「次は当てる」と小さな声で呟くしおりは、この習い事の中の遊びに関心を寄せ、どうすれば当たるか考えた。
 しかしどうしても当たらない。
「ラケットを振る速さを、ピンポン玉の速さに合わせてみよう。今は速すぎる」
 奥井はジェスチャーでゆっくり振り回すよう伝えた。
 すると、カコンと鳴って、初めて球がラケットに当たった。満面の笑みを浮かべるしおりに、奥井もにんまりと笑った。
「当たるようになったら、なるべく卓袱台に打ち返そう! また跳ね返った空中の球を一歩二歩と追いかけて打ち返そう!」
 しおりは音が楽しかったから、壁当てに三十分くらいずっと打ち込んでいた。
 カラン、コロンと三十分間もずっと。
「しおりちゃん。最後に僕と試合をしましょう」
 この日は、最後に奥井と試合をして、しおりは体験を終えた。
 奥井との試合では、他の練習生の子ども達も興味深そうに様子を覗き込んだ――奥井はわざとネットインやエッジショットをして、しおりを悔しがらせたり、笑わせたりした。
 しおりは、果敢に挑んだが、ぶっつけ本番のサーブ打ちに苦戦した。
 達哉は、「相変わらずですね」と言って、娘の面倒を見てくれたお礼を言った――しおりに、「来週も卓球で遊ぼう」と言うと、しおりは心底嬉しそうに首を縦に大きく頷いた。
「家で壁当てがしたい」
 しおりはリクエストをした――生まれてはじめて体験した卓球が気に入った。早くもっと上手になって、達哉や奥井を驚かせたかった。
「奥井さん。しおりは才能がありますか?」
 清恵は細い声で聞いた。
「最初で苦戦する子のほうが上達します。でもウチは卓球で楽しく遊びたい子がほとんどだし、月謝もタダだから安心してください!」
 奥井は明るくそう言うと、しおりの入会を喜んだ。
 しおりは、玄関で靴を履き替える。
「奥井さん、ありがとう」
 しおりは手を大きく振った。
 家族三人の家路は、いつになく達哉が嬉しそうだった。
「しおりは卓球を気に入って良かった。明日はシューズを買いに行こう」
 
――それから毎週土曜日が待ち遠しくなった。
 しおりは、斜めに立てかけた家の卓袱台に向かって、ピンポン玉を何度も何度も打った。
 学校から家に帰れば、
 カチン!
 カラン!
 コロン!
 と子ども部屋で音を立てるしおりだった。
 
 しおりは、気がつけば、教室で他の子に勝つことも増えた。負けるたびに泣きそうになっていた自分を思い出して、少し笑った。手首を柔らかく使ったり、つっつきのように打ち返したり、自分で考えて様々な打ち方を試した。そして奥井の宣言通り、多くの子ども達をスルスルと追い抜いて上達した。
 奥井は、しおりが覚えた技を「ループドライブだ」と言う。しおりも頑張って奥井の説明を聞いて理解した。強い順回転をかけて少し山なりの打球を相手コートに返す技、「順回転」とはピンポン玉の進む方向に回転する事。
 しおりは、ループドライブを起点として、高めに浮いた相手の打ち返し球をスマッシュする。それを定石として、試合を組み立てていた。
「卓球は楽しいし、勝てると嬉しい!」

――七月のある土曜日の夕方だった。
「そう。実はね、卓球には、私達、特別な思い出があるのよ」
 清恵は、十四年前の「あの日」の事を口にし、「しおりを見ていると、達哉を選んで良かったと思えるの」と笑った。
 達哉は口を噤み、苦い顔をした。
 しおりには、父が何か言いたくない話題に触れられたのだと感じられた。
「藤間さんは医師でもないのに清恵をうんと気遣っていたな」
「あら、達哉。やっぱり藤間さんの事が許せないの?」
「清恵は、俺と藤間さんの両方を好きになって、俺は見ていられなかった」
「私はね、二人とも友達だったから凄く怖かったわ。本当は私の陰口を言っているかもしれない。そんな事ばかり沢山考えてしまって」
「藤間さんは清恵と付き合うまではしないって、俺にハッキリ言ったからな。だから俺は卓球で真剣勝負をしたのだ。確かに藤間さんは受けて立った。でも藤間さんは、俺が本当に清恵が好きかどうかを知りたかっただけだ。清恵を好きだったのは俺だ」
 達哉がそう言うと、清恵は小さく頷いた。しおりは、「藤間さん」という人物の名を、何度か夕飯の食卓で聞いた事もあったが、一体誰なのか、どんな人物なのか、わからない。
「結果的に俺は藤間さんという友人を失った。俺の卓球は、失った友情の続きだった。しおりが気に入ってくれるか自信が無かったが、決断して体験させたら、こんなに気に入ってくれて。卓球はしおりの習い事になった」
 しおりは、両親の会話に割って入った。
「お父さん! 私は卓球を続けるよ! 凄く楽しいから!」
 藤間さんの話がよく分からなくて、少し怖いように思えたからだ。
「卓球は毎日でもやりたい!」
 しおりは話題を変えようとする。達哉と清恵にとって特別なスポーツだから、自分は卓球を習っているのだと、それだけは理解できた。
 達哉は、市内で卓球ができる場所をもっと探すと言って、携帯電話を取り出した。
 
――翌日、日曜日の朝。
 しおりは達哉に連れられて、市民プールの隣の卓球場に来ていた。
「夏休みの墓参り以外に、しおりに体験させられるものがなかなかない」
 達哉が同じような事を口にしたのを、しおりは何度か聞いたことがある。今も声が沈んでいて、本当に悩んでいるように聞こえた。悔しそうにも聞こえた。
「卓球があるよ!」
 しおりは、海、山や遠方の都会に遊びに行く学校の友達をうんと羨ましがっていた。
 卓球場は、意外と空いていて親子二人で楽しむには丁度良い居心地だった。
 卓球台が整然と並ぶ卓球場で、二人は所定の場所を探し、手荷物を床に置くと、早速ラリーを始めた。
 カコン、カコンとラリーをする親子。
「ふへへ! マジか! 本当に上達したな~!」
 達哉は口元をゆるめ、笑みをこらえているように見えた。
 行き交うピンポン玉の音を聞きながら、達哉はピュウっと口笛を吹いたり、小さく掛け声を上げたりしながら、しばらくそうしていた。
 達哉はラリーを続けながら、ふと口にした。
「そういえば……藤間も父親になったらしい」
 しおりには、また出て来た見知らぬ人物の名前だったが、ただ達哉の声がどこか遠く感じられた。
「奥井さんから聞いた。俺の昔の友達も、しおりみたいな娘がいるらしいよ」
「藤間さんって誰なの?」
「しおりも卓球を辞めるなよ」
「お母さんの昔の恋人?」
「心の、な」
「心の恋人ってなんだ!」
 達哉は、またピュウっと口笛を吹いた。
 二人は夕方までそうしていた。
 帰宅すると、清恵が夕飯の支度をして待っていた。
 
