小説・旗のない彼女のモノローグ(埼玉文芸賞応募作品)

  旗のない彼女のモノローグ 作・藤倉崇晃

 二〇二五年三月二十三日、秋ヶ瀬公園の三池グラウンド。埼玉県さいたま市在住の三十九歳・園田剛は、積雪で順延となったネウロズを見に来た。ネウロズとはクルド民族(クルディスタン)の新年のお祭りだ。在日クルド人は、この日のために踊りの練習や、衣装の準備をする。
「大きな旗だな! クルドの人達とボランティアが一生懸命に準備した会場だ!」
 葉の落ちた背の高い並木を背景にして、天然芝のグラウンドに白いテント、頭上には赤・黄・緑の旗が風に弾けて、薄い春の空を縫っていく。スピーカーから跳ねるリズムに合わせて、人が輪になって踊る。足も肩も勝手に動き出し、笑い声が草の匂いに混ざる。
「楽しそうに踊っているではないか!」
 腕に子を抱く人、友だちを見つけて喜ぶ人、写真を撮ってはすぐに見せ合う人。
 日本人の剛は、皆、同じ人類だと思いつつ、写真を撮っていた。顔立ちも、話し方も、日本人とは少し違う彼らを、丁寧に一枚、一枚。
 十四歳の娘・朱里は、
「私とお母さんを連れて来たのはどうして?」
 と尋ねる。
「これは民族のお祭りなのだ。彼らは魂の還る場所に喝采しているかのようだ。それでもクルドの人達は『私達が主役だ』と言い張らない。とても明るい顔で、日本人の俺達と踊る」
 お祭りの喧噪の外れに、異様な静けさがあった。会場のすぐそばの通りで、日の丸の旗を掲げて立つ人たち。彼らはお祭りを荒らしはしない。ただ、こちらへ視線を向け、「ここは日本だ」とクルド人達に告げるように立っている。
 剛には、そんな見せつけがこの数年で増えたように感じられた。
――日本の国旗。掲げていたのは政治家と思しき人だった。
 朱里は「カッコいい国旗だ」と言っていた。
 剛は理解している。――教育されているから、国旗だと信じているから、カッコよく見えるだけだと言っても、朱里には通じなかった。朱里は、槍投げの日本人金メダリストにとても憧れている。沢山の国と地域の旗が並んだオリンピックの舞台で、日の丸を掲げることが素敵だと思っている。地球上の人達と分け隔てなく寄り添っていく社会で、「私は日本人の園田朱里です」と言う。
 剛は、そんな朱里に口を酸っぱくして伝えていることがある。
「わざわざ日の丸を身につけると、別の意味に見られることがある。差別と結びつけて受け取られることも、残念だけどある」
「そうだね。それは、私もそう思うよ。けれどお父さん、いつになく講釈を垂れているけど、どうして?」
 剛の視線の先には、艶やかな民族衣装を着こんだ妻がいる。
 妻はクルド人に混じって、右足、左足とステップを踏む。
 剛は思わずカメラを構える。
「踊る母さんが綺麗だ」
「やめてくれない。恥ずかしいよ。本当に子どもだった頃は、仲良しだねって言われて嬉しかったけれど。学生時代から付き合っているなんて、すごく恥ずかしいよ」
「俺に『恥ずかしい』は誉め言葉だって言っただろ」
「娘そっちのけで、写真撮影なんてやめてほしくて」
 舞台の上の歌い手が声を伸ばし、空気が一段明るくなる。旗は音に合わせて翻り、色の影が地面を走る——ネウロズ・ピローズ・ベー!
 朱里は、
「でも面白い。異文化交流は好きだよ」
 と言って微笑む。
「クルドの人も、日本人が『神秘的だ』と言って一緒に踊る様子が愉快なのだろうな。『本当にお祭りが好きな連中だ』と言っていたりして。俺はそう思うぞ! はははは! なんて言ったら怒られるかな?」
「なにそれ? ならお父さんも踊ったらいいのに。私は踊ってこよう」
「俺は母さんを見ている」
 剛は、走っていく朱里の後ろ姿を見ながら、二十四年前の少年の心を、そっと胸に触れた――この場に集う人びとにも、それぞれの来し方があると思う。
 そう心の中で思い起こしながら、剛は、再びカメラを構えた。

 ――時は遡ること、およそ二十四年前。

 ――あれは、二〇〇一年十一月の、秋も深まる頃だった。

 中学時代の担任教諭が「県内屈指の男子校」と説明した高校。卒業生の進路は、有名大学進学がほとんどだ。――剛は四月に入学した一年生だ。
 剛は、同級生と比較して全般的に成績は良くない自覚があった。定期試験の順位も下のほうをさまよっている。自分でも思い当たる所はある。努力家だが野心がない。渇望がない。情熱がない。
 中学三年生の頃は、勉強もスポーツも並外れて出来た剛は、クラスのリーダーだった。父親が郵便局員という平凡な家庭に生まれて、ひたむきに机に向かっていたら高校に合格できた。そこまではよかった。根がバンカラのような連中ばかりを集めた古風な男子校で、入学後の剛は、自分を上回る文武両道の同級生にことごとく敗退していく。たとえば「テレビ局で勤めたい」と今から豪語する黒川秀和や、「スポーツ医は医者志望として意識が低いと思われないだろうか」と悩んでいる栗山健吾など、将来に情熱的な者に歯が立たず。五月頃にはすっかり序列のような認識が学級で出来ていた。――剛はあまり勉強のできる者ではない、と。
 剛は憂鬱だった。
 剛は中学時代からの彼女・恵と別れた。中学三年生の頃に同じクラスだった恵と、つい先日までずっと付き合っていた。交際は、可もなく、不可もなく、のんべんだらりと続いていたはずだったのに。小学校も同じ学区内だったから、よくファミレスで話をした。時には、大宮駅でデートした。昨冬は大宮・氷川神社の大湯祭にも一緒に行くくらい仲が良かったのに。それがとうとう、恵から別れを宣告されてしまった。剛は、思い起こしてみれば、交際相手という感覚の相手が欲しくて、付き合っていた。恵は、好き嫌いのはっきりした、竹を割ったような性格だと思っていたのがまずかった。何か間違いがあれば、必ず訴えるだろうと。しかし、ある日突然、恵は理由も述べずにこれ以上の交際を断った。
 剛は、ピッチに貼ったプリクラを剥がす時、少し胸が痛んだ。
 剛は自信を失う。男子校で彼女がいる者は半数以下だ。剛は、彼女がいるという見方であれば選ばれし男性の側にいると浸っていた。それを失った。紅葉がやがて枯れ木に代わる季節はひと月先だ。冬になったら、どんな過ごし方が待っていたか期待していたのに。
「剛は、彼女とはどうなった?」
 クラスメイトから遠慮なく恋愛の進捗を尋ねられる。人の気も知らないでと思うものの、好奇心のそそられる話題なのだ。話しかけてきた田中瑞樹にも彼女がいる。
「よせよ」
「ピッチに貼ってあったプリクラはどうした?」
「剥がした。振られた」
「やっぱり別れたか。どこか落ち込んでいたのは気のせいじゃないのだね」
 田中は、携帯電話を弄る。ボタンを素早く押して、メールボックスを確認する。
「今度、女子校の子達と合同カラオケパーティがあるよ。次の日曜日だけど、一緒に行こうよ」
「え? 行きたい!」
 剛は思わず即答する。
 田中は得意気な顔をする。
「剛は、新しい彼女をつくっちゃおう」
「わかった、絶対行く。だって俺、悪くないもん」
「いいね。でも元カノ話はダメだからね。来てくれた女の子が嫌な気持ちになっちゃうからね」
 ――その次の日曜日。高校生だてらに男子五人、女子五人で行われた合コンは盛り上がる。皆、ハイテンションで歌う。楽しそうな空気で満ちていた。
 カラオケも、恵と何度となく通った。互いの近所にカラオケボックスがあったからだ。はじめて恵と歌って遊んだ日は、調子に乗って踊りまで披露した。そんな恵と別れた途端、このような遊び場にいることに、剛はさほど疑問はなかった。俺は悪くないという自己主張に支えられて、酔いしれる様に場の空気を楽しんだ。
