小説・岩窟の鷹

  岩窟の鷹  作・藤倉崇晃

 八月の未明――大卒二十八歳の高山拳悟(たかやまけんご)は布団の中で目を覚ました。契約社員の新人が来ると、課長が言っていた。商業高校卒の女性らしいが、仕事の出来る者かどうか、わからない。高山の業務を分担する。
 枕の固さが、こころなしかいつもよりはっきりしている。
 築三十年の安アパートの天井を見つめる。
 高山は起き上がり、布団をはいでて、背の高い身体で伸びをすると、思った。
「外、行ってくるか」
 なんとなく、高山は自宅を出ようと思った。
 上はTシャツ、下はジャージ、寝ていた服装のまま玄関の戸を開ける。新聞を取らない高山の郵便受けは空だった。
 学生の頃は空手を習っていた。無精髭は、性に合わず生やしていない。
 高山は、四人家族だったが、卒業と同時に独り暮らしをはじめて、長い。退勤後は、いつも決まって風呂に入った。風呂にはこだわりがあった。シャワーで済ませる者もいると知っていたが、高山は熱いお湯に浸かることが大事だと信奉している。風呂上りには酒も飲まず、つけっぱなしのテレビを聞き流しては、たまに乾いた声で笑う。
「今日は仕事ではないし、好きに過ごすか。牛丼屋にでも行こうかな」
 高山は、たまにはいいかと思った。
 未明の空腹に任せて牛丼を食べて、与野公園のベンチで朝焼けでも見よう。
 アパートの階段を、ガンガンと音を立てて降りる。
 猫に出くわす時間帯だ。

 ――高山は物思いに耽る。

 高山は、週五日も働きたくないという理由でフリーターをしている。二十二歳の頃、学生時代のように平日テレビを見たいという理由で、新卒で入社した会社を半年で退社した。以来、六年間フリーターだ。
 今の勤務先は人材派遣会社だ。内勤のアルバイトをしている――TS人材株式会社の埼玉支店――人材派遣会社で働いていると、よく、派遣労働者ですかと聞き違いをされる。高山は「内勤といって労働者を企業に送り込む、中の人」と説明を補足する。
 ただしTSとの接点――内勤スタッフになったきっかけは派遣労働だ。官公庁向けの事務の仕事だ。当時高山は、職探しが上手く行かず途方に暮れていた。手っ取り早く、仕事が欲しかった。それが、たまたまTSの扱う求人だった。
 その時、履歴書を見た埼玉支店の課長が、
「経済学部卒なのですね、いいですね、まだ若いし。よかったら契約満了と同時に内勤をしませんか?」
 と高山にアルバイトを打診した。
 提示された時給は最低賃金だったが、働きに応じてすぐに上がると言われた。
 高山は、課長を信用して、快諾したし、「人売り」とか「泥水から引き揚げられた」とか「中に入ってしまえばこっちのもの」とか様々な言い方で喜んでいた。別に、自分より弱い立場の人達を管理して、支配を気取りたいわけではなかったのだが。けれど面白おかしく、そのように語って見せた。
 ただし、それは最初のうちだけで、実際に内勤をしてみると激務もいいところだった。残業二時間は当たり前で週四日でも月一六〇時間は働かされた。朝から晩まで、電話、電話、電話。声も枯れ、頭も痛くなってくる。スタッフも、自分を客と勘違いしている者が多く、カスハラ同然に暴言を吐く者もいる。
 業務も多種多様だった。高山の平常業務は、完了報告、求人票、注文確認、就業意思確認、追いかけの五つだ。課長と正社員を入れて平日は五、六名の体制で、狭いオフィスで懸命に働いている。高山の一日の架電回数は五〇〇件近くに上る。受電は多い日で一〇〇件程だ。企業やスタッフからの折り返しの電話がほとんどだ。
 一年間働いた結果、高山の時給は千二〇〇円まで上がり、月収の額面は二十万円と少しだ。ここから税と年金が引かれて、手取りが十六万円になる。高山の収入はそこで頭打ちして、生活にゆとりはない。
「思ったよりずっときつい仕事だ」
 高山は、それでもサラリーマンより一日休みが多いことが嬉しかった。

 ――まだ太陽の出ていない、薄暗い道を高山は歩く。

 電信柱。
 誰もいない児童遊園の金網。
 灰色の空が虚無感を醸し出す。
 そういえば、こんな盆暗な休日を味わいたくてフリーターなんて身分に平気で甘んじている。
「お前の親は何も教えていないな」
 これは高山が大学生の頃、同級生に言われた言葉だ――高山は親を尊敬していないし、精神的な和解もしていない。思春期の「お父さんが偉いわけではない」をずっと引きずって、こんな歳になった。自分でも自覚がある。
 高山には恋人がいたこともあった――誰かに交際の仕方を教わったわけでもないのに、きちんと向き合って付き合ったと自負している。しかし、空手なんて習ったばかりに、自分より遥かに虚弱な生き物に熱心になれない。要は、女性に費やす時間が、馬鹿馬鹿しい。しかし裸体が嫌いだということは断じてない。