――翌日の学校。
 教室では、しおりが先月から始めた習い事のことがまことしやかに知れ渡っていた。
「しおりは卓球始めたの?」
 と、クラスメイトが話しかけてくる。しおりは、感情を跳ね返すように明るく、
「うん」
「そうだよ」
 と返事をした。卓球は小学生に人気のスポーツだ。おしゃべりなクラスメイトは、村木はいつかテレビに出ろと言う。
 そんな言葉のやり取りの中に、鈍い声が混じった。
「しおりの家、お金あったのだな。いいな、卓球が出来て」
 声の主は反町つくし。市営団地に住むクラスメイトだ。
 つくしは、以前母親に習い事をしたいと言ったら、父親に怒られたと語った。
「酷いお父さんだね」
 しおりは、達哉と比べて、そう思った。
 つくしは一番許せない父親のエピソードを語り始めた。父親が冷奴に醤油をかけずに食べていることを疑問に思い、理由を尋ねたら、うんと怒られた――後に母親から聞いた話では、父親は貧乏を指摘されたと勘違いし怒った。醤油をかけないほうが美味しいから、ただ、醤油をかけなくなっただけだと。
 しおりは、反町家が貧しいことを知り、世の中にはいろいろなお父さんがいるのだとしみじみ感じた。
「奥井さんの卓球教室なら、ラケットとシューズがあれば出来るし月謝もタダだよ」
「月謝がタダとはどういう事だ?」
「知らない」
「誘ってくれているのか?」
「そうだよ!」
「でも月謝がタダだから通わせろ、なんて言ったら、どうせまた殴られる」
「一緒にお願いしよう!」
 つくしは、少し悩んだ様子で考え込んでから、「卓球自体は楽しいのか」と聞いた。
「楽しいよ」
 しおりは思った通りに返事をする。
「じゃあ今日は一緒に団地で遊ぼう、親父は、今日は休日で家にいるが、朝の機嫌は悪くなかった」
 ――しおりが遊びに行くと、つくしの父・大悟は家にいた。ビール腹で、運輸倉庫の仕事をしているオジサンだ。娘の友達のしおりには丁寧に接する。月謝がタダだと聞くと嬉しそうに、「じゃあ体験をさせようかな」と言って笑った。
 しおりは、本当は野太い声の人だとわかる。
 大悟は、そんな薄ら明るい声で愛想よくする。
 つくしは、口を結んで、どこか呆れたような顔をしていた。まるで「やっぱりこのパターンか」と表情だけで言っているように見えた。
 しおりは、つくしとカードゲームをしながら、卓球の何が面白いかを教えた。
「身体をうんと鍛えて、卓球をする子もいるのだよ」
 しおりは立ち上がると、スマッシュを打つ真似をした。
 つくしも立ち上がって真似をした。
「ピンポン玉を持ってくればよかった」
「すっかりしおりと仲良くなったな。卓球教室のこと、親が許してくれるといいなあ」
 ――そして体験は次の土曜日だった。
 大悟が、しおりとつくしを自家用車で送った。帰りは、現地で合流する村木家がつくしを団地までバスで送る。親同士で話し合って、そうなった。
 運転席の大悟は信号待ちで、後部座席のしおりに
「村木さんは、つくしと仲良くしてくれてありがとう」
 と薄ら明るい声で言う。
「卓球教室にも友達がいるけれど、学校の友達ははじめてです!」
 大悟は、うんと頷くと、「ラケットは二万円くらいするのかな」と、今度は少し息張った声で尋ねる。
 突然の質問にしおりはギクッとして声を詰まらせた。
 つくしが即座に答える。
「二千円くらいだ」
 大悟は、「今日行って決めようなあ!」とまた少し大きな声で言う。
 しおりは驚いた。
 つくしが即座に、「はあい!」と大きな声で返事をした――なんだ、つくしに言ったのかと、しおりは思った。
――怒らせると怖い人かもしれない、と簡単に想像できた。
 卓球教室に着くと、小学生が喜びそうな飾り付けの内装を見て、大悟は小声で「こういうところか」と呟いた。特に悩む様子はなく、にこにこしていた。村木家の達哉と清恵にも丁寧に挨拶をして、少し世間話を交わした。
 大悟が奥井に月謝無料の理由を尋ねる。
「ボランティアでやっていたほうが何かと気楽で」
「そうか、それでは駐車違反になるから」
 大悟はそそくさと帰って行った。
 達哉と清恵は去って行く大悟を見送ると、「面白いお父さんだね」と言う。
 つくしは優しそうな二人に安心した表情を浮かべる。
 奥井が、ラケットをペンホルダーとシェイクハンドでどちらにするか聞くと、つくしはしおりと同じが良いと言った。しおりは、今日はつくしと一緒に素振りをすると言って、隣で打ち方のフォームを教えた。その後は、体験の壁当ても行った。
 つくしは、奥井との試合で笑みがこぼれて、「楽しい」と呟いた。
「つくしちゃん! スマッシュしてみよう!」
 奥井はわざと球を浮かせると、つくしは、バシッとスマッシュを決めた。これには教室の子ども達もざわめいたのだ。しおりも凄いなと思った。
「つくしちゃん! 二人で沢山練習しよう! 毎日練習しよう!」
 つくしは、「親父に通って良いか聞かないと」と浮かない声で言う。
 奥井は、反町家の機微を知らず、嬉しそうにしている。
「優しそうなお父様だから大丈夫!」
 つくしはこの言葉にギョッとした。
 達哉と清恵はバスの中で、しおりと仲良くしてくれてありがとうと言う。つくしは引きつった表情で、「まだ卓球教室に通えるかわかりません」と言う――そんなつくしの予感が当たっているかのように、大悟は、つくしが帰って来る時刻に団地のバス停で仁王立ちをして待っていた。
 ――翌日の日曜日に村木家の電話が鳴った。大悟からだった。大悟は、つくしが卓球を頑張り抜けるかわからないと、電話口の達哉に言う。達哉は、しおりも特別運動が出来る子ではないけれど、卓球は楽しくて続けていますと言った。
 ――さらに翌日の月曜日に、しおりはつくしから「ナマポ」という単語を知らされる。つくしは、大悟が村木家を差別の言葉で呼んで軽蔑していた事を、しおりに知らせた。しおりの家は働かずに子育てが出来るくらい役所からお金を恵んで貰っている不思議な家なのだと。あんなによくしてくれたのに、申し訳ないが、卓球教室の件は無かったことに、とつくしは言いかけた。言いかけて、また口を噤んだ。
 しおりは屈託なく、
「不思議な家なの?」
 と聞いた。
 つくしは、一昨日の晩、途中で投げ出したら途中で投げ出す子になるから、かえってやらせられないと大悟に言われたことも打ち明けた。つくしは、「卓球やりたいなあ」と呟いた。
 しおりは、
「今日も一緒に遊ぼう! つくしの家に行きたい!」
 と言った――しおりは、直接大悟を説得しようと思った。差別の言葉で呼んでいるとはショックだったが、つくしが理不尽だと言う気持ちが勝った。しおりが熱意を持ってつくしに卓球を勧めている事は、確実につくしには伝わった。つくしは、今日は親父は家にいないと言って、しおりの申し出は断った。
 しおりは、つくしと一緒に卓球をしたかった。唇を噛んで、机の端を見つめた。通えないと聞いて、とても残念だった。
 ――その夜、つくしは大悟を説得したのだと、後でしおりは知ることになる。
 翌日の教室でしおりは、事の顛末をつくしから伝えられた。
 ――ラケットを「二千円」と言った件について、親に支払いを命じた罰で一週間皿洗いの手伝い(家庭内アルバイト)をしろと言われた。それをこなせば通って構わない。
 しおりは、「本当にお家の手伝いをすれば通えるようになったの?」と尋ねた。
「友達が大事なのではないかな。友達を大切にしろとか、親父は言いたい」
「よかった! 通えるね!」
 大悟は時に優しく、時に怖かった。そんな父に育てられながら、つくしはしおりの協力もあって次の卓球教室から入会した。
 つくしは、大悟に買ってもらったラケットとシューズで心置きなく卓球をした。ピンポン玉の弾ける音に爽快感があって、笑みなど零しながら、カコン、カコンと、しおりとラリーをした。
 奥井は、「つくしちゃんも飲み込みが早いね」と言って、嬉しそうだった。
 つくしは、真新しいスポーツに夢中になって、笑みを浮かべながらラリーを続けた。

 ――しおりとつくしは、卓球教室でも外でも顔を合わせるたびに笑い合った。そうしているうちに、夏の蝉の声が日増しに強くなり、八月を迎えていた。
 しおりにとって、この夏休みはつくしと遊んだ思い出でいっぱいだった。友達を集めて川沿いの公園まで自転車で走った事もあれば、つくしの団地の広場で夕暮れまで遊んだ事もある。宿題を並んでやった夜もあったし、父・達哉に市民プールの隣にある卓球場へ連れて行ってもらった日も忘れられない。
 つくしと向かい合うたび、しおりは胸の奥で「卓球は友情の架け橋だ」と感じた。もとは達哉との親子関係から始まった遊びなのに、そこから人と出会える喜びが広がっていく。
 卓球が上手くなりたい気持ちと、皆と仲良く続けていたい気持ちとが、しおりの中で同じくらいに揺れていた。身体を鍛えて誰にも負けない強さを手に入れたいと思う日もあれば、勝ちたいと胸を燃やす日もあった。けれど一方で、達哉やつくし、教室の友達とピンポン玉の音に耳を澄ませているだけで幸せだと感じる日もあった。
 ある晩、達哉が「隣の市で小学生以下の大会がある」と話し出した。観に行かないかと誘われ、「ホープスの部は五年生と六年生が対戦するよ」と聞いたとき、しおりの胸は一気に膨らんだ。
「行きたい!」
 声がはずんでいた。
 母の清恵と祖母の林子も同行すると言った。林子が「お昼はお婆ちゃんが払うからレストランに行こうね」と笑いかけてきて、しおりはさらに嬉しくなり、思わず「つくしも呼ぼう」と口にした。
 そのとき達哉が少し顔を曇らせ、「入会してまだ間もないのに大会に連れて行ったらどう思われるかな」と清恵にこぼした。しおりには、大人同士が少し難しい相談をしているように聞こえた。
 清恵はすぐに反町家へ電話をかけた。受話器からは大悟の声が弾んでいるように聞こえた。「うちはお盆休みが無いですよ」と言いながらも、どこか嬉しそうで、つくしを一日預けたいと告げていた。こうして、お盆の土曜日に隣市で開かれる「JETS杯」を村木家とつくしで観戦に行く事が決まった。
 JETS杯の朝は、雲ひとつない青空だった。しおりは胸を弾ませながら、家族やつくしと一緒に団地のバス停に集まった。朝早くに出て、会場に着いたら涼しい場所で待とうと決めていたのだ。
 いつもとは逆方向へ走るバスに揺られながら、しおりはつくしの隣に座った。
「大会を観に行くのだから、卓球の話をしたいな」
 そう思った瞬間、自然と会話が広がっていった。つくしの明るい声に引き込まれ、窓の外を流れる景色と重なって、しおりの心はどんどんワクワクしていった。
 電車に乗り換えて二駅ほど行くと、駅からの道を歩く。林子は年齢の事を忘れるくらい足取りがしっかりしていて、しおりは「お婆ちゃん、元気だな」と思った。つくしも、村木家の人たちと自然に馴染んでいるように見えて、しおりは少し安心した。
 やがて市民会館に到着すると、入口に「観戦の方」と書かれた看板が立っていた。案内に従い、選手たちが受付をしている横を通り抜けて、二階の観覧席へと向かう。
 しおりが見下ろした体育館の一階には、卓球台がいくつも並び、青いパーテーションで区切られていた。さっきまでの道中は明るくて楽しかったのに、ここには重たい空気が漂っているように感じた。開会式を前にした緊張感が、胸にじわりと広がる。
「これから強い子たちが技を競うのか……」
 そう思うと、しおりの背筋に小さな怖さが走った。
「体育館がこんな風になっているのは初めて見た!」
 つくしが声を弾ませる。
 けれどしおりの胸は、むしろ逆にざわついていた。ここでは強い子同士が真正面からぶつかって、はっきり勝ち負けが決まる。奥井卓球教室では味わえない緊張感が、観覧席からでも押し寄せてきた。
 達哉は「藤間さんの娘が出場しているよ」と言う。
 清恵は驚いて「あら、じゃあ藤間さんが来ているかもしれないのね? 藤間さんに会うの、少し恥ずかしいわ!」と言う。
 しおりは、件の藤間さんの娘を見られたらいいなと思った。