 背の高い女の子がいて、剛はいいなと思った。
 剛は遠慮なく、誰に断りもなく隣に座って話しかけた。
「学校ではどうなの?」
「部活ではどうなの?」
「栗色の髪が長いね」
 その子は相槌を打ったり、質問に答えたりしてくれたが、馴れ馴れしい剛にふと思ったのか、「園田君は彼女がいたの? いまいないでしょ? 振られたばっかりでしょ?」と心を抉る様に尋ねる。
「挙動でわかる」
 そう言って鼻を鳴らすのだから、剛はギクッとした。――見透かすような口調だった。
 女子達は遠慮のない口調で囃し立てた。
「本当に? 園田君、別れたばっかりなの?」
「どんな子と付き合っていたの?」
 見るに見かねた田中は、「ちょっと来て」と言って、剛をルームの外に連れ出す。
 ――音の静まったカラオケボックスの廊下で、田中は、「端っこの大人しい女子の隣に座って」とアドバイスをした。
 田中は「あの背の高い子はダメ」と言う。
「悪い。いま痛感している」
「乗れてない子に丁寧に接して皆が楽しめるように」
「わかった……」
「じゃあ剛! 俺、トイレ行くから。頑張って彼女ゲットしろよ!」
「え? ああ……、瑞樹はありがとう」
 田中は嬉しそうにトイレに歩いて行った。
 ――剛は、ルームの扉を開けて、中から流れる激しい音の固まりに溶け込む。
「男子二人で怪しい話をしている」
 女子の一人がボソッと煽る。
 剛は、テーブルに置いた自分のグラスを掴むと、移動し、スッと端に座った。
 ハッとした吐息が聞こえた。
 急に隣に座られて驚いたのだろうと想像がついた。肩にかかるくらいの髪が、微かに揺れた。
 剛は、心を落ち着けて、
「歌わないの?」
 と、気の利いた言葉を一つ。
 少しおどおどした様子で返事が返って来た。
「しばらく聞いていようかなと思って……」
 長くて細く閉じたような目に、薄い肌色がよく見ると可愛かった。
 何の気なしに言われるがまま、しばらく皆の歌を聴いて過ごした。
 田中の彼女がマイクを差し出して、
「凜も歌いなよ」
 と促す。
「う、うん! 歌おうかな!」
 隣の女の子は凜という。
 横顔に視線を送ると、凜は緊張しているのがよくわかる様子でリモコンを操作する。
 剛は、そのたどたどしい指の動きをただ見ている。
「キンキキッズを歌おうかな」
「いいね。キンキは俺も好きだよ」
「うん」
 リモコンの入力が終わり、やがて凜の番が来て、画面が変わる。
 ――凜はマイクを取って、歌唱する。楽曲は確か二年前に流行った歌だ。一人きりの心に雨が降るという歌詞を、一人で淡々と歌う。まるでお通夜のような、平坦な歌声。全く上手ではないが、不思議と聴いていられた。
 剛は、歌詞が流れる画面を見ていた。――恵と、時間をかけて関係を構築していたことを改めて実感した。即席で相席した凜との対比で、恵とは、あれでも一年かけて共に歩んだ仲だったと知る。歌い終わった凜に、剛は、無難な話題が思いつかなかった。
「でも良い名前だね」
「なに? 私の名前? 広瀬凜だよ」
「そ。君の名前」
 凜は嬉しそうに、「園田君は?」と尋ねる。
「剛だよ」
 凜は、クスクスと笑った。――剛君こそ、良い名前だねと言って、首を傾げながら。
 剛は、思い出したように、
「俺も歌おう」
 と言って、流行のロックバンドの楽曲を歌った。
 剛は清々していた。――女の子と遊びたいなら、たまにこうやって遊べばいいだろう。家に帰ったら勉強しよう。また去年の今頃のように勉強に勤しんで、数年後は少しでも偏差値の高い大学に行けるように努めれば人生も間違えない。それが、恵を忘れられるという意味で一番良い心の昇華だと思った。真面目腐ってそう思った。
 ただ、そんな生真面目な心に凜が全く巣食わないということもなかった。凜もきっと友達に誘われてここに来た。様々に雑談をしたが、仕草が可愛らしかった。
 ――やがてフリータイムも終わる夕方に、田中は、今度はルーム内で堂々と「剛は連絡先を聞いたか?」と尋ねて来た。
「広瀬さんとしか、まともに話さなかっただろ。聞くだけ聞いたほうがいいよ」
 剛は気恥ずかしかったが、ピッチを操作して、新規のメールを打った。
 メールの本文に
「メールアドレスが知りたい」
 と打ち込んだ。
 宛先がわからず、送信ボタンを押せない代わりに、画面を凜に見せた。
 凜はハッとした顔になって、剛の目をジッと見た。
――戸惑いながらも、まんざら嫌ではない凜の表情に、剛は期待が膨らんでいく。
「気にしないならいいよ」
 剛は、てっきり音痴のことかと思った。音痴くらい平気だから、力強い言葉で「平気だ」と答えた。
 後先のことを考えず、人に言う言葉にしては力んだ。
 凜は照れくさそうに「何のこと? 何が平気だと思ったの?」とさらに尋ねてきた。
 剛は正直に「歌だよ」と答えた。
 凜は笑った。
「剛のメールアドレスを教えて欲しい。平気って言ったよね、見た目とか、平気なのね。嬉しいな」
 剛は、首を傾げた。
――何か気にしていることがあるのだろうか。
「もしかして学校が違うことかな? 部活が忙しいとか!」
「いいや。教えてあげる。私には国籍がないの」
「え? 国籍がないなんてあるの?」
 凜は顔を赤くして、照れくさそうにする。
「さては女の子なら誰でも構わないの?」
 剛も顔がカッと赤くなった。「はい」とも「いいえ」とも言えない――誰でもいいわけないだろうと思いつつ、特段の理由があるわけでもない。
「朝鮮は、日本で国籍ではないの」
「朝鮮? 将軍様がテポドンを飛ばした国かな?」
「それは北朝鮮。北朝鮮は私の母国ではないよ。……地域はあっているけどね。コリアンネームがあるの。鄭賢琳(チョン・ヒョリン)ていうの」
「朝鮮半島の出身なのか? わかったよ! いつ日本に来たの?」
「わかってないよ。日本に来たのは私の祖父だから。在日三世っていうの。剛君は、本当に無頓着みたいだから、いいよ。また、会ったりするの?」
「また会おう! 自分のことをちゃんと話してくれる。ヒョリンって呼べばいいのか? ヒョリンとは打ち解けて話せそう。なんでも話し合いで解決できそう」
 凜は、クスッと笑った。
「凜でいいよ」
「凜。ありがとう」
「前の彼女は剛君のことを振り回していたのかな。私はそんな子じゃないかな」
 剛は、笑う凜が可愛いと思った――田中の計らいで二度目の彼女を難なくゲットしたのだった。
「うふふ。私、彼氏なんてはじめてだな。緊張する」
「凜。たくさん話そう。放課後は駅前で待ち合わせをして、週末は東京を散歩しよう」
 剛は、外国籍と知って、なお興味が湧く。
 剛はすっかり自信を回復した。――俺は出来る男だと心の中で雄叫びを上げた。
 ――凜を駅で見送った後、「一瞬で彼女が出来た。俺はイイカンジなのかな?」と、男子会に行こうとする田中に言う。
 田中は、「大切にしてあげてね。剛も男子会に来るの?」と言う。
「この気持ちを分かち合いたい。あのような素敵な子が瞬時に彼女となった」
「『彼女が出来て嬉しい』を卒業する良いきっかけだな」
 田中は少し皮肉った笑みを浮かべる。
 そして男子五人でファーストフード店に歩いて向かう途中、話題になった。
「でも朝鮮人だろ? 俺、アングラなウェブサイトでおかしな噂を沢山聞いたよ」
「剛は親から何も教わっていないな。部落とかの類いだろう在日って」
 剛は「いいよ。気にするなよ。何も変わらない一人の人間だよ。可愛かったな。ヒョリンと聞いて、全部が可愛く思えてきた」と言って、満足そうにへらへらと笑った。