 ――牛丼屋は幹線道路沿いにある。

 到着すると、高山は颯爽と店の玄関を開け、来店する。
 そして券売機で大盛セットを買う。牛丼大盛に生卵と生野菜がついてくる。
 ドサッ……!
 前に来店した時は、慎ましく一人掛けに座った高山だったが、この日はなんとなく六人掛けのテーブルのど真ん中にでんと腰掛けた。
「ふっ……」
 息を漏らす高山は、ワンオペの店員をチラッと見て、なるべく早く作れよと心の中で指図する。
「あれ?」
 高山は足の裏、靴のかかとに違和感を覚える。
「なにかあるな」
 高山は何かを踏んづけたと直感でわかった。注意深く足元を見ると……。
「財布?」
 ――俺のじゃない!
 誰かの長財布が落ちていた。高山は、自分でも驚くほどの頭の回転で、これをワンオペの店員に報告するという選択肢を消した。――金はあるだけ欲しい。高山は、まるで瞬間接着剤のようにここで盗みを働くことを決意する。激務薄給の俺に神様のお恵みだ。俺はきっと神に導かれてここに着席した。この財布は俺の物だ。これを落とした間抜けにはいい授業料だ。臨時収入だ。高山の思考は、まるでサバンナのハイエナのように躊躇なく持ち主不明の長財布を盗むことに集中していく。
 ――でもどうやって? いつやる?
 高山は、まず気づかないふりをすべきだと考えた。
 食事が届いたら平然と食べる。
 生野菜から、バリバリと食べた。
 食べている途中に何かを落とした素振りで足元に身体をやる。
 落ちている長財布を拾い上げる――監視カメラからは、机が邪魔をして映らないはずだ。財布はTシャツの内側に隠す。
 高山はやってのけた――もしかすると、退店したはずの持ち主が紛失を知り、引き返して来るかもしれない。急いで個室のトイレに駆け込んで財布の中身を暴くべきではないか――ただ、高山の思考はこうだった。いくら入っているか知らないが、窃盗を働いて無罪放免になりたかったら、少しは危ない橋を渡らないとかえって罰せられるのではないか。警察を欺いたことなどないが、「盗んだのであれば、これはおかしい」という行動を散りばめるとよさそうだと思った。
 クチャクチャ……。
 まったく味がしない。
 高山は、口の中で牛肉の感触のするゴムを噛んだ。
「いくら入っているのだろうな……」
 ガタンッ……!
 そして、高山は頃合いだと思い、立ち上がった。
 財布を失敬してから二分くらい経っただろうか。
 装いも新たに財布を隠し持つ腹部を軽く押さえる。
 一歩、一歩、緊張を押し殺して、安全地帯である個室トイレに向かう。
 ガチャリとドアを閉めた瞬間は、一番の難所をクリアした安堵に包まれた。
 Tシャツの裾から、盗んだ財布をスッと取り出す。
「神様のお恵みはいくらだろうな?」
 財布を開けると、犯罪のスリルとはまた別の、独特の緊張感が立ち込めた。どこの誰かは知らないが、その、他人の生活、もしかしたら人生が詰め込まれているかもしれない、この社会でおよそ最も貴重な物――財布――その中身を「見せてもらう」という独特の緊張感に、いくらか恐れ入った。
「……二、万円……あと八千円! 税金に少し足りないくらいだな!」
 高山はカード類もチラッと見たが、年配のようだった。住所といい、医者といい、近隣ではなかった。
「ドライバーかな? 今頃、血相を変えて引き返してやがるかもしれないな!」
 高山は、天井に近い高さにあるトイレットペーパーが積まれている棚に目をやり、用のなくなった財布は、ここに潜り込ませるのがいいかと思った。
「……いや、違うな……。ここにしよう」
 高山は、便座の横の壁に建付けられた台に、財布を置いた。
 高山は、財布を置き去りにすると、扉を開け、そそくさとトイレから戻る。
 ここで真っすぐ退店せず、悠々と元の席に戻るのだ。高山は、もう一度だけ博打を打った。思考は先程と変わらない――完食しよう。
 高山は、グチャグチャと卵かけご飯にして牛丼大盛をガツガツと平らげた。
 高鳴る鼓動を抑えて、少し急いで完食する。
 食べ終わると、またガタンと席を立って、食器を返却棚に戻す。
――持ち主が帰って来る気配はない!
 そして、悠然と店内を歩いて、退店した。
 ――やった! 臨時収入!
 高山は完遂した。
「完全犯罪だ」
 高山は、気の小さいやつなら今頃心臓を吐くくらいドキドキするものだろうなと思いながら、予定通り朝焼けの公園に向かった。
「二万八千円も盗んだ! 俺はやればできる男だ!」
 高山は、自分の悪事を偉業のように讃えて、自信に満ち溢れていた。――財布なんて滅多に拾えるものではない。一発でものにした。
 公園までの道を、意気揚々と歩む。
 少し日の出た、朝の公園の時計は午前五時を少し過ぎていた。
 犬の散歩もまだいない。
 六時頃になるとラジオ体操の御老人がぽつぽつと集まり始める。
 ベンチに座ると、ふと思い出したのは、日頃、高卒の柊信雄(ひいらぎのぶお)に頭のあがらない職場のことだった。

 ――高山は日頃の業務を思い出す。

 高山の嫌いな先輩アルバイト――名は柊と言う。年齢は同い年だが、柊は高山が働き始める数年前から勤めていて、高卒だてらに課長に気に入られていた。柊の主な業務は求人票だ。たとえば顧客企業にO運輸という運送会社があって、注文があれば勤務日前日の昼に突然O運輸側から電話がかかってくる。人員を急いで集めなければいけない。これは改善して欲しいから、支店は課長を通じて、可能な限り前もって注文して欲しいと伝えてある。しかし、あまり効果が無く、毎度急いでO運輸の求人票を打ち込む。飛び入りの求人票は柊の持ち場、柊が出社している日であれば柊がやることが暗黙の了解だ。
 にもかかわらずO運輸の電話番号で掛かって来ても柊は電話に出ようとしない。それどころか高山に「出ろ」と督促する。高山に言わせれば、「電話番号を覚えていないのか? お前の持ち場のO運輸だ!」と言いたくなる。しかし柊は、電話を後輩アルバイトの高山に受けさせる。
 高山は電話に出る――内容を聞いて、「O運輸の求人票をお願いできますか」と柊に頭を下げる。柊は、そんなやり取りをわざわざ要求しているようだ。高山は、O運輸とわかって電話に出ない柊を見る度に「ゴミくせぇ高卒だな」と思っていた。
 高山に言わせれば、仕事なんてとっとと終わらせて帰宅したほうが良い。さらに言えば柊はその手の連帯感が一切なく、狭いオフィスで自分の居場所を守るべく、後から来た大卒者を敵視していると思う。序列争いを優先している育ちの悪い低学歴だと思う。
 それでも課長に言わせれば「それでこそ愛社心だ」ということだった。釈然としない高山も、課長も課長で本当は柊など米粒くらいにしか思っていないと思うと、清々した。
 高山が柊を馬鹿にする理由はもう一つある。
 高山の業務はイレギュラーで六つ目がある。それは朝当番と呼ばれる。就業開始時刻の三時間前に出社して、当日の朝、単発バイトで働くスタッフが自宅を出発したかどうか確認する仕事だ――専用アプリの出発確認ボタンを携帯端末でクリックしたスタッフはそれで確認完了。問題は、押さなかった出来の悪いスタッフだ。彼らにはまずメールを一斉送信し押すよう督促する。それでも押さなければ電話をかけて、直接出発した旨を聞き出す。もしも欠勤と判明したスタッフがいれば――これが一番、面倒な仕事だが、顧客企業(発注元)に電話をして「すみません、〇〇さんが欠勤です」と伝える。当然、怒られる。朝当番の仕事は、顧客から怒鳴られ、愚痴を聞かされ、それでも顧客にへりくだり、なだめ、すかして発注が止まらないようにする仕事だと高山は理解していた。
 ――高山には理屈が育っていた。勤怠の悪いスタッフを働かせることは、一見、その出来の悪い馬鹿に救済の道を与えている。しかし、それは過ちだ。なぜなら欠勤者が次第に増え、中長期的にみて顧客から注文が減り、働きたい善良な登録スタッフ一同の首を絞めることになる。だから、勤怠の悪いスタッフが応募したら、念入りに就業意思確認をするのが最善だ。
 この点で、柊から苦言をもらうこともあった。高山が念入りに就業意思確認をしていると、柊は「働かせてやればいいだろう、なんで念入りに確認するのだ」と叱るような態度をとる。その度、高山は内心、柊は馬鹿だと思う――柊は課長のお気に入りで朝当番に駆り出されないから、欠勤者を出す事の意味をよく知らない。そのぶん頭が悪い。高山は、そう思って真っ向から議論しない。無学な柊らしい近視眼的な救済だと心の中で馬鹿にして、野太い声で「はい、わかりました」とだけ言う。そして、これ幸い、欠勤リスクのあるスタッフを平気で決定する。
「別に明日は俺が朝当番じゃないし、いいやあ」
 結局、高山は柊と正面衝突することなく、会社に居座り、内勤業務を続けていた。高山には、我こそは人材派遣会社の誠実な内勤スタッフだと自負があった。俺達が内輪揉めをしないことで、大勢のスタッフが仕事にありつける。課長や社員の営業努力を無下にしないために、大卒の英知が理屈を育て、理屈が機能していると考えていた。