 大会は午前中に予選が行われ、午後は決勝トーナメントだった――白熱した試合ばかりで、しおりは見ていたとても興奮した。

 一行は表彰式まで見届けた。式の最中に、達哉は「しおりに見せたい人がいる」と言う。

 しおりが達哉を見ると、達哉は会場の一角を指さしていた。
「あれだよ! 藤間美香!」
 清恵が小さな声で尋ねる。
「藤間さんの娘は三位なのね? 優秀なのね……」
「そうだ!」
 達哉の声は力強かった。
 美香は三位だった――美香の笑みは自信に満ちていた。三位という結果を誇らしく受け止めているように見えた。しおりと同じ学年――そう思った瞬間、しおりの胸に熱いものが走った。
 美香が表彰台に立つ姿を見届けながら、しおりの胸の中で何かが変わっていった。
――自分も戦いたい。自分の力で勝ちたい。そして美香のような子達と渡り合いたい。
「私も勝ちたい。大会で勝って、渡り合いたい」

 ――JETS杯の日を境に、しおりとつくしは毎日のように身体を鍛えるようになった。卓球は一日中でもやりたかったけれど、練習できるのは奥井卓球教室のある土曜日と、父が卓球場へ連れて行ってくれる日だけ。
 それでも二人は、顔を合わせるたびにJETS杯の事を口にした。あの興奮を忘れないように。日が経つごとに熱は冷めるどころか、ますます燃え上がり、二人の会話は自然と卓球の事ばかりになっていった。

 ――夏休み最後の土曜日。
 宿題を片付けたしおりとつくしは、奥井卓球教室にいた。
「あっ!」
「くそっ!」
「このっ!」
「はっはっはっは!」
 二人は試合のような、ラリーのような、卓球台で向かい合って技を確認し合う事を、延々と続けていた。冗談のような笑みの零れる時を過ごしていた。
「やっぱり卓球台があるといいな! 基礎体力トレーニングやフォームチェックをしていても卓球台で打たないと感覚が身につかないな!」
「つくしは何か分かって来たの?」
 しおりは先輩らしい口調で尋ねる。
 つくしは嬉しそうに答える。
「打とうとする球がネットより高いか低いか、高い時にどれくらい高いか、瞬間でわかるようになった」
「低い時のつっつきが安定したのは、そのおかげだね」
「おう! ステップも自然と刻むようになったし! 早くしおりに追いつくぞ!」
 しおりは、順回転をマスターしようと心掛けて来た。それが、相方のつくしの上達に繋がっていた。
 回転が素直なぶん、つくしは基本が身に着いた――ダンと踏み込んでスマッシュを打つと、ピンポン球が台上で弾けて鋭く飛んで行った。
「今のは二十センチくらい高い」
「ムカツク!」
 しおりが悔しそうに奇声を上げる。
 奥井は、「いやいや、しおりちゃんも腰でスイングするようになったし、身体を鍛えたのが無理なく技に繋がっているよ」と言う。
 奥井は、しおりに代わって卓球台に向かって立つと、
「奥井サーブ!」
 と言って、つくしに変則サーブをお見舞いした――ピンポン玉はネットを越えると、弾みながらキュルキュルとサイドに逃げて行った。
「今日は短く打たれた時のレシーブを伝授します」
 奥井の扱いが、少し特別なものになっているとしおりは感じた。教室に来るのは遊びの子ばかりで、対外試合に出る子はほとんどいない。それでも奥井が、しおり達を鍛えようとしている意図をしおりは感じていた。
 ――この日の帰り道のことだった。
 つくしは、身体を鍛える一環と言って、三キロメートル程の道をジョギングで帰るぞと、しおりを誘った。
「そうだね。走れるくらいじゃないとJETS杯で見た選手達のようになれないかな」
 つくしは、走って帰る道を把握していた。
 ――そして、二人で猛暑の中を、えっほ、えっほと駆ける。雑木林を抜けて、大きな公園を横切って、坂を下れば市営団地だ。 
 しおりは、アスファルトを踏みしめる足と膝の感覚を覚え、必要なトレーニングだと直感で思った。これから徐々に涼しくなるのだから、自主練にジョギングを取り入れようと意識を持った。
 しかし暑い。
 二人は体力を消耗しながら、暑い、暑いねと口にした。
 そして雑木林を抜けて、大きな公園を横切ろうとした時だった。
 ――事件は起きた。中学生の集団に突然、
「待てや!」
 と怒鳴られ、しおりは心臓が跳ね上がった。何が起こるのか分からず、慌ててつくしを見るが、つくしはそのまま走り去ろうとする。しおりは足がすくみ、逃げることができなかった。
 すると中学生四人組が小走りに寄って来て、二人はあっという間に囲まれてしまった。背が、壁のように高い。三人の男と一人の女子に囲まれたとき、しおりの胸は締め付けられ、喉が乾いた。目の前に立つ女子の猫なで声は、異様に親しげでありながら、その裏に潜む不気味さを感じて背筋が凍った。男たちの無言の威圧感がさらに恐怖を増幅させた。
「この辺の子? ねえこの辺に住んでいるの?」
 しおりは、引きつったように笑った。
「何も持っていません」
「みして?」
 女子が鞄を無理やり開けてバス代を取り出すと、しおりは震えが止まらなかった。これから何が起きるのか想像できず、身体中の力が抜けていくようだった。逃げ出すことも、叫ぶこともできず、ただ恐怖に支配された。
「あんじゃん」
 男三人も言葉を発し始めた。しおりは、おそるおそるつくしを見るが、つくしこそしおりを見ていた。緊張という言葉では足りない感覚が背筋を襲う。カツアゲの四人は、明らかに弱い二人を取り囲んで、怖がらせて遊んでいる。 
 しおりには、この後どうなるか分からない恐怖が、心を支配していた。猛暑である事などとっくに忘れてしまった。どうやったらこの状況から生還できるか、見当もつかない。
「じゃあ鞄についているアクリルキーホルダーも貰っちゃおうかな」と誰かが口にした時だった――女子が「あ!」と叫んだ。
 女子は、鞄の中のある物に気付いて驚き、目を丸くしてしおりを見た。
「卓球のラケットがある!」
 しおりは、ギクッとした。その言葉を聞いた瞬間、しおりの心は崩れ落ちそうになった。卓球のラケットを奪われるかもしれない。自分の大切なものを奪われる恐怖が、頭の中をぐるぐると駆け巡った。
 しかし、しおりの胸に微かな希望が差し込んだ。
「卓球の子かな?」
 という言葉に、ほんの少しだけ救われた気がした。まだこの場から逃げ出せるかもしれない、そう思った。
「はいそうです」
「卓球の子だ。マーサン、この子、卓球の子だった。シンジも、この子、卓球の子」
「スプレーもある。これ手入れするやつでしょ?」
「はいそうです」
「卓球の子だね」
「はいそうです」
「ウチについてきたら、お金返してあげるから、来て。ほら、返してもらわないと親に怒られちゃう」
 一人がマーサンで、一人がシンジというらしいが、そんな事はどうでもよかった。
 男三人が、しおりとつくしを囲んでトボトボと歩きながら、女子の向かう先に二人を連行する。
 女子は、時折、振り返って微笑んだ。
 しおりは、何か意味があるのだろうかと思った――夏の暑さが、少しは蘇ったかもしれない感覚があった。帰り道と方向が一緒だったからかもしれなかった。坂を下っていく。
 向かった先は、女子の家だった。公園から歩いて五百メートル程の所にあった。表札に「灰沢」と書いてあった。
 しおりは「灰沢」という名字に凍りついた。
――あの家だ。幼いころ、大人たちが深刻そうに話していたのを覚えている。
 この家の父親が知り合いを殴って死なせてしまった。殺人じゃなく傷害致死になって、刑務所に行った。
 母親は、殺された人から暴力を受けていたと噂されていた。事件のあと、命を絶ったという話まで聞いたことがある。
 真実は分からない。けれど、灰沢家の子どもが学校や幼稚園に来られなくなったのも当然だ、と誰もが言っていた。
 その時だった、男三人は帰らされた。女子は、またねと言って、男三人を帰らせたのだ。マーサンと思しき男が、「ユウコ、そしたらまた明日」と言って、心なしか面白くなさそうに引き上げて行った。女子は、ユウコというのか。
 二人が連れて来られたのは、二階の子ども部屋だった。
 ユウコは、
「きりかちゃん、お友達だよ!」
と急に明るい声になって、中にいた女の子を呼んだ。しおりは、そんな言葉のあやよりもむしろ、部屋の広さと、そこにある卓球台に声を発さず驚いた。
「お友達連れて来たよ! 卓球やろうね!」
 ユウコは、小学五年生の妹と卓球台で遊ぶよう、しおりとつくしに求めた。二人は声を揃えて、卓球をすればいいのですか、と言った。
 きりかは、無言でペンホルダーのラケットを右手で握ると、卓球台に向かって仁王立ちした。卓球台は部屋の中央ではなく、片側のエッジが壁に異様に近かった。その狭い方のスペースに、きりかは突っ立っていた。
 しおりは、勝てばいいのか、負ければいいのか、わからないと思ったが、ユウコは、また猫なで声で、遊んであげて、と言う。
 きりかは、
「宜しくお願いします」
 と礼儀正しく、挨拶をする。
 突然、つくしが思い出したように声をあげた。
「灰沢って、私が幼稚園の頃に傷害致死で逮捕された家だ!」
 ユウコは、若干ひるんだ様子だ。
「うん。お父さんは今、刑務所だね。近所で有名になっちゃったね。学校に行けるはずないでしょ。きりかちゃん、学校行けていないの。遊んであげて欲しいの」
「卓球が好きなの?」
 しおりは尋ねた。
「お父さんが帰って来るのを、卓球をしながら待っている」
 しおりは、そんなに卓球が好きなのかと思ったので、
「じゃあ! 今日から友達になってあげる! 勝っても負けても友達!」
 と言って、きりかと試合を始めた。きりかに、表情はなかったが。
 しおりとつくしは交代で打ち合った。けれどきりかは、ただ返すだけではなかった。
 しおりのドライブも、つくしのスマッシュも、ことごとく待ち構えたラケットで弾き返される。強く打てば打つほど、壁に向かってぶつけているみたいに勢いを増して返ってきた。クロスへ打ち込めばまっすぐ返され、ストレートへ打てば鋭い角度を突かれる。穴がない。
 つくしは、なんできりかの後ろのスペースがほとんどないのかと聞いた。おかげで異様にテンポが速い。きりかは、要らない、とだけ言って、真っ当に返答をしない。
 しおりは、初めて見るタイプの相手だと思ったし、ブロックでドライブを弾き返される度に、きりかの後ろの壁に打ち込んでいる錯覚を覚えた。
 しおりは思い切って、ループドライブを放った。強い回転をかけて、ふわりと高い弧を描く。これなら相手を押し込めるはず――そう信じた。
 だが、きりかは下がらない。むしろ前に踏み込み、しおりの球を待ち構えていた。
 カンッ
 次の瞬間、乾いた音とともに、あり得ない速さで打ち返される。   
 ピンポン玉の正面で小さく飛び跳ねたきりかは、バウンドの頂点を狙い、右脇の下から右肩にラケットを振り上げて打ち返した。
――バックスマッシュ
 きりかは、まるで日常の一部みたいに、自然に決めてみせた。
 しおりはラケットを構え直しながら、胸の奥が震えているのを感じた。さっきまでの自信が、あっという間に吹き飛ばされてしまった。
 技も多いきりか。しおりは、多彩な技以上にテンポの速さに戸惑い、中々自分の卓球をやらせて貰えない。
 しおりは前後左右に揺さぶられるが、毘沙門天のようなきりかは移動が少ない。
 つくしが長い球を送っても、きりかは少しも動じない。ラケットを水平に構え、手首だけでクイッと返してくる。その返球は、習ったこともない不思議な回転で、まるで特別な技の見本を見せられているようだった。何度挑んでも、同じ場所に正確に返ってくる。
――チキータ
――これが、前陣速攻。しおりはそういう言葉を耳にしたことがあったけれど、実際に体感するとただ怖いくらいだった。近い距離で、速すぎるテンポで、逃げ場を与えてくれない卓球。
 やがて、疲れてへとへとになった二人に、ユウコは、
「お友達をやってくれてありがとう」
 と言って、強奪した四百円を返還した。
「じゃあきりかちゃん。後はお姉ちゃんと遊ぼう」
 ユウコはそう言うと、俯いた顔で自分のペンホルダーのラケットを取り出した。姉妹で毎日打ち合ったのだろうかと思わせる、使い込んだラケットだ。
「待ってください!」
 しおりは叫んだ。
 ユウコは目を丸くして、驚いた。
「友達をやってあげたのではなくて、友達になりました。卓球仲間です」
 今度はきりかが驚いた。
「連れて来られたんでしょ?」
「無理矢理だったけど、友達になるって決めたんだよ」
 しおりは、ユウコの態度に業を煮やして、
「きりかが友達になってくれるまで卓球をします」
 と言って、ユウコを押しのけてシェイクハンドのラケットを構えた。そしてまた壮絶な打ち合いが始まった。しおりは、きりかの前陣速攻から技を吸収した。つくしも、負けていられないと言って、加わった。
 月が出て夜半に帰宅すると、しおりも、つくしも、心配した親に顛末を伝えた。親達は不思議がっていたが、二人はきりかを友達と言い張った。達哉は、友達が出来たのならよかったと言った。ただしジョギングは、家の近所で済ませるようにと言う。