 ――帰宅すると、早速、凜からメールが来ていた。
「よろしくお願いします」
「無事、帰れた? よろしく!」
 剛は本当に、北朝鮮とは金正日という将軍様がいる国で、不定期でテポドンを飛ばすとしか知らなかったため、まず日本史から勉強をし直した――剛は要点だと思うものを整理してノートにまとめた。――朝鮮半島は、第二次世界大戦の前、一九一〇年から日本が三十五年間植民地支配をした地域だ。一九一九年に三・一独立運動がソウルで起き、朝鮮全土に広がると、総督府は、被支配層の大規模な反発を避けるために「文化政治」を行う。言論と思想を限定的に開放し、朝鮮人が一枚岩になって反逆することを巧みに避ける。
 剛は、アングラなウェブサイトも見た――信用に値しない情報ばかりだと直感で思ったが、凜が置かれている状況には違いないと思った――黒の背景に、黄色の文字で「反日朝鮮人は食人族!」と書いてあった。目を疑うような言葉だったが、日本人が作ったサイトだと思われた――サイトの制作者は、差別を再配布しているのか、パロディにしているのか、よくわからなかった――かつて、この犯罪流言で大勢のコリアンが命を落としたのに何をしているのか。
「凜は、差別を受けている子だ! 差別なんて現代日本にあるのか! アパルトヘイトも撤廃されたのに、日本は差別をやっているのか! 俺は何も知らずに暮らしていた! 俺は凜を守らなければならない、彼氏だからな」
 剛は、またメールを送った。
「怖いウェブサイトを見たけれど、俺、気にしないから。もちろん俺は差別をしない。俺を信用して欲しい。歴史の勉強もした」
 しかし、返信がなかなか来なかった。
 剛の心に急に不安が立ち込めて来た。
「言われて嬉しい言葉だっただろうか?」
 剛は心の中で呟く。
 メールボックスの受信トレイを見つめながら、剛は、余計な事を言ったかなと思った。
「インターネット、嫌いなの」
 ようやく凜から返事が来る。
 剛は、指先を滑らせるようにメールを打ち込んで送信する。
「ごめんよ! そうだ! 明日から放課後は待ち合わせしよう」
「いいよ」
 ――二人は、放課後は頻繁に駅前で待ち合わせをした。
 最初の一週間は、ファーストフード店で飲みものだけ頼んで、ずっと話していた。
 その後は、大宮駅で遊んだ日もあった。
 剛が「東京に行こう」と言うと、凜は「東京はあまり好きではない」と言う。
「上野駅から歩いて湯島天神に行こう」
「学問の神様だからお参りしよう」
「東京大学も近くにあるよ」
 と誘っても、頑なに「嫌だ」と訝しげに答える。
 その日は、交際開始からはじめて凜が機嫌を損ねたようだった。
「よくわからないけれど、デートは近場がいいの?」
 凜はこの言葉に、気恥ずかしそうに笑った。
「神社が嫌いなのか? 十二月には大宮で大湯祭があるから行きたいけれど」
「ごめんね」
「そっか……。残念だな」
 剛は、凜にもう少し気を遣ったほうがいいかもしれないと思った――凜は恵と違って大人しい子だから。だからこそ、剛は「俺が大人ぶって凜を引っ張っていかないと駄目だ」と思った。
 二人で会っている時も、凜の声――その音の響きに合わせるように、剛は自分の口調や言葉尻には気を遣った。歴史の探検の様にアジアの本を読むことも、日課に取り入れた。
――でも、もっと賑やかな子がよかったかな。
 凜は、大人しい性格だが、時折、優しさを与えてくる。――カッコいいよ。素敵だよ。そんな甘い言葉をかけたと思えば、またしんと静まり返って隣にいる。
 この日、二人は公園を歩いていた。紅葉の季節に、落ち葉降る道を共に歩く。最近読んだ本の話をするのも日課になっていた。教養人の真似事のようだと思っても、凜の輪郭を追いかけるように、歩んでいく。公園の道然り、朝鮮史の勉強然り。
「剛のことが好きだよ」
「そんなに頑張らなくていいから。はじめての彼氏だからって」
「どうして? 剛は私のことを好きじゃないの?」
――凜には、見聞きした情報で解体できない「性格」がある。その性格をもっと明るく、ぱっと弾けるようになって欲しい――やはり、今まで育ってきた環境――周囲の接し方も要因となって、凜は大人しいのだろうか。
 剛は首を傾げて、「好きじゃなかったら会わないだろう」と曖昧に返事をする。
 サクッと落ち葉を踏む音が止まって、凜は立ち止まる。
 ――しばし沈黙。落ち葉降る公園の道で、ポツンと立ち止まった凜は、まるで版画のような姿で、剛をジッと見る。
 剛は、凜がどうするのか、ただ見ていた。
 凜は、すっと手の平を差し出す。
「繋ごう」
 剛は、音楽でいえば、まるでトレモロのようだと感じた。――二つの音が交互に鳴る感じが俺達みたいだね。
 落ち葉の絨毯が敷き詰められた公園で、剛は凜とはじめて手を繋いだ。
 北浦和公園は、剛の高校の最寄り駅の駅前にある大きな公園だ。公園と言えば、あとは浦和の別所沼公園で会うことが多かった。
「でも、いいな。可愛いよ、凜」
「ありがとう! そう言って貰えて!」
 剛の誕生日は二十九日だった。――この日は本屋でデートをした。放課後は陽が落ちるのも早い。昨年から再開発がはじまったさいたま新都心駅から、北与野駅まで歩く。大きな本屋に着く頃には、夕暮れも過ぎていた――ビルの最上階のCDショップで、また二人は手を繋いだ。
「剛の好きなラルクアンシエルは新曲が出ないの?」
「出たばっかりだよ。映画の主題歌になった」
「前の彼女と付き合っていた頃でしょ。だから新曲が出て欲しいの。映画は見に行ったの?」
「行っていない」
「行かない。映画だけは」
 凜の、小声。
 剛は、もっと優しい歌を好きになる魔法のように思える。
 剛は、これから冬になる今くらいの時期が一番好きだった。幼い頃に、親から誕生日プレゼントを貰った名残だと思う。凜の誕生日は二月だった――二月まで続くといいなと素朴に思う。書店のエスカレーターを降りながら、窓ガラスに反射して映る凜の姿が、あっさり手に入れた交際相手だと思う。
 二人は本屋を出ると、北与野駅のバスターミナルの所でずっと立って話していた。やっと打ち解けて話せるようになった。国道十七号を通り抜ける車のライトを、時折見ながら。
「クリスマスは家に来て欲しい」
「え? 凜の家に行くのか」
「そう。パーティをするの、クリスチャンだから」
「信仰があるの?」
 凜は、急に俯いて、顔を赤くした。
「私ね、中学までは絶対に秘密にしていたの。本当の名前も、在日コリアンだということも。剛は、子どものように無頓着だけど、優しい。真面目で、あと賢い。ちょっと恥ずかしい」
 凜は、そう言って、また顔を上げた。
 凜の目に映る剛がどんな人物か、剛は知らされた。
 剛は、少しずつでも優しい人物に、本当に、凜が言うような人物になろうと思った――おそらく、俺が思うよりずっと、凜は社会的困難を抱えているのだろう――俺なんかが、優しい。
「そう思ったのか」
 剛は、思わず呟いた、そして凜の両目を見る。
「信仰があっても驚かないよ」
 凜は、独白するように話し出した。
「祖父が、平壌で牧師をしていたの。お父さんは、無宗教だけど。私は祖父の昔話を知って、クリスチャンになった。日本が満州を占領した年の冬は厳しかった。祖父は雪の降る平壌から海風の凍てつく釜山に移住して、結核になった。その下宿屋で祖母と出会い、回復を待った。やがて大阪の大叔父を頼って来日したの。当時日本への渡航は制限されていたから、大変だったの」
「……歴史の話は嫌じゃないよ」
「祖父の遺留品の中に聖書があって『すべては神のご計画です』とメモ書きがあったの」