 ――高山は満足気に思い起こす。

「世の中、容赦で成り立っているのだよな。俺は柊に容赦している」
 財布を盗られたまぬけ然り、空手の試合で殴り倒された雑魚然り、容赦を失えばそんなもの。
 とにかく高山は満足気だった。
 生活苦というわけではないが、贅沢は一切できない家計だった。高山は賭博も風俗も行かないが、経済的なゆとりが恋しかった。
「お恵みは、日頃、スタッフの生き死を扱っている苦労が認められたのだ」
 ――この日の高山はとにかく上機嫌で、滅多に行かない大宮の繁華街をあてもなくほっつき歩いたり、漫画喫茶で漫画を読んだりした。昼頃になると、漫画喫茶の個室でカウチソファに寝そべって、何やら考え事をはじめた。
 思わぬ形で金を拾った高山は、店舗の壁に多数掲示されている「当グループで一緒に働きませんか?」という求人に思いを馳せていた。たった二カ月で月収五〇万円とは、流石に嘘だろうと思いつつ。きっと、風俗店のようなダークな仕事に回されて、こき使われて、死ぬほど危ない目に遭うのだろうな。
「ダークな仕事……ふふっ……そうだ……。久しぶりに出会い系サイト、やってみるか」
 高山は、ソファから起き上がるとパソコン端末のキーボードを叩いた。
 高山は学生時代につくったアカウントでログインし、物見遊山で出会い系サイトの投稿を順繰りに閲覧した。
「出会い系……五年ぶりか……久しぶりだな……いま、こんな感じか」
 高山は、器量の良い若い女性の写真が目に留まった。体形はスリム。黒髪が長く、つぶらな目を、わざとであろう、ぱっちりと大きく開いた、斜め上四十五度から撮影された画像。
「あ……こいつ、本物っぽいな……加工っぽくない……」
 高山は、いくらか知識があった。出会い系サイトには援デリ業者と呼ばれる脱法者が蔓延っている。ホテル代別一万五千円などの条件で、要は売春をする連中だ。高山の目に留まった女性は、援デリではなさそうだった。
「いますぐ会いたい……大宮で軽め」
 高山は、掲示板の投稿の表題を確認した。件の女性は、既に大宮駅付近にいて、男性からの連絡を待っている。軽めとは、ホテルではなく漫画喫茶などでサクッと会うことをいう。
「あ……でも、嘘くさいな。メールアドレス収集業者かも……」
 高山はまたソファにゴロンと寝そべって、天井を見上げた。
 高山には独自の思考があった――誰かがつくった売春プラットフォームにお金を落とすのは嫌だな。この援デリ業者の親玉の顔は見た事がないが、仕切る人間の養分になるのは、プライドが許せねぇな。
 高山は全く同じ理屈で、日頃、賭博も風俗もやらないのだった。
「そもそも、こんなサイトには淫売しかいないものだ」
 ――高山はそう思ったものの、写真の女性が気になったから、妙なフラストレーションを抱えたまま、漫画喫茶を退店した。
「うなぎが食べられる」
 高山は、そのまま真っすぐ自宅に帰ろうとしたが、鰻屋の看板が目に入った。鰻を食べるだけの余裕が、ひょんなことから、ある。鰻屋は、昔、家族で行ったことがある。少年時代だから、当然、父親が御馳走したものだ。
「ここ、確か、五千円だったか?」
 高山は、昼飯を豪勢に鰻屋に入ろうと思って、しかし思いとどまった。
「盗んだ金……」
 高山は、盗みを働いたことが後ろめたいというよりは、むしろ仕事に明け暮れて得た収入で御馳走する側をやった父親に、致命的に負ける気がした。
「……なんだよ」
 高山は、鰻屋の看板が次第に憎らしくなった。よく見たら、昼営業は終了しましたと看板が立てかけてある。次に店が開くのは午後五時だ。
「……ざっ……けんなよ」
 高山は、すごすごと引き上げて、自宅へ帰る。
「本当に盆暗な休日だよな。もっと稼ぐか……どうするかな?」
 高山は思った――深夜の路上で自転車に体当たりしたら、そいつの財布の中身を頂けるのではないか。しかし、それは強盗だ。傷害という罪状も加わるだろう。たかが二万八千円が欲しくて、そんなことはできない。俺は、運よく、本当に効率よく臨時収入にありついたものだ。
「神様のお恵みだからな」
 高山は、携帯端末のミュージックアプリを開いて、音楽を聴いた。小学生時代から好きなロックバンドの音源を口ずさむ。
「何一ついいことなかったなあ~♪」
 高山は、以前にクビになった学習塾のことも思い出した――そういえばアニメ声優をやっている女の子がたまたま事務職で勤めていて、声が綺麗だった。
「名前~♪は、イニシャル♪……それしか、言わなかった♪」
 高山は、あんな子が新人だったらいいなと、少しだけそう思った。
「牛丼屋にしばらく行けないよ……On Your Way♪」
 高山はまた思い出した――二十歳の頃、父親に十年後に何をやっていたいか考えろと言われた。これが、高山が家族のもとを離れようと思った致命的な理由だ。今まで、勉強をやれ、机に向かえと指図して来た父親が、ポンと梯子を外して自分で考えろと言った。
「俺は、大学に行きたくなかったのだよ。親父は、本当に中途半端なところで梯子を外した」
 ただ同時にこうも思う――あと、二年あるか。二年といえば、長い――高山の感覚で二年は長い時間間隔だ。三十歳って何をどうしているものなのだろうな? しかし、その問いの答えはとっくに知っていた。職場で責任ある立場です、若手を教育する立場です……。
「はっはっはっ!」
 高山は遂に乾いた笑いを声に出した――知らねぇよ、そんなもの。いらねえ。
 帰宅すると、のんべんだらりとテレビを見て、夕方に昼夜一緒の食事を取って、寝た。
 高山は自分の思考が独特だという自覚がある――お爺ちゃんになって、子や孫に囲まれて、幸せになるために生きている、なんて言う奴は、若い頃の気力体力のままジジイになれると思ってやがるのだ。そして、同時にこうも思う、「無理しなさんな」――お前がなんとか理屈をこねくり回して真似しようとしている真面目な連中は生まれつきだ、と。ここまでひっくるめて、自分の思考が独特だと、思っている。俺は、ことさらそんなことを言う奴と同類だが、無理をしない賢明さがあって、それが売りだ、と。
 ――そして、翌日の朝。
 異様に、蒸し暑い。
 高山はガンガンとアパートの階段を降りて、出勤のために自転車に跨った。
「今日は働きますよ」
 短パンは禁止だから下は長ズボンだが、上はTシャツでも咎められることはない。
 自転車で走り抜ける道は人通りも少なく、サッと滑走して、一気に駅前まで行く。
 高山は、煙草をやらないから、業務中の息抜きは缶コーヒーだった。まるでドーピング剤のように、途中のコンビニで缶コーヒーを三本買う。大きなボトルを買うのは嫌だった、飲みかけを口にするのが嫌なのだ。
「さて、新人の女ってどんな子だろうな?」
 高山は、そう言いつつ、空を見上げた。
 八月の雲がこんこんと積み上がる空は青い。
 家電量販店の駐輪場に自転車をとめて、支店まで歩く。ソニックシティからジャック大宮までの桜木町の歩道を抜けて、支店は四丁目にある。
 通いなれたアスファルトが古ぼけた絨毯の模様のような桜木町の通り。
 高山は、子どもの頃は、ピアノの教室に通っていた。支店のビルの近くに、あった。今はコンビニだ。店が変わっても、道は、少年時代に通い慣れたアスファルトが二十年経っても変わっていない。