 ――そして九月。
 しおりとつくしは、灰沢家に遊びに行くようになった。夏休みが終わり九月になっても、秘密の友達を交えて卓球をした。優子も、妹の友達になった二人を歓迎した。
 しおりとつくしは、きりかを奥井卓球教室に誘った。三人で大会に出たいと夢を語ったのだ。けれどきりかは、首を横に振った。
「しばらくは、このまま秘密の友達でいさせて欲しい」
 そう言って口を噤んだ。子ども部屋に遊びに来てくれるだけでいい、と。
 しおりはがっかりした。いくら誘っても、きりかは首を縦に振らない。なぜかは分からないけれど、両親がいないせいかもしれない、と胸の奥で思った。
――奥井卓球教室は楽しく卓球ができる場所なのに。
 そんな些細なやり取りを知らない奥井だったが、しおりの胸中とは裏腹にどんどん厳しくなってきた。
「卓球は楽しく、って言っていたのになぁ……」
 しおりは心の中でそうつぶやいた。
 ある日の卓球教室で、奥井は、卓球台の片面に新聞紙を四枚、均等に配置した。右奥、右手前、左奥、左手前 にまるで卓球台を四等分した目印のように。ネットの向こう側から、ドライブやスマッシュを打ちこむエリアが四分割されて、見えた。
「今の二人は、こんな感じだね。どのエリアに打ち込むかは狙い通り出来るけれど、それより細かくは、運任せ!」
 しおりは、まさに自分の事を言い当てられたように感じた。
 奥井は新聞紙を片付けながら、今度は特訓用と称して、ブレードとラバーが異様に小さく、しゃもじ程しかないラケットを渡した。
「これでラリーしてごらん」と手渡され、しおりは思わず眉をひそめた。
 打ってみると、全然当たらない。
 それでも言われるがまま、二人は小さいラケットで懸命にラリーを続けようとした。ミートする動体視力よりもむしろ、タイミングを合わせる事が異様に難しかった。いつものラケットなら、少しズレてもパシッと当たるのに、小さいラケットだとほんのちょっとのズレで空振りになる。
――私、ラケットに甘えていたのか。
 しおりは胸の奥でそう気づいた。要は、タイミングが多少ズレても当たるようにラケットは広いのだ。そしてそのぶん打球は散ってしまう。
 しおりの得意技のループドライブは、ピンポン玉に順回転をかける。その際、ラケットの上部でミートして、そこから下方向に擦りつけて回転をかける。ミートする位置が安定すれば、回転も安定する。コントロール練習と回転の練習は共通する所がある。本来、ラケットは回転をかけるために広いのだから。
 奥井は、小さく咳払いをした。
「今日はね、皆にお知らせがあるよ。今月の日曜日に交流会をします。八日後の日曜日にやるよ。場所は、市民プールの所の卓球場です。手続きして、借りられました。なるべく沢山の子に参加して貰いたいな。用紙にチェックをつけて、次回の卓球教室で僕に渡してください」
 しおりは、突然の知らせに驚いた。市民プールに併設された卓球場は、達哉とよく行く場所だ。最近じゃ、しおりも達哉に勝てるようになって、親子で卓球をする楽しさも増していた。 達哉にはじめて試合形式で勝った日から、互角に渡り合うようになって、しおりはもちろん、達哉も喜んでいた。
 つくしは、
「対外試合ですか?」
 と声を張り上げた。
 奥井は、「はいはい」と、用紙を配った。
 配られた用紙には「八試合」と書いてあった。年齢の区別はなく、十一点先取、一ゲームマッチ。しおりは思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「相手は中嶋卓球会です」
 奥井の声が教室に響く。
「会長の孫娘、中嶋ことりさん。しおりちゃんと同じ学年ですよ」
 奥井の笑顔混じりの声に、しおりは奮い立った。
 交流会の話を知った村木家は、大会への橋渡しになると、しおりを後押しした。達哉は、現地に見に行くと言った、その理由が中嶋ことりだった。彼女と比較して、どれくらいの実力なのか、この目で見たいと言った。