「遺留品って?」
「祖父は、第二次世界大戦の末期に大阪の留置場で警察官から暴行を受けたの。それが直接の原因となって死んでしまった」
「どうして警察に捕まったの? 牧師だったよね?」
 凜はまた、独白するように話し出す。
「祖父は、神社参拝を愛国行為として義務付けられたの。祖父は、平壌のアメリカ人宣教師の下で学んだ。朝鮮の近代化は準備が出来ていたのに日本はそれを盗んだ。総督府は、コリアンの平和を愛する民族性に目をつけて朝鮮を支配した。ある日、ついに狂信的な者が参拝を拒否した、『私は死を恐れない』と言って。連帯責任で祖父は投獄された」
 凜の声は鋭く尖っていた。
「本当は、日本にいるのが嫌なのか?」
 剛は、遠慮のない言葉になったかと思った。
 凜は、手を伸ばして、剛の袖を握り込んだ。
「ごめんね。せっかくの誕生日なのに」
 俯いて、キュッと剛の袖を握り込む凜。
 剛は、今月知り合った女の子の持つ世界にものおじせず歩み寄る。
「……でも歴史の話はそんなに大事なのか?」
「私には、今も国旗がない」
「……そうだった。すっかり忘れて」
「忘れないで」
 凜は、言葉を遮る様だった。
「おう。凜は彼女だ。俺が守ると決めた。誕生日は楽しかった。凜のおかげだな。これからもよろしく」
 剛が笑うと、凜も笑った。
 剛は凜から頼られることを望む――日本人の俺が、コリアンの凜を守るという目線を意識して止まない――そんな、一本の恋路。凜の大人しい性格と語り掛ける声が自分宛であることが、いつしか幸福だと思うようになっていた。
 ――二〇〇一年十二月になって、より一層、仲睦まじく過ごす二人。東京は嫌だと言っていた凜に「行こうよ」と言われて、二人は新大久保で開かれた在日コリアンの交流会に出席した。
 この日はみぞれのような初雪が降っていた――シャリシャリと音を立てて、凍てつく寒さの中を歩いて会場に向い、会場では有意義な時間を過ごせた。
 会場には、古代朝鮮の文化や、日本の植民地支配についての展示物があった。
――在日コリアンには一人ひとりの顔がある。
 剛は、話し方から考え方まで様々だと知る。
 生まれてはじめてのコリアンタウンは別世界もいいところだった。――剛は「日本の中に別世界がある」と率直に発言した。これは、なんとなく思っていたことだ。日本には日本人がまずいて、そしてコリアンがいる。この日本人を標準に見る視点を切り替えにくいと、交流会で率直に打ち明けた。
 在日コリアン達は、深く頷いて聴いていた。
 ただ首を傾げる人もいた。
「見学に来たの?」
「私達はここで暮らしている」
「無理もないよ。日本人に有利な目線で見てしまうよね。まだ若いもの」と温かい言葉をくれたが、剛は「やはり『日本の中の外国』という考え方はいけないものなのか」と悩んだ。
 剛は凜と接するとき、「日本人の俺が受け入れる」という目線を禁じ得ない。なぜなら剛自身が日本人として思うのだ、日本列島を、そこに住まう全ての人達でピザのように分け合うべきではないだろうと。――突如、そんな思考が鋭く心を引き裂いた。その喩えに乗るなら、ピザは、あくまで日本人の所有物で、コリアンに御馳走しているものだ。そもそも、ほとんどの日本人がそのような議題に取り組まずに暮らしているとさえ思う。自分がまるで無知だったように。
 剛は、大いに悩まされた。
 剛の顔は強張ったし、何かを吐き戻しそうな感覚もあった。
 日本人であることの意味合いが、凜と出会ってから交錯するようになった。
 ――帰り道で、凜は申し訳なさそうな顔をする。
「ごめんね、剛は日本人だよね」
 剛は凛の顔を見て、「好きだ」と呟く。――日本人から見た在日コリアンという目線が関係を擬制していくものの、その傾斜は誤りだと習った。
「好きだ!」
 今度は力強く叫ぶ。
 凜はハッとして剛を見る。――そして頷く。
 剛は凜の手を握る力を強める。――出会ったばかりの凜を恋しいと思っているだけだと、自分に言い聞かせるように。
 剛は、国籍の違いを勉強で埋め合わせることで、日本人同士の交際では育たないであろうものが育つことを恐れなかった。そうしたテーマにいくらか埋没している凜の本当の性格を、時に掬い上げる様に知ろうとする自分の心が、何に由来しているかは気になった。――それは、憐み。同じ人間だと言ってしまえば済む話を、わざわざ憐れんでいる。自分が有利な立場だと思う偏見にまみれた憐み。――そのうえで恐れなかった。凜が好きだった。
 ――クリスマスは、凜の家に行く。家でお祝いをする。

 やがて当日を迎える。
 二学期の終業式が終わって少し早い放課後、また駅前で待ち合わせる。
 冬のイルミネーションが味方する季節は二回目。昨年は恵を待っていたロータリーで、今年は凜を待っている。
 剛は、可愛らしい凜の姿にほっとする。――凜には優しく接していたい。だから人が持っている当たり前の感情、優しさ、思いやり、感謝の気持ちを向かい合わせるように、優しくなれたらいいと思う。
「よ! 家に行くなんて、普通は二カ月目じゃやらないぞ」
 凜は、目を見開いて言葉を探している。
 凜から伝わってくる気持ちを、剛は感じる――俺のこと、好きになってくれてありがとう。クリスマスは、そういう日だよ。
「そうだよね。ありがとう。先に礼拝に行こう」
「俺は教会なんてはじめてだ」
「わからないときは、お祈りをしていればいいの」
 凜の言葉は、時折、とてつもなく芯があって強い――わからないときは、お祈りをしていればいい。
「俺達もそうなのかな」
 剛は、心の中で湧いた言葉を、ポケットの中で握りしめて隠した。
 駅前はさんざめいていたが、教会までの道を行くにつれ、凜の案内で角を一つ、また一つ曲がると、世界は静かな木枯らしの師走を思わせた――教会は住宅街の中にあった。屋根や尖塔に十字架、外壁に大きな十字架サイン。
 剛は、自分の生活圏を少し外れると、ひっそりと存在する韓人教会の存在に、まず驚いた。
 韓国人のシスターは、剛を歓待する。
「わからないときは、お祈りをしていれば、よいのですよ」
 教会の礼拝堂で、シスターにも同じことを言われた。映画やドラマで見るよりずっと殺風景な礼拝堂で、凜は、自分の祖父を思って祈る。
 剛は、凜に習ってお祈りをした――いつか凜が教えてくれた話も思い出した。
 礼拝が終わると、シスターは近くに来て、語る。
「かつて平壌は『東洋のエルサレム』と呼ばれました。アメリカ人宣教師が設立したミッションスクールも多かったのですよ。かつてそこで学んだお祖父さまのためにお祈りします。主のもとで憩っておられるように」
「ありがとうございます。商業や政治で劣っていれば、歴史の審判は免れません。同じ帝国主義でも、アメリカは西洋の道徳を普及する情熱を持って、コリアンに接していました。日本は利用価値という目線しか持たず、痛めつける前提で文化政治を行いました」
 凜は、聖書を鞄にしまうと、また独白するように歴史を語る。
 剛は、凜の手を取った――凜が祖父の弔いで一つの歴史認識を信じていることくらい斟酌できるけれど。思わず手に力がこもった――この異空間から凜を、連れ出したい気持ちが湧いていた。凜は、暗い闇の中にいる。警察に祖父が殺されたに等しいとはいえ、歴史なんて過ぎたことに囚われている。
「ごめんね。クリスマスの時は、祖父に祈りたいの。嫌だった?」
――凜に向かい合わせる自分の姿を巧みに用意してはいけない。