 二歳上の姉はピアノ講師になった。音楽の道を進んだ姉に比べて、高山は「お前は机に向かっていろ」とだけ言われて育った時間が、あまりに長い。
「姉さんは、道があってよかったよな」
 それも、いまだに父親と精神的和解を遂げる気になれない理由だった。
 支店に着いた高山が、真っ先に驚いたのは、件の新人が、出会い系サイトで見た顔写真そのままの女性だったことだ。
 ニコニコと微笑みながら、椅子に座り、机に向かって、課長らと一緒にPCの立ち上げ作業をしている。
「おはようございます」
 高山は、低い声で朝の挨拶をする――なんで、淫売がここに? その新人の面倒で、高山に一瞥もしない課長は、「はい、おはよう」と間延びした声で言う。
「はい」
 高山は、低い声で再度返事をして、下を向いた。
 新人は、腰掛けたまま、背筋を伸ばして、真っすぐ前を向いている。
――真面目そうではある。
 やがて、突っ立った高山に気付いた新人は、
「石島美穂(いしじまみほ)です。本日から宜しくお願い致します」
 と丁寧に挨拶をする。
 高山は、「はい、高山です」とだけ返事をする。
「課長、俺の隣ですか?」
「ああ、そうだ。 ……じゃあ石島! 午後から高山が業務を教えてくれるから! 午前中は新規登録スタッフの本人確認で架電をして」
「わかりました! 新規登録スタッフの本人確認をします!」
 石島はやる気満々の声だった。
 そして、また屈託なく高山を見る。
 ニコッと笑って、「やっと仕事が見つかりました!」と嬉しそうにする。
 高山は、出会い系サイトで見た顔で間違いないと改めて思いながら、自分の席に座る。
「職探し、していたのですか?」
「はい!」
 石島は嬉しそうに笑うと、「フリーターでした」と満足気なのだ。
「ここも、結構大変ですよ、人を売る、『側(がわ)』だなんて誤解ですよ」
「あ! それは少し思いました! 気をつけます! 一生懸命働きますので、よろしくお願い致します」
 石島は机に座ったまま、お辞儀の様に腰を折って、笑う。
 高山は、これはよっぽど会社に潜り込むのに苦労するタイプだなと思った。昨日のこともあって――きっと、風営法の対象になる店の世話になる系統の、ふたを開けてみればゴロゴロいる駄目な若い女の一匹なのだろうと決めつけた。
「はい、じゃあ、皆。十時になったので朝礼をします、……」
 高山は、課長の目を見て、朝礼を聞いた。
「A倉庫さんの依頼が復活しました。A倉庫さんは大事なお客様なので、スタッフの欠勤には十分注意してください。何かあるとすぐ、依頼が止まっちゃうお客様なので、ね」
 朝礼が終わると、高山は素早く朝の注文確認から入った。顧客企業に「事前にお送り頂いた求人票通りに□名集めて構いませんか、いま△名の応募がありますけれど、決定して構いませんか」と失礼の無いように電話をかける業務だ。
 確認をとれた注文から順次、応募スタッフの決定、または就業意思確認をする。過去の勤怠を確認して、欠勤やキャンセルをしたことがあるスタッフには電話をかける。電話が繋がった場合は決定、電話が繋がらなければ応募状態のまま保留である。
 午前中は、それらの業務に追われる。受電も主に高山の仕事だから、電話がかかってくるたびに手を止めて、カスタマーサポートのように電話応対をする。スタッフから給与関係の問い合わせ、就業意思確認の折電、キャンセル連絡、企業から注文確認の折電、稀にクレームを貰う。間違っても課長や社員達に受電させるわけにはいかない。そもそも彼らの手が、なるべく空いたまま、営業に集中できるように、高山なり、柊なり、新入りの石島なり雇われている。
 正午になると、課長と石島が昼食に出かけた。昼休憩は、いずれかのタイミングで一時間許されている。きっと新入りに、今後やって行けるか確認するのだろう、高山の初日もそうだった。
 午後一時になると、二人は談笑しながら戻って来た。石島の弾んだ声が、課長とランチして良い雰囲気だったことを物語っている。
「高山さん、先に飯行ってどうぞ」
 柊だ――柊はいつも二時に昼食を取る。社員ら営業側と違って、高山ら業務側は一人ずつしか昼食を取れない。それくらい電話応対など業務の量が多い。
「はい、柊さん。お言葉に甘えて行ってきます」
 奇妙なくらい、俺達は互いに「さん」をつける。まるで、呼び捨てにしたら何かが終わるくらい火縄がくすぶっているのを、両者共に承知しているかのように。
――今日は、火がつきそうな気配すらないな。
 高山は、いつになく平和な午前中だったと思う。
「高山さん! 午後は追いかけをやるように言われました! 戻って来たら教えてください!」
 元気の良い声で、石島は言う。
「あ、はい。よろしくお願いします……」
 追いかけは楽な仕事だから、新人にぴったりだ。明日の空き現場は多い。俺も午後は追いかけだと思って、支店を出た。
 支店はビルの四階にある――エレベータを待つ間、高山は思い出した。先輩の社員から、新人の頃に言われた。「いつも遅くまで、どうもありがとうございます」と、敬語でねぎらわれた。思ったより人材派遣の内勤がきつくて、へとへとだった退勤時に。その時は「じゃあ、明日は先輩のために、またここに来ます」と心の中で思った。そんなことを繰り返していれば、マシな人間になる気がしていた――実際、電話応対の能力は飛躍的に向上した自信がある。
 数時間ぶりに外の空気を吸う。
 桜木町を、来た道と逆に歩んで――ソニックシティの近くのコンビニで、おにぎりとつくね串を買った。ソニックシティの噴水広場で食べる。八月は水がはってあって、この日も幼児が水遊びをしている。
 キャッキャという子どもの声が、噴水のさんざめく音に混じる。
 高山がベンチに腰掛けて食事を始めると、鳩が寄って来た。高山の足元で、アスファルトをつついている。一羽寄って来ると、二羽、三羽と寄って来た。
「餌なんてねぇよ」
 高山は、そう言いつつ追い払わずに、鳩を見物しながら食べていると、思わず、つくねの欠片を落とした――それを、鳩が突いて食べた。
「おいおい、鳩がつくねを食うんじゃねえ! 共食いだぞ! オエーッ!」
 すると鳩は、今度は高山の靴のつま先を突き始めた。
「いてえ! アハハハハ! 凶暴化した! 目覚めた!」
 高山は、鳩が面白くて仕方がなかった。
「縮図! やべえ、縮図だ!」
 高山は、立ち上がると、そそくさと支店に戻った――自分で言うけれど、笑えるなあ、俺は。笑えねえ奴らが大勢いるのに、思わず笑っちまう身分ではある。先週は「おにぎりが食べられないから、給料を前倒しで振り込んでくれ」とせがむ電話が五十代のスタッフからかかってきた。
「おにぎりを食べてからでないと、働けないじゃないですか」
 高山は、うんうんと一人で頷きながら、また来た道を引き返した――まあ、父親が言うのは、ああいう可哀想な五十代になるなということなのだろうな。俺はそういった意味で実学に励んでいる。
 支店に戻ると、石島が「高山さん、なんで笑っているのですか!」と嬉しそうに問いかけて来た。
 ――ああ……。まあ、暗い人が来るより全然、悪くないわ……。
「高山さんは、煙草は吸わないのですか?」
「俺は吸わないです。石島さんはアイコス?」