 ――そして当日を迎えた。
 試合の記録用紙には、勝ったスコアがずらりと並んでいた。十一対二、十一対三……
 けれどしおりの胸に残っているのは数字よりも、ラケットの手応えや、汗ばむ指の感触だった。
「よくやったな」
 休憩の合間、達哉が水を差し出してくれた。応援の声よりも、その一言の方が胸に染みた。
 七戦全勝。ここまで来た。
 次の相手――中嶋ことり。
 最初のスマッシュが目に焼きついた。
 小さなペンホルダーから繰り出された一撃は、しおりの胸を震わせるほど鋭かった。
 けれど、負けない。
 一歩も下がらず、食らいついていく。
「チェンジサーブ、シックスオール(六対六)」
 ことりは、卓球台にピンポン玉をコンコンと弾ませながら、しおりの顔をじっと見た。
「しおりは、朝、何を食べた?」
 しおりは、試合中に話しかけられて耳を疑ったが、
「目玉焼きだよ」
 と気づけば口が勝手に動いていた。
 次の瞬間、下回転サーブが飛んできた。
 しおりは、不意打ちにやむを得ず慌ててラケットを出した。
――つっつき
 しかしネットを越えて浮いた球を強烈なスマッシュで打ち返されてしまった。
「セカンドサーブ、セブン、シックス(七対六)」
 ことりは、
「醤油?」
「醤油かな?」
 と、また質問をした。
 しおりは、今度は返事をしないぞと思ったが、「パルメザンチーズ!」の「ザ」と同時に下回転サーブが飛んできた。
 しおりは、このふざけたことりに心を鬼にすればするほど力み、チキータを選択するも打球は大きく浮き、またも強烈なスマッシュを打ち返された。
「チェンジサーブ、シックス、エイト(六対八)」
 ことりは、したり顔で、もう勘弁してやろうと顔に書いてあった。
 しおりは、してやられたと思えば思うほど、集中が乱れ、その後もことりの強烈なスマッシュの餌食になる。
 しおりは、強烈なピンポン玉をラケットで受ける度に、こんな所で負けていたら駄目だと自分を追い込んだ。しおりは、チキータ以外にもきりかとの練習で覚えたブロックも試みるが、トラッシュトークの前、互角に渡り合っていた前半と比べて、明らかに精細を欠いていた。
「セット、イレブン、シックス(十一対六)、中嶋さん」
 審判の声が耳に響いた瞬間、手足から力が抜けた。
 ことりは舌をちょこんと噛んで笑った。
「楽な試合だった」
 そのまま、しおりの方を見ようともしない。
 視線を求めてしまった自分が、情けなかった。
 ラケットを握り直す。指先が震えていた。
 ――負けた。
 あれだけ練習したのに。技も、体力も、コントロールだって――全部やってきたのに。
 達哉は「特訓らしい特訓もせずに、よくここまで強くなった」と言った。
 しおりは、心外だった。
 珍しくきつい言い方の達哉に驚きもあった。
「技の練習も、体力づくりも、コントロール練習だってしているよ!」
 それでも、ことりに勝てなかったから、余計に悔しかった。
 達哉は、卓球台の上にペットボトルを置く。
「当てられるか?」
 しおりは、ギクッとした。
「まだ自信がないかな」
「俺も無理だ」
 ここで達哉は力強い声で、
「強くなるために俺を捨てろ!」
 と言った。
 しおりは困惑した。
 達哉は交流会の後片付けを、そろそろ始めようかという場の空気を切り裂いた。
 達哉の存在で、しおりは技を会得したり、理解が早かったりした。しかしここから先は、達哉など格下と見切って特訓をしなければ強くなれない。たまに一緒に卓球場に赴いては、今日はお父さんに勝てた、などと喜んでいては、もう駄目なのだ。
 しおりは、親子の絆で始まった卓球が穏やかに意味と目的を変えつつあった事は感じていたが、達哉から「俺を捨てろ」と言われて大変戸惑った。
「この台を越えていけ」
 達哉は、戸惑うしおりに念押しをした。凛とした表情でしおりを見る達哉は、腹を括った様子で、しおりに修業の道を歩ませようとしている。
 達哉は、ペットボトルを手に取る。
「一緒に強くなれなくて、ごめんな」
 その声は、片付けに戻る人達のざわめきにすぐ紛れてしまった。
 しおりは立ち尽くしたまま、父の背中を見送る。
――わかっている。言いたいことは。
 でも、胸の奥で言葉が固まって動かない。
 「捨てろ」と言われても、まだ受け止めきれない。
 そのまま飲み込めずに、喉に引っかかっている。
 やがて卓球場はいつもの姿に戻り、子ども達は三々五々、外へ出ていった。
 しおりも荷物を手にして歩き出したが、足取りは軽くならなかった。
 ――帰り道、信号待ちの人混みの中で、達哉の背中をじっと見つめていた。
 先刻、達哉が言った言葉の意味を、どうしても掴めないまま。
 九月の夕闇、電灯が白く照らし、車が交差点を抜けていく。声をかけようとしても言葉は出ず、代わりに記憶がよみがえるのだった。
──卓球は、お父さんにとってただの遊びじゃない。お母さんの言う「あの日」からずっと続いている何か。
 しおりは、信号が青に変わる前に、ぽつりと、
「お父さん。本当はどう思っているの?」
と尋ねた。
 達哉が振り返ると、笑顔で「家に帰ったら話すよ」と言った。
 そして帰宅すると、そこからしおりの耳に届いたのは、長い物語だった。
──ちょうど聞きたかった。藤間さんの話だ。
 藤間は頭が良く、社会に出て働いた経験もあった。達哉とは違って、若い頃は順調に生きていたらしい。けれど途中から精神病に苦しむようになった。
 施設に通うようになってから、清恵と出会った。二人は同じ診断を受け、同じ症状を抱えていた。清恵は藤間を頼り、藤間も清恵の支えになった。
 けれど清恵は、達哉とも仲が良かった。二人とも好きになってしまったのだ。
 当時、達哉と藤間は友人だった。卓球はリハビリの一環だったが、やっているうちに本気になっていった。「社会復帰のために卓球をしろ」と言われたときは馬鹿らしく感じたが、やっているうちに互いに心を支え合うようになった──達哉はそう語った。
 そして十四年前のある日。藤間は清恵を好きだが、交際はしないと達哉に告げた。 
 そこで達哉は、清恵に「卓球の真剣勝負で勝った方と交際してほしい」と説得し、藤間に挑んだ。
 勝負を受けた藤間は、むしろ「お前が本当に清恵を好きか確かめたい」と思ったという。そして勝ったのは達哉だった。清恵はその日から達哉と交際するようになった。
 さらに、今年八月。JETS杯の午後、藤間とこっそり会ったとき、藤間は「娘の美香に卓球を習わせているのは、新しい心の支えだ」と語ったのだという。
 達哉の声は淡々としていたが、その一言が、しおりには重く響いた。
「美香ちゃんの卓球は、藤間さんの『続き』なんだよ」
 その言葉が宙に浮いたまま、しおりの胸に沈んでいった。
 続き──何の?
 お父さんの声はどこか濁って聞こえた。核心を避けているようにも思えた。
 努力の続き?
 友情の続き?
 それとも……もっと別の、言葉にできないもの?
 しおりは答えを探そうとしたが、手のひらからすり抜けていく砂のように、はっきりとはつかめなかった。
 しおりは、夕食をつくる母の背中に声をかけた。
「お母さんは……お父さんと藤間さんが真剣勝負をしたのを、どう思うの?」
 包丁の手を止めることもなく、清恵は答えた。
「前にも言ったでしょ。達哉を選んでよかったわ。だって、しおりみたいに心で物事を決められる子が生まれたのだから」
 その瞬間、しおりの体に冷たいものが走った。聞いてはいけないことを聞いてしまった。
 そう直感した。
 前にこの話をしたときは母の方から切り出したのに、今は違う。
 まるで何か、どす黒いものに足を取られてしまったような感覚。
 母の言葉の裏には、言い知れない期待が潜んでいる。病的とさえ思えるほどに。
 昔は藤間を好きだったのに、今では憎んでいるのだとしたら……。
 その変化そのものが、子どもの自分には薄気味悪かった。
 美香に勝たなければならない──そんな親の期待が、背中にまとわりついているのをしおりは知っていた。
 でも、あえて気づかないふりをして、声を張り上げた。
「勝てるように頑張るよ!」
 言葉の明るさで、自分を包み隠すように。
 そうしてしおりは、足音も大げさに、子ども部屋へと駆け込んだ。
 子ども部屋に戻ったしおりの視線は、壁際に立てかけた卓袱台に吸い寄せられた。
 卓球を始めた日のまま、そこに在り続けている。
 あの日から、つくし、美香、きりか、ことり……いくつもの顔と出会い、胸の中の風景も少しずつ変わってきた。
 しおりは、奥井にもらったしゃもじ大のラケットを握り、壁に向かって打ち始めた。
 カチン!
 カラン!
 コロン!
 音のひとつひとつが、強くなりたいと焦がれていたあの日の自分を呼び戻していくようだった。
 音を追いかけていると、ふと、つくしの声がよみがえった。
「ウチは団地だから、壁当てできないんだよ」
 その言葉が胸に差し込んで、しおりの手が止まった。
 ピンポン玉が床を転がっていく音だけが部屋に残る。
 その静けさの中で、次に浮かんだのはきりかの顔だった。
 子ども部屋の奥で、帰ってこない父を待ちながら、学校にも行けずにいたあの姿。
 何もかも一つになれる友達などいない。すると美香とことりの顔が、壁に立てかけた卓袱台にグルグルと渦巻いた。 
「この台を越えていけ」
 父・達哉の声が、胸の奥に突き刺さった。
 強い子には打ち負かされ、弱い子には勝てる。では自分は──何者なのか。
 打ち返すたび、卓球にからかわれているような気がしてならなかった。
 その屈辱が、熱となって体の底からせり上がってくる。
 血が煮え立ち、マグマのように噴き上がるのを、しおりははっきりと感じた。

 ――やがて九月が終わり、十月になった。
 しおりにとっては、ひどく長い時間が過ぎたように感じられた。終わりのない秋を歩き続けるような日々――それは奥井との特訓の積み重ねだった。
 奥井は、しおりの覚悟を知ったあの日から、完全に「師匠」としての仮面を外した。
 練習は血のにじむような時間で、卓球台の向こうが以前は四分割で見えていたのに、今はオセロ盤のように細かく区切られて見える。コントロールも格段に上達し、台上のペットボトルを一発で弾き飛ばせるようになっていた。