「凜こそ、嫌か? 歴史の暗い闇に飲み込まれていく凜を、俺が抜け出せるように手を引くことが。俺は歴史の冒険を止めにして、凜の故郷がこの星の何処にあるのかも忘れてしまいたい」
 剛が、握った手を緩めると――凜は剛に肩をぶつけるように抱き着いた。華奢な身体がドンッと音を立てて。
 凜は「剛が好きだから。傍にいて欲しい」と言って、腕を剛の背中に回す。
 剛は、背中に噛みついて離れない牙のような凜の指が、恵との交際では体験できなかった――痛みが、ただ交際相手が欲しかった自分を殺してくれる気がして、剛は立って凜の身体を支えていた。
 シスターは、たしなめるように言葉を添える。
「凜……。お祖父さまのメモには何と書かれていましたか?」
「すべては神のご計画です」
「そのように信者らを説き伏せたお祖父さまが、今、凜が憎しみに囚われることを望んでいるはずありませんね」
 ――教会の鐘の音が響く。
「わからないときは、本当にお祈りをしているぞ。いいのか?」
 凜は腕をほどいて、笑う。
「いいよ。ありがとう」
「来年はイブに会わないか」
 凜は、うんと頷いた。
「剛も、心に絆創膏が必要な部分があるのだね。今年のクリスマスが終わっちゃったみたいで、不思議。私の家に行こう」
 剛は、凜の祖父に祈る資格まではないと思っただけだが、凜には何かを見抜かれている気がして、訂正はしなかった。
 シスターは微笑んで「行ってらっしゃい」と言う。
 ――凜の家は浦和の別所沼の近くだった。
 凜の父は、身の上話を丁寧に聞かせてくれた――凜は、在日二世の父親が四十三歳の頃に生まれた――父親は戦時中の生まれだ。日本には三通りの税がある、それは成功税、失敗税、平凡税の三つだ。成功税とは、何かに挑戦して勝ち、地位や富を得た者に課せられる役割。失敗税とは、負け犬に課せられる苦渋と苦役。平凡税とは、人並みな者の集団に埋没し上手く世渡りすること。凜の父は「在日コリアンが、この平凡税を払う側に回ろうとすると、しばしば門前で拒まれる」と言った。凜の父は部落で生まれたが、コンピューターを扱う仕事に就くと少年時代に決意して苦学した。パチンコなどの業界に流れる在日コリアンが多かった時代に、並大抵の努力ではない。別所沼公園の近くに居を構えるだけ上り詰めるのに、相当な平凡税を支払った。
 剛は、凜の父の身に起きたことを、真摯に自分のことのように受け止めた――かつては、てっきり日本列島の内側が日本人で敷き詰められているものだと思い込んでいた。しかし、凜の父親の苦労は、そんな風に思い込んで「土地や社会を分け与える」という一方向な考え方をする人達が生み出した。そのような態度は、浅薄で冷酷だと思う。
「娘と仲良くしてくれて、ありがとう。仲良くしましょうよ」
 凜の父は、力のこもった声で言う。
 剛が、「俺なんかでよければ」と答えると、満足そうに凜の父は笑う。
 傍で聞いていた凜が照れくさそうだった。
 ――着かず離れず、交際は順調だった。男子校と女子校ということも手伝って、誰に踏みにじられることもない恋路を滑走した冬の――終わりの二〇〇二年二月頃になると、剛と朝鮮籍の凜が交際していると学級で共有されて、不審に思った一部の生徒が問題視している様子だった。
 誰かが、黒板に大きく「ウリナラ帝国」と書いた日もあった。
 剛は自分宛だとわかるから、黒板消しで消した――バレンタインチョコを貰えなかった人の僻みだろうと思って、鼻で笑った。
 学級には、田中が上手く経緯を説明してくれたものの――ある日同級生の黒川が攻撃的な口調で「剛がやっているのは侵略だ」と宣告した。
 剛は、思わず笑ってしまった――凜を思い起こして、こいつらは凜の何も知らないと、心の中で馬鹿にした。
 黒川は「社会的弱者に目をつけた性犯罪だ」と糾弾しようとする――剛は、そのような発想が既に黒川を語っていると思って、ほとんど相手にしない。
「お前ら、うるさいよ。ごめんな、凜」
 黒川との口論を仲裁したのは、栗山だ。栗山は「やめろ、黒川」と言って、場を制すと「剛も人権活動だと思ってやっているのではないだろ。純粋に交際相手が好きなのだ」と続けて事態を終息させた。
 栗山の一声で場が収まると、剛は情けない気持ちになったが――栗山は、騒動を起こした生徒達に「俺は医者志望だからな。差別とか絶対にしたくない。皆がやっていることは在日コリアンへの差別だ。日本人同士なら構わないと言っているのだから」と伝えた。
「テポドンが日本列島に着弾しても交際を続けられるのか? 拉致疑惑はどう思うのだ、剛は拉致されるのではないのか?」
 剛は、ようやく自分の言葉で伝える。
「俺は凜と出会って、沢山学んだ。在日コリアンには一人ひとりの顔がある。そして、俺が凜の写真に『この子は金正日が嫌いだ』と書き込んだ日は一日もない。そんな日は来て欲しくなかった。お前らに立ち入られたという意味だ」
 黒川は、「なんだ? どういう意味だ?」とさらに問い詰める。
「在日コリアンは様々だ。日本人のつくった社会で成功する者、なんとか暮らしていく者、差別や迫害を受け逃げ惑う者、真っ向から立ち向かう者、それらが同一人物の中に内包されることもあれば、偏った立場を取り続ける者もいて、要はとても多様な人達だ――日本人も様々だが、何かに強いられて様々なのだろうか? 在日コリアンは日本の植民地支配という楔を打ち込まれて多様なアイデンティティを持つ」
 黒川だけでなく教室中が声を出して笑った――「だから何だ!」と言って。
「わからないなら関わらないでくれ!」
 剛は、投げ捨てる様に言葉を吐くと、しばらく誰とも口をきかなかった――凜はクリスチャンで、クリスチャンは金日成に弾圧されたなどと説明する気はない。大切な恋人が、政治の話題を口実に衆目に晒されることは当然に嫌だ。
 田中は、「悪い。俺が出会わせた。剛をそっとしておいてくれ」と言って、黒川をなだめていた。
 ――来週は凜の誕生日がある。
 学校での一幕は、悩みから抜け出しかけた剛を、また混沌とした疑念の渦に引きずり込む。
「俺は、侵略者なのだろうか?」
「凜は、本当に俺なんかが優しいのか……」
 凜は風邪で学校を休んでいた。「お見舞いに行こうか」とメールをしても、返事がなかった。
――誕生日プレゼントを買うなら今日かと思った。
 放課後、北浦和駅から電車で三駅の大宮駅に、剛は買い物へ出かけた。大宮駅のアルシェビルで、何なら喜ぶだろうかと悩んだ。
「そもそも、事前にお話しするものではないのか……」
 剛は、悩みに悩んで、臙脂色のリボンのついたヘアゴムを買った。
 凜も髪を結ぶだろうから、一つ、いや……。
「同じものを二つください」
 店員は、微笑んで包んでくれた。
 二つで千八〇〇円した――CDより安いが、こんな気障りな男の真似を自分がやるには滑稽ではないか。剛は、買った後も大いに悩んだ。
 ――それでも剛は、凜の誕生日に正々堂々渡した。
「ホワイトデーと一緒な」
 剛は照れくさくて、腕を伸ばして差し出した。
 凜は目を丸くして喜んだ。
「ありがとう!」
「……教室で揉めたことがあったぞ」
「そうなの? どんな?」
「俺は侵略者なのだそうだ」
「そんなことは知らない! 剛が好き!」
 凜の屈託のない笑いに癒されたかった。
――それから春が来て、春休みは桜の花見をした。高校二年生の新学期が来ても凜との関係は変わらず、温かな季節に高揚する心を互いに預け合って過ごした。
 凜は、桜の花を「綺麗」と言う。
「韓国でもお花見はするからな」
 凜は、「そうだよ!」と言って明るかった。
「桜の花が綺麗なのは日本人もコリアンも同じだ」