「はい! アイコスです! どうしてですか?」
「……家では思いっきりふかしていますか?」
「いいえ!」
 ――アイコスならいいや……。
「はいはい。じゃあ、石島さん。追いかけの仕方を教えますよ」
 高山は、一瞬、柊と目が合ったので、「あ、柊さん。高山は戻りました」と伝えた。
「じゃあ、石島さん。見ていてくださいね」
 高山は着席すると、早速、カチカチとマウスをクリックして、ファイルをダウンロードした。
「やり方は、必ず覚えてください。これは、A倉庫様で過去、勤務した経験のあるスタッフの一覧表です。……この列に数字が入っていますね? ゼロは無断欠勤したまま連絡が取れない人。五は問題児です。一も癖の強い人です。三が傷一つない善良なスタッフで、四は連絡欠勤やキャンセルがちょっと多めだけど、いないよりはマシなひとです。二は、こちらから架電しないで欲しいスタッフです。ゼロと二以外の全員に今から電話します」
「A倉庫さんの経験者を、まずこうやって一覧にすればいいんですね!」
「はい。……顧客企業様だから、『A倉庫様』と呼びます。スタッフに打診するときは『A倉庫さん』で大丈夫です。課長は先方の担当者と対等だから『A倉庫』って呼び捨てたりするけど、真似しちゃいけません」
「A倉庫様と呼ばないと、いけないのですね!」
 高山は、石島が同じ表を作成できたのを見届けてから、一回やって見せることにした。
「電話は繋がらないことがほとんどです。今日は急ぎではないから四回鳴らしてください。いきますよ……」
 高山はリストの電話番号に架電する。
 プルルル……
 プルルル……
 プルルル……
 プルルル……
「出なかった場合、この人はこれで終了です。折り返しの電話を待ちます。一覧表に戻ってすぐに次の人に電話します」
 プルルル……
 ――はい……?
 ――――お疲れ様です! TS人材の高山です! 御経験のあるお仕事で、明日、募集中のものが御座います! ご都合がよろしければ、是非……と思いまして、お忙しい中恐れ入ります、お電話致しました。
 ――どこ……?
 ――――A倉庫さんですね、六月に行かれたことがあるお仕事です。
 ――ああ、倉庫か。あ、そ、こは……きついからいいや、パス。
 ――――左様で御座いましたか! もしもお仕事をお探しでしたら、是非TSのポータルサイトでお探し頂けたらと思いますので! 今日は、お忙しい中ありがとうございました。
 プッ……!
 高山は電話を切ると得意気に、「今みたいな感じでやってね」と伝えた。
 石島は「わかりました!」と自信満々だ。
「……本当に、わかったの?」
「はい! できます!」
 高山は、追いかけはこう見えて奥の深い、生命線ともいえる業務だけど、できると思うならいいや、と心の中で呟いてA倉庫の追いかけを石島に一任した。――A倉庫の経験者は五百人いるから、消化するには真面目にやっても半日かかると思われた。
 高山は別の空き現場の追いかけをする。
 高山には持論があった――人材派遣会社なんて腐るほどある。スタッフにクリーンなイメージがインプットされて、TSはまともだと思って貰うことが最重要だ。そうすれば、自発してポータルサイトにアクセスする動機になり、応募は増える。めぐりめぐって、空き現場は減り、追いかけそのものが必要なくなる。
 高山は、いつも埋まらない三郷の一名現場に目をつけた。比較的良心的な現場なのに、募集が少ないから認知度が低い。経験者もほとんどいないから、通常の追いかけでは埋まらないだろう。
 高山は、石島が午前中、本人確認をしたばかりの新規スタッフで八潮に住む一名に即座に電話した。
「繋がってくれよ……」
 プルルル……
 ――はい……?
 ――――お疲れ様です! TS人材の高山です。
 ――あ、はーい。お疲れ様です。
 ――――本人確認、ありがとうございました。早速ですが、お近くのお仕事が募集中なので、いかがですか?
 ――いつですか?
 ――――明日です! 午前九時開始の八時間勤務、休憩一時間です。時給は一三〇〇円ですね。アクリルキーホルダーの袋詰めです。ポータルサイトでも「アニメグッズの袋詰め」というタイトルで求人が掲載されています。重量物ではないですし、働きやすい現場でおススメですよ!
 ――あ……、わかりました。じゃあ、サイトを見てみます。ありがとうございます!
 プッ……!
「いいね……。埋まりそうだ……。埋まるかな?」
 高山は、滅多にない好条件なので新規スタッフには是非行って貰いたいと思った。TSの求人を信用してもらうにはうってつけの現場だ。
 そうやって、高山が試行錯誤、あの手この手で追いかけをして、一時間が経過する。
 突然、石島は「終わりました!」と元気よく声を上げた。
 高山は驚いた。
「は? 終わったって何が?」
「A倉庫様! 埋まりました! 七名、行ってくれる方を見つけました!」
「え? 埋まったの? どうやって?」
――たった一時間で?
「え、普通に……」
 高山はグッと息を飲んでから、業務側の管理画面を確認した。
――いきなり、嘘っぱちじゃ困るのだけどな。
 カチリ、カチリとクリックをしながら、A倉庫の決定済みスタッフを確認する。
 なんと、本当にA倉庫の明日の人員が充足していたのだ。
 高山は、
「凄いな! 即戦力だな!」
 と声を上げた。
 石島は照れ笑いをしながら「はい、皆さん、行きますって言ってくれました」と嬉しそうだ。
「普通にやりゃあいいのかよ。俺、それ一番言われたくねえ!」
 石島は、アハハハと笑う。
 高山は、
「よーし! じゃあ、次の空き現場は、家具のN様だな! 一緒に追いかけましょう!」
 と意気込む。
「何名空きですか?」
「日勤、昼勤、夕勤、夜勤合わせて八名だね。俺は夜勤を追うから、石島さんは日勤と昼勤を同時に追って欲しい。夕勤は勝手に埋まるだろう」
「どうやるのですか?」
「ああ……。ダウンロードするファイルをサーバー側で作成するとき、こことここにチェックして。どこもチェックしないと経験者が全部取れる。さっきはそうしたけど、今回は日勤と昼勤にチェックしてください」
「……はい! ありがとうございます! わかりやすい!」
 それからずっと、高山と石島は電話をかけっぱなしだった。
 午後七時の定時になると、Nの募集は充足しなかったが、初日の石島はあがるよう課長に言われた。
 石島は席を立ちあがると、「高山さん、今日はありがとうございました!」と言う。
 そして、
「皆さん! お疲れ様でした! 明日も宜しくお願い致します!」
 と礼儀正しく、挨拶して、石島は帰って行った。
 課長が急に顔色を変えて、
「高山は残って追っかけ! あと一時間!」
 と、檄を飛ばす。
 高山は元気よく「はい!」と返事をする。
 高山は三本目のコーヒーを飲んだ。
 この時間帯になるとスタッフから電話が頻繁にかかってくる。とにかく受電の量が増えるので、定時でその日の仕事を終えた社員も加勢して、対応に追われる。まさに残業だ。
 電話が鳴りやまない支店で、高山は、時折受電で手をとめながらも、懸命にNの経験者を追った。
 課長はきっちり一時間後に、
「高山、Nに言った? 二名足りていません……」
 と尋ねて来た。