 ――その日、しおりと達哉はショッピングモールに来ていた。六月に丁度良いサイズで買ったシューズが、もう小さくなってしまったからだ。
「ふへへ! また買ってあげるから、ピッタリの大きさのものを買ったほうがいいよ!」
 達哉の言葉に、しおりは赤いシューズを手に取った。鮮やかな赤は、自分の色だと思えるほどに気に入った。
 試着の際、しおりが嬉しそうにすると、店員も「買って貰えてよかったね。頑張っているからだよ」と、しおりを褒めていた。
 会計を済ませる達哉を待つ間、しおりはスポーツ用品店のソファに腰かけ、遠くに見える野球やテニスのコーナーを眺めた。
――わたしは卓球の選手。
 心の中で呟くと、出会った人たちの顔や、ここに再びシューズを買いに来られたことが胸に染みた。いまだ公式戦ゼロ勝だけれど、大会で成績を残せば、きっとわかり合える、認め合える。――そう信じた。
 そうしていると不意に目の前に立つ影に気づいた。
――人影。
 しおりが目線を上げると、立っていたのは女の子だった。
 女の子は無言でしおりの前に、少し前から立っていた様子だ。
「貴方も何か買いに来たの?」
 しおりの反応に、女の子は、わずかに喉を鳴らしてから答えた。
「私も卓球用のシューズを買いに来た」
 小さくなったのかと尋ねると、曖昧に「うん」と返す。
「さっきからいたんだけどな」
 そう言って隣に腰かけた女の子は、卓球の話を始めた。
「何故、卓球台の高さはあの高さなんだと思う?」
 しおりは、突然の質問に口を突いて、
「わからない。私達でも遊べるように大人が決めたのかな」
 と答える。
「じゃあ何故、ほとんどの人が疑問に思わないのだと思う?」
「わからないよ」
「卓球台には神様がいるのだよ。だから人は疑問を持たず卓球をする。勝って嬉しい日も、負けて悔しい日も、もっと卓球をしようと思うと、卓球台の神様に呼ばれているのだと思ったよ。皆、神様が呼んだ友達なんだよ」
 女の子はそう言うと、去って行った。
 しばらくして達哉が迎えに来た。
「お父さん、卓球台には神様がいて、だから人は卓球で遊ぶんだって」
「今の女の子が言っていたのか?」
「そう。そして卓球台の神様に呼ばれた人達は皆、友達なんだって」
「ふへへ! マジか! 勝っても負けても友達なのか!」
 達哉の言葉に、しおりの胸には後からゆっくりと答えが湧いてきた。
――卓球がそんなに好きなのだね。
「卓球が好きなのだね」
 しおりはそう言葉にした。
 達哉は「おう」と言って、ゆっくりとしおりに背中を向けて歩き出した。
 しおりは、小走りに追いかけながら、達哉がピュウっと口笛を吹く音を聞いた。
「お父さん。はじめての大会は十二月のもみのきカップに決まったよ!」
「おう!」
 もみのきカップは市民大会だ。市内のクラブチームに所属しているか、市内在住の者に参加資格がある。
 ショッピングモールの外で、しおりは、また誰かに会うだろうかと思った。女の子の言葉に、強くなった自分を知らしめたい気持ちが、落ち葉のように散逸したと言えば、その通りだった。
 やがて十月も終わり、十一月になった。秋は深まり、夏に優子と出会った公園も枯れ葉の絨毯で敷き詰められた。しおりは、きりかに、もみのきカップを見に来て欲しいと、灰沢家に遊びに行った際に伝えた。
 きりかは、自分の境遇を知るしおりの言葉に「そっか」と素っ気ない返事をしてから「見に行くよ」と言った――そして、ペンホルダーのラケットを手に取ると、
「今日も卓球をしよう」
 と不敵に笑う。
 しおりは、秘密の友達をようやく外の世界へと連れ出す喜びを感じた。大会観戦だけでなく、きりかは、優子が通い始めたフリースクールにも少しずつ関心を示していた。しおりは、ラケットを強く握った。
 きりかに卓球を教えた人物とは父親だ。その後父親が姿を消したきりかと、しおりとは境遇がまるで異なる。達哉は、あの日以来、「俺と卓球で遊べ」とは言わないものの、日常では相変わらず素っ頓狂な父親だった。
 もみのきカップには、件の藤間家から娘・美香が出場する事がわかっていた。
 それから十一月が終わると、街は十二月のクリスマスの彩りを帯びた。
 しおりは、大会が近づくにつれて、大勢参加するだろうか、優勝したら評価されるだろうかと様々な期待が膨らんでいた。
 頭の中が卓球でいっぱいのしおりには突然の事だった。
 この日はお祭りだった。森林公園から、神社の境内を挟んで、市内のターミナル駅まで、電車で二駅の距離を出店の屋台が埋め尽くす大きな冬のお祭り。毎年相当な人混みになる。達哉は平気だが、清恵は平気ではなかった。しおりは、今年も行かずに終わるのだろうとばかり思っていた。
 夕方の時刻に達哉は、突然しおりを連れて行くと言い出した。
「しおり。冬のお祭りに連れて行ってあげる」
「え?」
「お祭り行くぞ!」
「本当? 学校の友達は皆、親と一緒に行くから、私も行きたかった!」
「今年は行こう。夕食は俺と二人でレストランで食べよう」
 達哉は、地元の一大イベントに、清恵と林子を留守番させてでも、しおりを連れて行くと言う。しおりは、卓球を頑張っているご褒美なのかと思った。
「お父さんと二人で夕食を食べるのは、はじめてかな!」
「そんな事ないよ! 清恵が入院していた頃とか! 九月の交流会でも昼食のおにぎりを食べただろ!」
「レストランははじめてだよ!」
 しおりはお祭りと同じくらい、達哉と食べるレストランの夕食が楽しみだった。親子は、そうと決まれば善は急げと身支度をした。それから達哉は清恵に、祖母・林子を宜しくと言って、しおりと家を出た。
 冬の太陽が沈む前の、微妙な色合いの街並みを歩いて、バスと電車で森林公園の近くの駅まで向かった。電車は、冬のお祭りの客で上りも下りも混雑していた。達哉はしおりがはぐれないように、何度も目をくれた。
 その夜。
 神社で満月に気がついたものの。
 親子は、年に一度の賑わいの中で、冬のお祭りを楽しんだ。人混みの喧噪に家族連れが多く、普段は家屋の中に閉じこもっている幸せが、お祭りの至る所に溢れかえっている。達哉に手を引かれて、しおりは射的をした。他にも福引き、スーパーボール掬いやヨーヨー釣りなど、お祭りの出し物に心を奪われた。達哉は、財布の中身を頻繁に確認しながら、目一杯、しおりを遊ばせた。
 師走の必ずしも明るくない世相で、この日屋台に飛び交う声は不況を弾き返す力強さそのものだった。まだこんな活気が、その気になれば結集される地元。しおりは、「今川焼、どうだいお嬢ちゃん」と呼ばれた。
「お父さん! 今川焼食べたい!」
「夕食が食べられなくなるから、食べ物はあんまりよくないよ」
「じゃあ今川焼だけ食べたい!」
 達哉は出店の主人に愛想笑いして、今川焼を買った。それをもぐもぐと食べながら歩いた。
 神社の鳥居から覗いた満月は、時計台の広場に着く頃には一層煌々と輝いて見えた。深い闇に突き刺した無言の時計台が、街頭のイルミネーションや出店の灯りとは対照的な、静かな建造物だ。広場は、この時期であっても華美な装飾もなく、お祭りの喧噪から隔離された静けさと、独特の闇を抱きかかえていた。
 達哉は、時計台の広場で、
「ここで人を待つ」
 と言った。
 しおりは、驚いて、
「え? 誰を待つの?」
 と聞いた。
「藤間」
「え?」
「娘も来る」