 剛は心の中でそう呟くと、散っていく花吹雪の中の凜が綺麗に見えた。
 抱き寄せると凜の匂いがした。
 細い腕が、しばらくそうしている事を許すうちに、剛は、艶やかな凜に打ち明ける。
「なあ、俺は高校では成績があまりよくないぞ。けれど、嫉妬したことはない。成績の良い連中が疎ましいと思ったことは誓ってないのだ」
「私も、同じだよ。下のほうだけど、皆を尊敬している」
「そうだよな。そういう匂いがするぞ。俺も、凜も、今日、桜の木の下で会って見た光景も、誰から奪ったものではない。だから凜はそうやって笑って……」
 言い終わる前に、凜は下を向いた。
 剛は、恥ずかしそうにする凜を見て、「間違えたか?」と言っても、返事は来ず。
 凜は黙って、穏やかに腕を振りほどくと、背を向けてとぼとぼと歩いた。
「なあ!」
 剛は、思わず追いかけた。
 凜は、振り返る。
「剛はお上手ですねえ」
 冗談めかした言葉と共に覗く凜の顔が、少し寂しそうに見えた。
「悲しいとき、寂しいとき、私が会いたいと思う人が、私からどう思われているか気になるのが、不思議なの」
 剛は、まったく予想外の反応だったから、驚いた。
「それは、違う」
 剛は、思わず口をついて出た言葉にハッとした。
 凜は、「違うの?」と尋ねる。
 剛は、まるで手から零れ落ちる桜の花びらのような凜を追いかける――そんな自分を知らされたと思った。「そうだ」と認めることを、躊躇う、やはり少し違うと思う。
――時間が、過ぎていく。艶やかな凜を手に入れたいと思いながら。
 やがて諦めて、まるでモザイクのような花吹雪に包まれることを剛は望む。
「そうだな! そうだった、そうだった! 凜は賢いな!」
 凜は薄っすらと笑みを浮かべて、また二人で歩き出した。
 花吹雪の中を、一歩、一歩。
 剛は、話題を変えようとする。
「サッカーはワールドカップがあるけれど、俺達には関係がないな。大人達は日韓をくっつけたり、南北をくっつけたり。全部、政治に見えるぞ」
 凜は「剛がよくわかるよ。王子様みたい。高い城壁がある」と言う、それでいてとても嬉しそうだった。
 剛は、黒川と栗山がサッカー部だったことを思い出して、
「なんか、見たくないな」
 と打ち明ける。
「剛が迷子にならないように、私が傍にいるみたいね。サッカーは私も好きじゃないよ」
 ――夏の足音が近づくにつれ、世間は日韓共同開催となったFIFAワールドカップの話題で持ちきりになる。日韓共同開催というセンセーショナルな話題で盛り上がる世相の裏で、剛と凜は秘かに関係を進める。
 大会は二〇〇二年五月三十一日に開催されると、日本は勝ち上がり、六月十六日のトルコ戦に国中の期待が寄せられる。学校でも「トルコ戦は絶対に見るぞ」という声が多く、遠方から来ている生徒――放課後に帰宅しても自宅での観戦が間に合わない生徒の為に、視聴覚室を解放する配慮がなされた。試合開始時刻は午後三時三十分だった。
 剛は、凜を北浦和公園に誘った。
「日本、日本って馬鹿みたいに思えたよ。サッカーは見たくない。公園でデートしよう」
 二人は午後四時に待ち合わせた――ほとんどの国民がテレビやラジオで試合中継を視聴しているのだろう。人が街にいない。駅前ですら閑散としていて、北浦和公園はデストピアのようだった。
 二人はベンチに座って、ずっと話していた。
 いつものこの時間なら多くの日本人がいる北浦和公園で、凜と二人きりでいる。
「今日は、あえて日本戦は見ない」
「誰もいない北浦和公園は俺達に似合いだね」
 凜は、手をパンと叩いて大笑いした――奥歯や喉奥まで見えるような大笑いだ。
 剛は空を見上げる。
 まるで青空が二人を包んでいた。
「空が落ちて、今世界が終わっても、何も変わらないと思えるくらい、凜が好き」
「嫌らしい」
「嫌らしいか。嫌らしい言葉か」
 凜の声を聞くように、剛は、隣に座る凜の胸に耳を当てた。凜の胸には十字架がしまってあるのだと思う。凜はクリスチャンになることで、非業の死を遂げた祖父を弔う。祈りを聖夜に捧げる――剛は顔を少しあげて凜をジッと見た。
「わからないときはお祈り」
 凜は、目をつぶって、剛の頬を両手で掴んだ。
 そして二人はキスをした。
 剛は、凜への憐みが心の中で溶けていく感情の作用で、目を閉じた――目に涙が浮かんだのを感じる。
 二人は額を寄せ合う。
「誰もいない公園が俺達みたいだね」
「そうだよ。私は、祖父を殺した国の国民ではないよ。かといって、クリスチャンを迫害する国の国民でもないよ」
「凜のお父さんはどうなのだ?」
「幼い頃に全部を聞かされたお父さんは『もう自分のために生きてやる』と決意して奮起したまま、民族も国籍も棚上げして生きている」
 剛はぽかんと口を開けて聴いていた。
 凜は、クスッと笑って、両手を合わせて「ごめんね」のポーズをする。
――こんな弱い存在を、俺は。
 剛は、凜の肩に手を添える。
「俺は卑怯だ」
「いいえ」
 凜は、微笑んだまま、首を横に振る。
「いいや、卑怯だ」と繰り返した。
「なあ! どうやったら越えられる! 歴史も差別も、俺が俺を日本人だと思うことも、全部なくなるまで、そうやって笑っていてくれるか! 卑怯じゃない俺に、ちゃんとなれるのか!」
 凜は、剛が肩に添えた手に手を重ねた。
 凜は、
「卑怯じゃないってば」
 と言って、顔をしかめた。
 ――沈黙。そしてまるで雨が降るように、凜は、そのままめそめそと泣いてしまった。
「凜の涙を前にすると、俺の涙なんて、すぐ乾く」
 そうやってまた認識が、まるで必然のように次第に傾斜する感覚に囚われる。
 遂に剛は思った――憐れまれる凜は、それが憐みだと指摘されることからも保護されるべきかもしれない。そもそも俺は、大勢の在日コリアンではなく、凜と、ただ一人と向き合っていればそれでいい。愛なんて、俺と凜が決めることだ。
「泣くなよ」
「笑って欲しいの?」
 凜は、目を擦りながら呟く。
「ああ、そうだ」
「どうして?」
「好きだからだ」
「そうなの」
「ああ、そうだ」
 ――凜が笑う。
「愛だよ」
 凜は、もう一度軽くキスをくれた。
「私からの」
 そう言って、剛の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「剛も悩んでいるのだね」
 雲間から陽が差したような、凜だった。
 ――夏はあっという間に訪れ、過ぎて行った。あの日の北浦和公園を境に、凜はどこか力強さがあった。言動も、一挙手一投足も、まるで剛の決意が空回ったように、凜は変化していった。剛が思った――まるで凜は、歴史や差別に自分を埋没させるのを、自分で拒むようになった、と。
 夏休み中は、市立図書館で勉強をする日がほとんどだった。
 志望校を二人で話し合った。埼玉大学工学部に決めた。理由は、センター試験で国語の古典分野の配点がないからだ。剛は、化学が辛うじて得意だから、応用化学科にしようと決めた。凜は英語がとても得意だから教養学部でもいいはずなのに、剛と同じクラスが良いと言って、応用化学科に行きたいと強く望んだ。

 ――九月になると日朝関係で政治が動いた。日朝首脳会談が行われて、拉致疑惑は疑惑に留まらず、北朝鮮側が事実を認めた。担任の教諭は「それでも、園田がしているのは素敵なことだぞ」と言って、剛を励ました。
 剛は、凜と会っている時は、拉致問題の話題は一切しなかった。まるでそこだけ絶縁体が貼られて電流が通らない回路のように、互いに口にすることを避けた。
 同級生は「剛は埼玉大学工学部に腹を括った」と、むしろそちらの件で「見習いたい」という空気だ。