「夕方五時に五名足りません、で、報告しています。担当者さんは苦笑いでしたね」
「かけて」
 高山は急いでNの担当者に電話をする。
「伝えたら、雑務でいいや。柊、雑務をお願い」
 雑務とは、明日のタイムシート類を客先に送信する業務――全現場、おいかけ終了の号令だ。
 柊は、はきはきした声で「はい!」と返事をして、雑務を始める。
 高山は丁寧に平謝りの小芝居をしながら「二名……足りません……申し訳ありません」とNの担当者に報告した。Nの担当者は「御社の業務終了時刻まであたってください。我々は退勤なのでタイムシートは、いま送ってください」と言う。
 高山はかしこまった声で、それでいて元気よく「はい! 承知致しました!」と返事をする。さも、言われた通りに限界まで居残るような、まるで腹を括ったような声を出す。
 雑務は、柊と手分けして、三十分で終わった。
 そして午後九時に退勤になった。
「お疲れ様でした! 明日も宜しくお願い致します!」
 高山は威勢よく退勤の挨拶をして、帰った。
 退勤のエレベータが一番気持ちの良い瞬間だ。朝は大嫌いな密室の匂いが、夜は自由を回復したことを告げる。
 帰り道の駐輪場までの道を、夏の夜のぬるい空気に身を包んで「終わった、終わった」と歩く。
「帰ったら風呂入るぞ。夕飯は、レトルトのカレーにしよう。ジャガイモの切り置きがまだ残っているからな。ジャガイモは便利だ。ニンジンも切るか、せっかくだから」
 独り暮らしなど母親の猿真似でどうとでもなった。高山に言わせれば、息子でもなきゃ面倒見なかったのだろうな――他人に聞くと「優しいお母さんだね」と言われるが、高山の持論は「親は役割だ」の一点張りで、要は役目としてやってくれていたのだと、思う――母さんは、俺なんか懸命に育ててくれた。
 なんでもない暮らしに溶けていくお金が、今月は二万八千円のゆとりがある。高山の「神様のお恵み」という考え方は一切ブレなかった。幸せと不幸せを全部足したらゼロになる世の中だ、平成不況というらしかったが、令和は不況じゃないのかといえば、そんなはずない。高山は、勝利の感覚すらあるのだ、盗みが。
「淫売だからな、石島は。人間的な所に一切立ち入らないようにしよう。仲間として仲良くなるぞ。仕事は連帯」
 この日以降、高山は石島に懇切丁寧に接した。
 石島は次々業務を覚えようとするが、得意不得意が異様にはっきりしていた。
 石島は勉強熱心ではなく、三郷と八潮が近いとか、五反野が何線の駅か全く知らなかったし、覚えようともしない。男衾など駅名を見て笑うし、八高線など存在も知らなかった。
 求人票も苦手で、HP運送の三時間勤務は時給千五〇〇円、五時間勤務は時給千三〇〇円だが、時給を取り違えて掲載し、特大のクレームになった。
「今、TSさんのサイト見たけど逆になっていますよ」
 顧客に指摘されるのは最悪だ――石島は、長時間だから高時給なのかと思いましたと言う。
「力仕事は罰ゲームではありません。短時間ほど高時給にしないと実入りがないでしょう」
 高山はそう言いながら、スタッフ連絡を手伝い、尻ぬぐいをした。五時間勤務で決定済みのスタッフをなんとか、なだめすかして「千三〇〇円でもいいですよ」と言わせた。
 石島は、トータルで見ると役に立つギリギリのラインをひた走る。けれど高山の癇に障ることは一切しなかった。
 入社の翌週日曜日――休日出勤の高山と石島、石島がまだ新入りだから社員一人が加わった三人営業の日に、飲みに行った。数年前、入社したての頃の高山をエレベータ前で励ました、あの社員だ――西村と言う、課長の右腕。
 西村は「思いつきだけど、石島の歓迎会しよう」と言って、少し強引に東口へ回って繁華街に二人を連れ出した。
 酒席で、西村は下世話な話題を熱心にした。
 石島もすっかり乗せられて、
「同じ仕事場で続かないのですよ!」
「彼氏はずっといませんよ!」
 など自分を晒し続けていた。
 高山は、黙って聴いていたが、
「石島さんは生きることに熱心なだけですよ」
 と、グラスを見つめてそう呟いた。
 石島は、感銘を受けたように、
「ありがとうございます! 心強いです! 社会を知っていますね!」
 と熱のこもった声で言う。
 高山は、「この国には隠れた大罪があるんですよ。真面目に職探しをしない罪。スタッフは皆、罰せられている。俺達は、その一段上」と意味深な台詞を言って、乾いた声で笑った。
 それから、高山と石島は、西村を交えて何度か一緒に飲んだ。
 西村は、本社の出世頭の女性社員を尊敬していた。下世話な話に混じって、何か真剣な話題になると必ず引き合いに出される人物だった。西村は、TSに来るまでの職歴は、高山同然にズタズタだったと聞く。もうすぐ本社で課長になるその人を、見習っている部分が多々あるのだろうと、高山は思う――人間的成長のきっかけや理由を、他人が持っていると思えば、間違えることはない。西村の先輩が西村に、西村が俺に、やってくれたことなのだろう。
 九月になると、西村の尊敬の対象は本当に東京の女課長になった。西村は、十月に東海に転勤になった。大阪出身の西村は、最後に、故郷に戻るのだと、そのような話を小耳に挟んで、高山は、正社員のキャリアのモデルをおぼろげながら知り得た気がしたものの――自分の生き方として模倣する気力はなかった。のんべんだらりと盆暗に暮らすことに、疑問までは持てない。
 転勤して埼玉支店を去る西村の送別会は、行われなかった。
「これからどんどん忙しくなる時期に自分が抜けて、申し訳ない。埼玉で苦労を続ける皆さん、TSの連帯のなかにいるのだから送別も、なにも、ないですね!」
 高山は、西村らしいと思ったが――そんな一幕とは対照的に、西村がいなくなって赴任してきた入社二年目の社員・八頭の歓迎会は週末におこなわれたし、皆、二次会で朝帰りだった。
 高山は、これから野田線で帰る石島と、大宮駅東口の喫煙所で立ち話をした。
 ブラックコーヒーを飲む高山と、アイコスを一本吸う石島。
 高山は、
「いちおう俺がバイトで、石島は契約社員だから。石島の立場が上だぜ」
 と言って、乾いた声で笑った。
 石島は、「いいですね! それ! 命令してやろうかな!」と言って、語り始めた――パチンコを辞めたこと。昔はアニメ声優になりたかったこと。アニメが大好きなこと。
「ああ、ドキンちゃん?」
「はい」
「ドキンちゃんのキーホルダーな……」
「そうです!」
 高山は何かを思い出したように、突然、空き缶をゴミ箱に捨て、ガコンと音を立てると、笑いながら「じゃあ、俺、帰ります」と言って立ち去った。
 ――石島の机に置いてあるヤツな……。
 支店は年末に向けて、順調に忙しくなった。
 高山の母は一度、病院で配膳の派遣労働をしたことがある。一日欠勤したら派遣切りに遭った。まだ業界が規制緩和される前の昔話。自分が内勤をするにあたって、そんな話は古今東西よくあると割り切っていた。
 高山は、ただ、自分よりいささか出来の悪い石島が賢明に働いている姿を見て、思う所はあった。皆、必死で生きている――日頃、売り物にしているスタッフ――彼らの浮き沈みを決定することにも、もう少し罪悪感があったらいいと、思えて来た。
「俺に財布を盗まれた人も気の毒だったな。浮かび上がりたくないやつなんていないよな」