「なんで?」
「いいから!」
 確かにしおりは、以前から藤間と娘・美香が一体どんな人物なのだろうかと思っていた。だからと言って、何もお祭りの夜に会わなくても良いのではないか。達哉の話によれば、美香はどうやら藤間の心の支えという事だから、聖母のような優しい子だろうか。それとも単に娘であればその辺り務まるのだろうか。見当もつかなかった。
 立ち止まったからか、急に寒々しく感じられる外気。遠目に見る出店の赤や黄色の輝きの只中にいた先程までとは打って変わって、明確な冬の肌触りに震えた。
 藤間と娘は手を繋いで、やって来た。
 藤間は、紳士的に見えた。「しおりちゃんだね」と言うと、作り笑いでも安心感のある、どこか教師のような面持ちで、「はじめまして」と言う。
「よう。夏以来だな」
 達哉は、昔に友達だった事がよくわかる言葉遣いだった。
 美香は、まじまじとしおりを見ていた。
 しおりは、
「はじめまして。村木しおりです」
 と挨拶をした。
「藤間美香です」
 美香は、そう言って、目は微動だにしない。まじまじとしおりを見る目が、ゆっくり形を変え、薄っすらと柔らかな表情になった。
「二人で話したい! いいでしょ? 遠くへは行かないから! はぐれたら嫌でしょ!」
 美香の顔が、せせら笑うように見えたのを、この時は気のせいだと思った。
「いいよ」
「雨が降らなくてよかったよね! 雨が降ったら嫌でしょ!」
 しおりは、ここで嫌な予感がした。美香の薄い表情には裏がありそうだと思えた。それでも、達哉があえて対面させるのだからと、息を飲んだ。
「真っ暗な時計台の下でもおしゃべりしていれば怖くないでしょ!」
 美香は一人でよく話す子だった。ただその内容が、一歩、また一歩、親達から遠ざかるにつれて、ピエロの独白のように、奇怪な言動で埋め尽くされていく。しおりは口を開く事を躊躇ったが故に、清聴していた。嫌な予感は当たった。
「しおりと同じで、私も生まれてはじめて、冬のお祭りに来たの。ママはこんな日も仕事なの。パパはママと違って、小学校が終わる時刻に仕事が終わるの。病気だから! 病気のパパが一人で私の面倒を見るのをママが許してくれたの! しおりは、病気のパパの悪戯で出来上がった恋仲の、なんということでしょう、その間に出来た子なのです!」
 しおりは、狂気に満ちる美香への嫌悪感の割に、心は落ち着いていた。様々な感情が心の中で大人しくしていた。
「病気のパパは、好きでも無いのに優しくする事を悪戯とも思わなかったのよ! しおりのお父さんを嫉妬させてしまって!」
「『しおり』って?」
「え、嫌なの?」
「嫌ではないよ。でも、私の事を『しおり』って呼ぶんだ」
 しおりは、相当な悪意を感じたから、自分の名を呼ぶ美香に戸惑ったが、美香の声が、音が、奇怪ながら澄んだ笛のような響きである事も感じていた。言っている事の悪意の割に、全く悪気の無い様子なのだ。そんな事はあり得るのかと不思議だった。
「とち狂って、しおりのお母さんと結ばれていたら、私もしおりもいないの! 一つの運命が産んだ姉妹なの!」
 しおりは、思いがけず、夜空の月が落ちて来るのかと思った。それくらい荒唐無稽に感じられる一言だった。心にも無い事を平気で言える子に思えた。
「病気のパパは、今頃になってしおりのお母さんを思い出して、好きなの! なんということでしょう! 若かった頃の姿を思い出しては堪えているの! 病気同士、通じ合えると思っているの!」
 美香はそう言うと、暗い時計台の広場で踊るように来た道を引き返した。
 しおりは、達哉が何を思って自分と美香を会わせたのか、以前に美香の卓球を藤間の「続き」と言った事の意味は何なのか、深く考えるのを止めた。美香の言った通りなら、もしかすると美香との卓球対決は代理戦争かもしれず、もしかすると事前に対面させるとは達哉がその意味を承知しているからなのかもしれないと思ったが、考えても仕方が無いと思った。そんな事より卓球で真剣勝負をして、本気を出させて、ピエロの仮面を剥いでやろうと思ったのだ。
 ――それはそれとして、やっぱり気になった。
「お父さん。なぜ私達を会わせたの?」
「ふへへ! しおりには内緒だ! 思う存分試合をしてくれ!」
 達哉は素っ頓狂な返事をして、夕飯にするぞうとお祭りの裏通りへ、しおりの手を引いた。
 しおりは、何事もなかったかのように振舞う美香と父親・藤間に見送られた。
 しおりは裏通りを歩きながら、何かを誤魔化している達哉に、
「お父さんは、私が勝つと嬉しいの?」
 と尋ねた。
 達哉は、振り返って、穏やかな声で
「当たり前だろ」
 と笑った。
 裏通りは人通りが落ち着いていて、小さな料理屋の明かりが、瀟洒な街並みそのものだった。その向かう先、夕食は洋食屋だという。父親がくれるもの、元は役所のお金だ、そこに後ろめたさは無い。以前、つくしから聞いた「ナマポ」という蔑称も、日頃気にする事はなかった。ただ、誰かに貶められるのは嫌だと思う気持ちが、突然湧いて蔓延った。美香の「病気のパパ」という言葉は、しおりの心の、闘志とは別の部分に沢山刺さっていた。美香は藤間の事を言っていた、美香に他意があったかわからないが、村木家も、達哉と清恵が精神障碍者だから生活保護受給者世帯だ。
「ん? どうした?」
 達哉はしおりの顔を覗き込んだ。
「卓球を始めて、やっとと言うか、もうと言うか、半年経ったよ。お父さんに教わって、勝てるようになって、もっと強くなれと言われて。まだ公式戦に出た事も無いのに、私はうんと強くなった気に……」
 しおりはそう言いかけて、ハッと達哉を見た。
 達哉は、頷きながら聴いていたが、相槌が震えて、目は涙ぐんでいた。
「お父さん?」
「なんだ?」
「……あの」
「なんだよ」
「誰もナマポって言わないよ?」
「そっか」
「お父さんこそどうしたの?」
「うんとな…」
 達哉は、涙が流れ落ちるのを堪えながら、その胸中を丁寧に明かした。
「藤間は、もう駄目だ。検査結果がよくないらしい。知能が落ちているって。操作性のある幻聴が薬物療法でも抑えきれない。俺の妻を、清恵を、昔の姿で思い出しては、未来が書き換わる夢をずっと見ている。今は辛うじて、その自覚がある」
 しおりは、知能とか幻聴とか、分からない単語があったが、美香が「病気のパパ」と連呼していたから、かろうじて理解できるものがあった。
「俺も、清恵を守りたいと思えば、思うほど、藤間を思いやってはいけない。そんな事を考えれば、考えるほど、どうしてだろうな、俺と清恵を半分にして生まれたしおりが、清恵よりずっと大切な存在に思えて。だから、しおりは健康でいて欲しいのと、ああ、誰もナマポって言わないんじゃ、そりゃよかった。嫌だよな?」
 しおりは、苦悩にとりつかれた達哉の言葉に触発されて、
「嫌だ!」
 とハッキリと言った。
 達哉は、我に返ったように、「おう」と相槌を打つと、涙ぐんだ目を拭いた。
「藤間さんが、またリハビリからやり直せますように!」
 辿り着いた洋食屋の前で、しおりは、素敵なレストラン、と呟いた。それから二人で食べた夕食は、達哉の苦悩を分け合うようだった。しおりは、「続き」の意味が何であろうと、卓球で、もみのきカップで美香を打ち負かす事の意味は自分のものだと思った。それは時計台の広場で感じたまま変わらなかった。