「俺は一浪してでも東北大学に行きたい」
「まだ筑波大学を諦めたくない。来年は腹を括っているかもしれない」
「俺は明治大学に決めた。園田君も頑張って」
 一年生の頃の自由な雰囲気が、徐々に大学受験に染まっていくのを感じた。
 同級生に太田明弘がいた。太田も応用化学科を受けると言って、教室でよく一緒に話した――成績が似通っていたから余計に親しくなった。お互い、夏頃から奮起した仲だ――十月になる頃には放課後教室に残って一緒に勉強する日もあった。
「剛は尊敬に値する。俺は、ボアが好きなのだ。韓国人歌手のボア。小学生の頃から、ああいう顔立ちの子が好きだ」
「明弘みたいな奴もいるのだな。凜は別に歌手でも何でもない」
 剛は、太田と話していると風に吹かれているようで心地よかった。
「剛は、差別と戦いたいのだな。俺はボアをそういう目で見ることができない」
「ボアは音楽というタッチポイントで人と接しているからそれでいいのではないか。俺は、一年生の頃、同級生に『剛のしていることは人権活動ではない』とことさら言われて、すごく嫌だったぞ。そりゃ確かに人権活動ではない」
「『そうです』でいいだろう。俺がボアを聴くことも人権活動ではない」
「だから、ボアは音楽というタッチポイントだから、それでいいのだろうって」
 太田は笑って、
「未来へ行こう」
 と剛の肩を叩いた。
「でも、一目見てみたいな。剛の恋人はどんな子だろうな」
 太田は遠慮なく、「写真に撮りたい」と言う。
 剛は少し悩んだが……。
「凜が構わないと言ったら、会ってもいいぞ」
 剛は、放課後だったから、凜に電話をした。
「今日、俺の友達も入れて三人で会っていいか?」
 電話口の凜の声が、思ったより明るかった。
 もしかすると嫌がるかと思ったから、意外だった。
 凜は、「剛の友達ならいいよ」と言うから、その日は北浦和駅前で会った。
 凜は、太田を見るなりクスッと笑った。
「ミュージシャンみたいな人だね! 凜って呼んでね!」
「凜ちゃんは、日本の歌は好きなの?」
「キンキキッズが好きだよ」
「そうなのか。コリアンは日本の歌が好きな子ばかりではないと習ったけれど」
 剛は、慌てて「あんまり遠慮なく話すな」と太田を止める。
「いいよ。剛が言っていたけれど、太田君も応用化学科を受けるのでしょ」
 凜は笑っていた。
 太田は鞄からカメラを取り出す。
「笑顔がいいね!」
 太田は、凜と剛のツーショット写真をカメラに収めた。
「いいな! とても幸せそうに撮れたぞ!」
 太田は、迷いもなく、
「現像したら、あげるから。剛に二枚渡すぞ」
 と言う。
 凜は、クスクスと笑う。
 剛は「用が済んだのなら帰れ!」と冗談のように言う。
 ――そのまま三人で話して、北浦和公園を歩いた。
「友達がいるのもいいね!」
 凜は嬉しそうに、何度目かの北浦和公園を歩く。
「ねえ。紅葉した頃に、もう一度、三人で会おうよ!」
 凜は、初対面の太田が気に入った様子だ。
 凜は、やきもきする剛と腕を組んで「剛は恋人だからね!」とはしゃぐ。
 太田は、もう一枚、撮影した。
「剛も、凜ちゃんも、もっと沢山の人と会えたらいいね。日本人と在日コリアンのカップルですと言って。大勢の人を勇気づけられると思うよ。無神経で勝手なことを言っていたらゴメンね」
「なんだよ、急に」
 剛は、まだやきもきする気持ちがあったから、少し棘のある口調になった。
 太田は、「俺、応援する」と言って、最後にもう一枚撮影した。
「凜ちゃんのことが大事なのだな。剛のように大人の階段を上る奴がいるのだな。俺は、なんとなく大学生になれたらいいやと思う。剛も、そういう奴の匂いがするけれど、凜ちゃんに出会ったのだな」
 剛は、太田が一切悩んでいない様子なのが気になった――「在日コリアンをどう思う?」と、剛は拙速に質問をした。太田が馴れ馴れしいなと感じたから。
 太田はジッと剛を見て、カメラを鞄にしまう。
「俺に悪気はないよ。剛は真剣に悩んでいる」
「なんだよ『悪気はない』って?」
「二人の時間を奪ったかな。さては、剛は恋人の距離でずっと悩んでいるな」
「距離?」
「なんでもかんでも恋人という責任感で引き受けるべきではないだろう」
「そんなはずないだろう。恋人は恋人でしかない」
 剛は、まるで意味がわからなかった。
 太田は、少し怪訝な顔をして「よくやって来られたな」と言った。
「凜ちゃん。剛と別れないほうがいい」
 凜は「どうしたの?」と尋ねる。
 太田は「帰るわ。お二人さんで続きをしていてください」と急に他人行儀になって、帰って行った。
「変なの。太田君は凄くいい人だと思ったよ」
 残された二人は、しばらく北浦和公園で佇んでいた。
「明弘は、何も考えていないほうが上手くいくと言いたかった?」
 剛は率直に尋ねた。
 凜は、俯いて、「いいえ。そんなはずない。大丈夫だよ。剛は、太田君にやきもちを焼いたの?」と尋ね返す。
「少し」
「困ったな」
 凜はクスッと笑って、それ以上は言わなかった。
 そして、またいつもの二人に戻っていった。
 ――その後、現像した写真を太田から受け取った。教室で、太田は相変わらず勉強の話が中心だったが、この時はまた凜の話を少しした。太田は「凜は、よく笑う子だ」と言って、写真を手渡す。
 太田から改めて言われた。
「女の子に『着かず、離れず』は、いまに自分の背中を知らされる」
 意味深な太田の言葉だが、太田はこれ以上詳細に意味を言わない。
 ――その後、違うクラスになった田中とも話す機会があった。廊下でばったり遭遇した時に、少し話し込んだ。田中は、あれから彼女が二回切り替わって、相変わらず広く浅く人と交流しているようだった。
「俺は正直、続くと思わなかったよ。頑張って彼氏やっているね」
 田中は、交際開始からもうすぐ一年が経つ剛に、労いの言葉を送る。
 剛は、二月の教室での一幕が思い出される。
「社会問題じゃないからさ」
「いいや、俺らがグループに誘った人で、彼女が出来た人も何人かいたけれど、続かない人が多いのだよ。『合コンという仕組みが、やっぱり高校生には早いのだろう』って親にも言われた」
「俺達、出会えてよかったよ。瑞樹には感謝しているから、おかしいとか、間違っているとか、勘弁してくれ」
 田中は、深く頷くと、
「黒川も反省していたぞ。剛が続いている、大切にしているって、噂になっているからな。あの頃は付き合って間もなかったから、黒川は、てっきりナンパしたままだと思っていたのだよ。……そういえば、栗山が剛に会いたがっていたぞ」
 と言う。
「そっか。でもなんで、栗山が俺に会いたがっているのだよ?」
「栗山は朝鮮学校に行った」
「栗山が? なんで?」
「栗山は真面目な奴だから、剛が言ったことをずっと覚えていたのだよ。一人ひとりの顔に『金正日が好き』とか『金正日が嫌い』とか書き込むなって言われて。あの時は、クラス中が剛を笑いものにしたけれど、栗山は正論だと思った。チャリティ講演会に行って、先生の話を聞いたって。……まあ、医者志望だしな。コリアンの患者を診るつもりなのだろう」
「そっか。俺も、またそういう努力するかな。凛と新大久保の交流会は昨冬以来、行ってない」
「広瀬さんが行きたがっているなら、行ってあげたら?」
「『剛は日本人だね』って言われたままだ」
 田中はにやりと笑って、去って行った。
「学校で点数をつけられたり、模試で偏差値をつけられたりするばかりが俺達への評価じゃないから、『正しい』とか『間違っている』とかで割り切らずにおくものが知らず、知らずに積もるものだよ」