 ボツリと呟いて、そう思った。
 ――埼玉支店の課長は、菅野という。大学は中退で土下座してTSに潜り込んだとか。入社から二年経って、今の奥さんと社内で出会い、付き合い始めたとか、自分で話していた。社長になりたいと、言っていた日もあった。
――社会が五階か六階建てのビルだとして、何階から上が支配者なのだろうな? 課長は宮仕えの身、そのものだ。支店が黒字でなければ、切られる側。
 自転車で帰る道、高山は、「本当は大学をきちんと卒業したくせにアルバイトなんてやっている俺を悪く思っていたりしてな」とつぶやいて、また乾いた声で笑った。
「行き先なんかねぇよ、馬鹿野郎」
 誰も、何も思い出さない知能に生まれて蟻のように死にたいわけではないことくらいわかる。
 高山は、風に吹かれるようにサッと自宅に戻った。
 そしてまた盆暗な休日に埋没する。
 ――高山が肝を冷やしたのは、秋も深まる十一月だった。
 つるべ落としのように暗くなった午後六時に支店の電話が鳴って、課長・菅野は、対等なはずの現場担当者に平謝りを繰り返す。Nの担当者だ、Nで何かあったのだろうか?
 終話した菅野は、
「いまから五霞に行ってくる」
 と言った。
 異様に青ざめていた。五霞とは、要は現場。
 ――夕勤のスタッフがカッターナイフを配られた瞬間自傷した。
 支店がしんとした。
 業務側の管理画面を確認すると高山が決定したスタッフだ――自傷癖だったのか!
 登録スタッフ一人ひとりの詳細な情報が記載される詳細画面には備考欄があって、「自傷癖だからカッターナイフの現場に決定するな」と注意書きがあった。高山は見落としていた。
「可哀想なことをした……」
 高山の第一声を聞いた菅野は、「じゃあ、行ってくるから」とだけ、観念しきった声で言って、高山を叱咤しなかった。
 石島は無言。
 八頭が、
「ヤバいですね。TSによる威力業務妨害が成立するケースです」
 と課長が退出してから、ぼやいた。
「え?」
 高山は思わず、声を漏らした。
 それに反応したのか、石島はようやく口を開いて、
「高山さんが悪いのですか?」
 と心配そうに尋ねた。
 八頭は「それはわからない。僕らは業務を手分けしてやりましょう」と言う。
 高山は、自傷したスタッフに申し訳ないと思ったが、悪魔が背中から追いかけてくるように思考がわいて、こう思った――法律ってわからないよね?
 そして、八月の窃盗が痛烈に思い出されたのだった――。
 高山は、逸る気持ちを抑えきれず、業務を片手に携帯端末で窃盗についてインターネット検索をした。こんなときに限って怪しい情報ばかり掴んでしまう。刑務所にいる囚人の四割は窃盗。窃盗は、この国の隠れ重犯罪で、現金は百円でも懲役二年実刑。
 柊は支店の冷蔵庫を開けた。
「高山さん、具合悪いっすよ」
――なんだよ、俺が具合悪いのが面白いのかよ。
 バタンと音がした。
 冷蔵庫が閉まる音。
 すると向かいの机から、PCの隙間を縫って柊の手が伸びて来た。
「……え?」
「コーヒー」
「……は?」
「は、じゃないでしょ」
 柊の顔が、思っていたものと百八十度違った――ああ、そうか。俺はスタッフが傷ついて青ざめていると、柊に思われて、いて? 柊は、高山を心底心配するような顔で、それでいて励ますような顔をしている。
「高山さん、ちょっと早いけど飲んでください」
 石島は、
「うん! とりあえず仕事を終わらせますよ!」
 と意気込む。
――違う、俺は自分のしたことをネットで調べて青くなったのだ。
「柊……」
「はい?」
「スタッフが……望んでいるのは仕事だ。俺達の誠実な業務とはスタッフに仕事を紹介して稼いで貰う以外に、何もないだろう……」
 柊は、プッと笑って、
「はいはい。それくらいわかりますよ。そう思っていることくらい」
 と言った。
 この日は、八頭がうまく支店を切り盛りして、メンバー四人全員、九時半に退勤した。
 皆、何も変わらないいつもの平日なのだろう。高山だけがお通夜を迎えたように暗い。自分の自由の身の心配もそうだが……。
 柊のああいう態度は、以前にもあったかもしれなかった。
「気持ちが帰宅している高山さんらしいミスですよ」
 ビルの下で解散するとき、柊の朗らかな顔を見た。柊にも思い描く空間論があるのだろうか、支店の中でこういう空気が蔓延っているべきだろうという何か――仕事は連帯。内勤同士で勝ち負けはやらない。自分のルールに助けられる有様が、どこか柊の顔に書いてある気もした。
 解散して、一歩、二歩、歩き出すと、
「俺は捕まるのかな?」
 高山は思わず小声で呟いた。
 財布の持ち主に、なぜだか重なるのだ、自傷したスタッフが。誰も彼も必死に生きている。高山の悪意で現金を失った者。高山の不注意で怪我をした者。――社会的弱者に金を稼いで貰いたい――自分の思想にぶつかって跳ね返ってきた理屈で自分を責めるとは口ほどにもなく、高山は盗人。
 十数メートル歩いて、気付いた、石島が後をつけていた。
 ひたひたと。
 それからまた十数メートルほど背を向けて歩いた。
 高山は丸めた背中で、石島の気配を感じて、引きずるように歩いた。
――三回、四回、五回……。石島と飲んだな。
「どうした?」
 高山は振り返って尋ねた。
「高山さんらしくないですよ。スタッフが悪いと決めつけると思ったら、ずっと落ち込んでいて」
 高山は、
「石島……」
と言いかけた。
「なんですか?」
「……顔写真を何処かに提供したことがあるのか?」
「へ? ……ないですよ?」
「……」
 高山は無言で、また続きを歩き出した。
 石島は小走りになって、隣を歩いて、
「ひとにいえないことがあるのですか?」
 と尋ねた。石島には珍しい、疑るような声だ。
「財布を盗った」
「財布かぁ!」
 石島は、高山の自供に間髪入れず、今度は明るい声で相槌を打った。
 そして、何かを期待した高山をサッと追い抜いて行った。
 去って行く、石島の後ろ姿を、高山はただ見ていた。
 高山は、携帯端末を取り出して、件の出会い系サイトのアプリ版を開いた。
 掲示板に、あの日見たものと全く同じ内容が、昨日の昼に投稿されていた。よく見ると毎日、同じ投稿が繰り返されている。いずれも石島が熱心に働いていた時間帯だ。
 高山は首を傾げた。
 石島は、カラオケ屋の前で立ち止まって、入口を見つめていた。横顔を、こちらに見せつけるように、明かりに照らされた横顔は、――入社した日から何度も見た。
 繁華街のネオンサインに比べたら控えめな電灯の灯りに包まれた石島は、高山を見て、
「今日は歌いましょう」
 と、よく通る声で言う。
 高山は、歩いて行って、携帯端末の画面を石島に見せた。
「これは副業か?」
 石島はギクッとして、
「……違いますよ!」
 と言う。
 そして、訝しげな顔で、
「そういう目で見ていたんですか?」
 と、また疑るような声で言う。
「はい、そうです」
「高山さんは歪んでいますよ!」
 高山は、
「……カラオケはいいや。心強い仕事仲間です。いつも遅くまで、どうもありがとうございます。助かります」
 と、いつかの西村の真似をして石島を労った。
「え? なんですか、急に! 本当に違いますよ!」
 