 ――そして当日を迎えた。

 もみのきカップは、ホープス女子だけで二十八名が参加した。県内オープンのJETS杯が六十名規模だった事を考えると、市民大会でまずまずの集まりだった。
 清恵は、
「藤間さんの娘が来ているわね」
 と言って、美香を指さした。
――お母さん……。マイペースだなあ……。
 清恵は、美香を見るのが嫌では無い様子だった。十四年前に藤間を、交際相手に選ばなくてよかったと言う割には、藤間に遭遇するとわかっているもみのきカップに、平気で応援に来たと、しおりは思った。今頃になって藤間が、精神障碍の症状で清恵を好きになった事を、達哉からどの程度知らされているのかわからない。
「お母さん。藤間さんが嫌いなの? 嫌いじゃないの?」
 清恵は、目をパチクリさせて、しおりの質問に驚いた。それから清恵は、以前に達哉が教えた事に、清恵の視点で補足した。
――やっと聞きたかった事が聞けた。
 清恵が藤間と出会ったのは、病院のリハビリ施設だった。
 当時は人付き合いが苦手で、大勢と表面的に言葉を交わすことができなかった。そんな清恵にとって、明るく突拍子もない達哉の存在は、心を和ませてくれる安全地帯のようだった。
 一方の藤間は、人との対話を「窓を開け、淀んだ空気を入れ替えるようなもの」と言い、粘り強く清恵に語りかけ続けた。その紳士的な態度は、清恵の社会性を取り戻す大きな助けとなった。やがて清恵は、人生のあれこれを藤間に相談するようになり、その言葉を心の支えとした。
 彼が残した言葉のいくつかは、今も鮮明に覚えている。
――「人は自分に厳しくあれば、余計なものは欲しくなくなる。甘さの中にいる間は、何もかも欲しくなる」
――「相手の良いところを見つけ、それを糧に自分の心を強くする。そうして生まれる『好き』なら、それは正しい」
――「性の相手を見つけて永遠を誓うより、そうした欲をくだらないと悟らせてくれる教養ある女性と共に生きる方が、賢明で幸福だ」
 清恵は理解していた。藤間自身もまた精神の病を抱えており、欲望や衝動を抑えるために、頭の中で自らの行動を律する「規範」を築き上げなければならなかった事を。まるで身体に障碍を負った人が車椅子を必要とするように。
 けれどその「理性の枠組み」のせいで、藤間は心のままに動くことができなかった。そこに物足りなさを覚えた清恵は、達哉と比べてしまう。気づけば、二人を同時に好きになってしまっていたのだ。
「藤間さん。病気のせいで昔のお母さんを思い出しちゃったんだよ?」
「達哉から聞いたわよ、全部知っているわ。私から藤間さんへの気持ちは整理してあるわ。藤間さんには私が綺麗に見えるの。藤間さんは、理想の理解者女性と結婚した今も、性的な願望で私に未練があるの」
 しおりは、凛とした清恵に安堵が半分、やっぱり不安が半分あった。
「私達、精神疾患者は、本当に可哀想な人達を除いて、皆、自分の病状に大なり小なり自覚があるの。藤間さんも、リハビリ中はうんと自覚があって、自分の心を、頭で考え抜いたルールで縛り上げていたわ。今は、それが危なくなってきているのね」
 しおりは、達哉も清恵も、藤間の本来の人となりに寄り添って、藤間の病状の回復を願うばかりなのだろうと思った。ただ、達哉を含め自分達が生まれてくる前の親交が、ここに来て根強いのは不思議だった。かつての達哉の言い草では「とっくに友達じゃない」と言わんばかりだった。精神疾患を共に乗り越えようとして、一度芽生えた努力や友情は、折に触れてそこまで絆として蘇るものなのだろうか。
 しおりは、その辺りの心配だけでなく大会前の緊張もあったが、シェイクハンドのラケットを握ると肩の力が抜けてリラックス出来た。けれどライバル達と話しがしたいとは思わなかった。因縁の美香、トラッシュトークのことり。自分の一回戦に集中したい。余計な刺激を受けたくない。
 そんなしおりの背後から肩越しに言葉が飛んで来た。
「しおり! よく来たね! 初めての大会でしょ! お喋りしていたほうが怖くないわよ!」
 しおりに語り掛けたのは美香だった。
「しおりと当たるのは準決勝だね! そこまで勝ち上がって来られるものかしら! 病気のパパにしおりに勝つ姿を見せてあげたいけど! そのまえに負けちゃったら仕方がないでしょ!」
 しおりは、「どうして美香は私に勝ちたいの?」と尋ねる。
「病気のパパは、死ぬの! 書斎で本を読んでいれば幸せだったのに! 何の罰が下って欲望の獣になりました! 昔作った自分で自分を縛る鎖を引きちぎって! 知能は落ち! 心は判然としなくなって! 壊れて! もうずっと今わの際なの! 私は病気のパパに見せるために卓球をするの! しおりのお母さんより私の卓球に夢中になって欲しいの!」
 美香は声を高らかに、隣で立っている父・藤間に、
「そうでしょ! 病気のパパ!」
 と叫んだ。
 藤間は、先程まで黙って見ていたが、ここでようやく口を開いたのだ。
「そうだ。卓球を頑張れば明るい未来に行けると信じた私が、最期、嘘ではなかったと知って死ぬために、美香さえいれば、他に何も要らないと思える時間で、私を包んでおくれ」
 ――結果を語るのは容易い。
 美香と奇怪な男爵のような藤間に心を気圧されてしまい、しおりは一回戦で敗退した。
 美香は、シード選手であるのをいいことにその試合の様子を最初から最後まで間近で見物していた。試合が終わると「一発芸みたいにループドライブを使っているうちは勝てないわよ!」と嫌な事を平気で言う。
 しおりは敗戦の悔しさに泣いた。
 藤間は、「やはり私と村木で悩む者に、私とは勿体ないのだ! 私の卓球の続きが屈辱を返上した記念すべき日だ!」と不思議な事を言いながら、直接戦って勝ったわけでもないのに、娘・美香が勝利したと言わんばかりに、誇らしげなのだ。
 達哉は、しおりが負けてからずっと顔を赤くしていた――顔を赤くしたまま、笑っていた。藤間の威丈高な態度に嫌悪でも、滑稽さに嘲笑でもなく、失態を隠すような笑みで、藤間の言説を聞いていた。
 藤間は、達哉の心配とは裏腹に、清恵の事はもうどうでもよくなった様子で、美香と楽しそうに話し出した。
「差別する人は一つの境界線を引いて、その内側に括られた人々を、誰も彼も同じ奇妙な人達だと思う。弱い人には大きく二通りあり、制限を受けつつも機会に則って戦おうとする人がいる、その一方で、それが一切できない人がいるのだ。戦う弱い人は差別の引き金を引き、憐憫を貪るしかない、戦えない弱い人を疲弊させる。弱い人が弱い人のまま胸を張ってはいけないのだ。健常者の理解者である我が妻との間にできた娘・美香は、機会に則って戦う資格がある」
 藤間の言うことは、しおりには難解に聞こえた。
 清恵は、幾分想像がつく様子で、「妄想と幻聴を背景に自閉的な生活を送っている人は、外部からの刺激がきっかけとなって、いかようにも考えが変わる。藤間さんの頭の中は、いま私の悪口が駆け巡っているのではないか」と言うのだ。
 ――そのまま、村木家と二回戦で負けた反町家は観戦に切り替えて、大会が終わるのを待った。一つ勝ったつくしは、「勝ったほうが偉いというわけではないよ」と慰めながら、しおりを労った。美香は市民大会で初優勝をした。
 
 ――大会を終えて。
 しおり達は、表彰式を見てから午後に家路についた。
 会場の体育館を出ると、まだ日が落ち切っていない空模様が待っていた。
 ターミナル駅までの道を、皆で歩く。
「しおりも、つくしも頑張っている。見に来てよかった」
 きりかは、わざわざ観戦に連れ出されたことを楽しそうに振り返った。
「きりかはフリースクールに行くの?」
「昔、優子が教えてくれたかけ算九九の覚え直しができる」
「そっか」
「しおりも卓球を強くなろう。つくしも頑張っている」
――しおりは、「そうだね」と言って笑った。
 つくしは、
「一つ勝てて嬉しかったな」
 と笑顔で振り返っていた。
 やがて、「それじゃあ、親父の車で帰るから」と言って、お別れをした。
 きりかは、しおりの肩をそっと抱くと、
「しおりの周りの人は、みんな笑っている。意地悪な人たちまで嬉しそう」
 と言った。
 そして、また歩く。
 外の空気を吸う清恵は、「今日はお疲れ様」と改めてしおりを労った。
 母の言葉は温かく、しおりの心を癒す。
 お祭りで通った道が閑散としていた。あの日と同じ家路、ターミナル駅まで向かう道の途中で、達哉はピュウっと口笛を吹いた。
 しおりは思った――お父さんは病状のせいとは言えオペラ座の怪人のような藤間さんからお母さんを守り抜いたと、……きっとそう思って口笛なんか吹いているな。
 そして時計台の広場に通りかかった。
 お祭りの夜に、美香を卓球で倒してやろうと思った場所。
 まるで家族で負けたみたいになった。美香が憎い。美香が疎ましい。ああ、どうやって拭い去ってやろうか。
 しおりは思わず、足を止めた。
 そんなしおりの胸の内を察したのか、達哉は話を始めた。
「灰沢さんには大きな一歩だけどさ。人と違う生き方なんてしないに越したことはない」と語り出した――子どもの最大の利益という言葉があるけれど、そんなものはあっても子どものうちだけ。精神障碍者にも似たような考え方があるけれど、現実は医師も医療機関も、俺や清恵のような大人が社会の中で「無害であること」を目的としている。
 俺達の利益は俺達が自分で守る――そう思う時があると、達哉は語った。
 しおりは、その利益とやらが、要は子である私なのだろうと察しがついた。
「お父さん、藤間さんはどうなるの?」
「藤間は入院するらしい……。奥さんから聞いた」
 達哉は言葉を漏らした。
 しおりは聞き逃さなかった――「藤間さんは入院するの?」と尋ねた。
「ああ、そうだ。奥さんから聞いた」
「お父さん。私は、美香とお話がしたい!」
「はなしって……? 次に会った時は、卓球で今度こそ打ち負かすのだろ?」
「美香は馬鹿にされたくないんだよ! 藤間さんのことを! 私もお父さんを馬鹿にされるのは嫌だよ。お母さんも、馬鹿にされたくないよ。それはまるで夜空の暗闇の様に、黒い、黒い感情だから、パッと晴らしたくて……。入院になったらどうなるの?」
「またリハビリだ! まあ、よかった……」
 しおりは、ゴツリとした黒い遺物が腹の中で音を立てたのを感じた。
 冬のお祭りで会った日は、そうなればいいなと親子で思ったはずなのに。
 なんだこの感じは……。

 人の一歩は、それぞれ意味合いも、彩りも違う。
 病気も、環境も、時として背負わされた荷物。
 誰も挫けてはいけない。

 ――いつか、見知らぬ女の子が言っていた、卓球台には神様がいて、卓球をする人は皆、神様に呼ばれた友達なのだ、と。
 様々な想いが交錯し、しおりは、なんとなく、わがままのように時計台の広場で立ち尽くす。
 達哉と、村木家一行は、しおりが歩き出すのをいつまでも待っていた。
 しおりは、そんな優しさが心に染みて、また泣き出しそうになった。

 ――その時だった。

 立ち尽くすしおりに、突然、聞きなれない言葉の音が投げかけられた。
「あの……。ウチに負けたのがそんなにショックだったか?」
 しおりは声のするほうを向いた。
「一回戦の子だろ……村木しおりとかいう。確かに悪くなかったけど。そんなに落ち込まれても……」
 しおりは、言葉を絞るように、
「貴方は……一回戦で当たった、さくら卓球クラブの、えっと……」
 と返事をする。
「奈代竹よ。ウチが準決勝で藤間に負けて余計ショックよな?」
「うん……」
「皆、同じやって。……さいなら。また会えたらええな」
 奈代竹は、それだけ言い残して、去って行った。
 つくしやきりかが投げかける言葉とは感触が全く違う。
 ――奈代竹は不思議な余韻を残して帰って行った。
 しおりの心は、まるで違う色の色紙が貼られるように、急速に貼り替わって行く。
 美香に気圧された悔しさが、奈代竹に負けた悔しさに貼り替わる。

 しおりは思った。
 大会や対外試合はやっぱり独特の空気がある。
 強い者が勝ち、勝った者が、相手の心を支配するような。
 まるで、皆がそれを目指しているような、感覚に駆られる。
 きりかはあんなに強いのに、外で戦わないから、何かが凄く優しいのか。
 つくしは、チームメイトだから、優しいのか。
 全ての関わり合いは間違いなく自分の努力で勝ち取っていると、しおりは思った。
 何かが、あと一歩なのだと思えた。

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