 ――ライオン。

「描いて欲しい動物? ……ライオン」
「描いて欲しい動物はなりたい生き物だよ。大人になるにつれて、小動物や弱い生き物を描いて欲しくなるものなのに」
「いや……別に……」
「……拳悟はライオン」
「は?」
「拳悟がライオンじゃないってわかったら、ちゃんと別れるから」
「ああ……はいはい。沙樹ならいいですよ」
 友人のすすめで二年間世話になった社会人フットサルサークルで出会った。サッカー未経験者中心の集まりで、空手経験者の高山は、どのポジションをやっても戦力だった。恋愛なんて、そんな発端でいくらでも起きるものだ。
 沙樹は言動がどこか幼い子だったが、懸命に生きていた。
 どんな特長を持って生まれても、誰も爪弾きにされていない世の中だと思えた時間が、かつて高山にはあった。人には当たり前の感情があると子どもの頃のように学び直した時間が。
 恋人のいた時間は人生の何パーセントだろうか? 七パーセントだ。恋人なんていなくても成立する人生を送っていることが自分でもよくわかる。盆暗な生き方に身を任せて、まるで砂糖を苦いコーヒーに溶かすように、忘れていく。

 高山は、
「そんなに歌いたいの?」
 と石島の顔を覗き込んだ。
 そして、「じゃあ、一時間!」と言った。
 石島は朗らかな表情で、
「元気が出たみたいでよかったです!」
 と嬉しそうにした。
 また自分のルールが仲間の顔に描いてあったと、高山は思った。

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