 意味深な田中の言葉だが、田中はこれ以上詳細に意味を言わない。
 ――やがて公園の並木も紅葉して、チラホラと落ち葉の季節になった頃。
 剛の心を切り裂くような音で、ピッチが鳴った――通知は恵からだ。恵! どうして? 恵から連絡が来るなど夢にも思わなかった。
 さては、誰かが恵に伝えたのか。凜との交際を知って、恵は怒ったのだろうか。しかし、別れると言ったのは恵だろう。
 剛は、不安が勝って電話に出た。
「恵か。どうした? 何かあったのか?」
「ガストに来い」
 ガストとは、新大宮バイパス沿いにあるファミレスだ。自転車で十五分の距離にある。恵の家からはもっと近い。昔の口調で「来い」と言われた。男勝りな性格が相変わらずの恵の声が懐かしいと思った。
「どうしてだ?」
「『どうしてだ』なんて言ってくれるか。もう新しい女とラブラブなくせに。……その調子で会いに来たらどうだ」
「会うわけにはいかない」
「知りたくないか。なんで終わったのか。次の女を秒でつくった時は、切れるのを待とうと思った。今日だけ会って欲しい」
 恵の姿を、剛はよく思い出した。中学三年生の頃に「私は勉強が出来ないけれど秀才が好きだ。剛は、勉強が出来るのに私に似ている」と言われ、交際を承諾した日まで、記憶が遡る。
 剛は、かつて田中の誘いに乗って凜と結ばれた。その経緯が今にして思えば軽率だったと、この時ばかりは思った――凜の心の中をまるで植物が育つように感じ取るとき、ふと、恵はどうだったのかと悔いることが、この一年間に数回あった――それを軽率に捨てた罪悪感がけたたましい警告音のように、剛を突き動かして……。
「わかった。誰にも言うな」
 剛は、ガストに急いだ。
 二人で何度も通った店――結局、交際なんて同じことの繰り返しで、凜ともいつか別れの時が来て、また違う誰かと付き合って、そうやって生きていくのかと疑う。まるで自転車のタイヤのような生き方をするのではないか。もちろんそんなのは嫌だ。
 ――剛が店に着くと、恵は二人掛けの片方に座っていた。
 剛は、直ぐに座席に座らない。空いているほうに座ればいいのだと思っても、躊躇う。
「どうしたのか教えてくれ」
「まあ、座って!」
 恵は、剛をまじまじと見て、微笑む。
 はしゃぐような声。
「誰かに言ったか?」
「言わないよ~! 来てくれると思っていたから~! 背が伸びたね! ほんの少し伸びただろう? 目線が全然違うな」
「そうか?」
「顔つきでわかるよ。剛も男らしくなった。私も、男友達を何人もつくったのだよ。抱かれる度に、剛とはそういうことをしなかったと思っていたぞ」
 一年の空白で恵は過去と不連続な別人になったと、剛は思えた――丸い目に大きな瞳と声が、あの頃と全く同じだが、中身がどこか別人になっていると思う。すると、頭の中をぎゅるぎゅると考えが駆け巡る――自責はない。恵が勝手に様変わりしたことが、今更なんだと自分でも思うし、自分と別れたからそうなったというのも違う。
 恵は、剛の反応が芳しくないと思ったのか、溜息をついてから本題に入った。
「帰ってこい」
「それが呼び出した理由か。……俺は凜を離さない。凜は在日コリアンだ。大学も同じところを目指している」
「頭良い女にしたのか? 馬鹿にしやがって!」
「凜は俺が守る」
「何からだ?」
「たとえば凜自身の弱い心から」
 ガターンッ!
 恵は立ち上がって「馬鹿にしてやがるなあ!」と怒鳴った――私に言っているだろう! わからねえと思ってやがるな! 恵は店内で絶叫する。
「心を強く持って欲しい」
 アッハッハッハ!
 恵は、今度は笑い出した――。
「何が在日コリアンだ! 手を差し伸べてやがるのか! 差別する奴がいるから、手を差し伸べる奴がいる! コインの表と裏だ!」
「違う!」
「今ここで凜に電話しろ!」
「できるわけがないだろう!」
「だな! 恋人じゃない証拠だ! 恋人だと思っているなら呼び出して決着だろうが! 夜にテレビでやっていた『ここがヘンだよ日本人』みたいな真似してやがる。そうやって日本人が綺麗だと思っていたいのだよ」
 剛は、言葉を失った。
 恵が言い終わると、店内はしんとした。
 剛が頭を抱えると、恵は両腕を広げた。
「さよならのハグ」
 剛は躊躇う。
 恵は「さよならだから~!」と明るい声で言う。
 剛は、一瞬、一番好きだった頃の恵と重なった。
 恵の匂いがした――
 剛は、「さよなら」と言い聞かせて恵を抱いた――恵の身体は、激情とは裏腹にただ暖かく、柔らかいだけに感じられる。
「剛。いつでも戻っておいで……」
 恵は包む様に剛を抱く。
 剛は、恵の抱擁が思ったよりずっと優しく感じられたが――巧みにそのような体温を用意したと思った。その瞬間に血の気が引いた――俺は凜に、このように偽造したものは何一つなかった――俺が恵にしたことも、恵が俺にすることもガラクタ、虚仮、似非の類だと思った。
 恵は腕をほどくと、あの頃と同じ顔になっていた――今度は思い出と連続的な恵が「凜と切れたら私だ」と寂し気に言った。
 剛は、心臓が飛び出るほどの恐怖心に駆られた。
「俺は軽率なのだ。きっと、やることなすこと」
「ん? どういう意味だ?」
「すまない。凜が好きだ。もう忘れてくれ」
 剛は、自己嫌悪をぐっとこらえて店を出た――わからないときは、お祈りをしていればいい。そう言ってくれた凜を信じるうちに、もし叶うなら血よりも濃いものを飲み干して、凜に合わせる顔を再構成したいと願う。
 ――帰宅すると、やらねばと思い、自己嫌悪をグッと堪えて凜に電話した。プルル、プルルと鳴る着信音と心臓の鼓動が良い勝負だ。
「明日、携帯電話を買い替える。一緒に来てくれないか」
「え? 一人で買えないの? デートの日と勉強の日を分けようって言った」
「ごめん。その場で新しい連絡先を交換したい」
「う……うん……。わかった。何があったのかわからないけれど、平気だよね?」
「ありがとう」
「……また駅前だね。……午後二時でもいいかな」
「ああ。よろしく頼む」
「……声。どうしたの?」
「声? 何が?」
「……わかった。わかったよ。またね」
 電話がプツリと切れると、剛はどっと疲れが出て、そのままベッドに突っ伏した。
 ――そうやって剛は、翌日曜日は少し無理を言って、凜と携帯ショップに行った。そして、新しい携帯番号をその場で凜に教えた。
 凜は嬉しそうに「顔つきが急に変わったけれど大丈夫?」と尋ねる。
 剛は「一緒に大学に行こう」と意気込みを伝えた。
 店前を通り過ぎる人混みの中に、恋人連れがいる。
 一組、二組、肩寄せ合って歩いて、去って行く。
――俺達も誰かの風景なのだね。なんの変哲もない風景のようにいられたら。
 凜は、
「キスしよう」
 と言って、剛の胸に手を当てる――そのまま顔を近づける。
 突然のことに動じず、剛は唇を重ねた――目をつぶる直前に凜の瞳を見た。黒い真珠のような瞳を――凜は、剛を賢いと言った。確かに、凜と交際する間、頭で解体したものは本当に多かった。
 感情が高ぶって、剛は不覚にも涙を浮かべた。
 凜は指先で剛の目から涙を掬って、笑う。剛は思う――この瞬間の一枚の絵に描かれたような凜の全身を、俺が守り抜けることを、誓いたい。
 剛が、凜を抱き寄せると、凜は驚いた顔をする――俺は今どんな顔をしている? 剛はわからない。
「剛の心にも絆創膏が必要な部分がある」
 凜は、下を向いて、何かに怯えているようにも見えた。
「そんなものはない。凜を守りたい。信じてくれ」
「いいよ、剛。行こう。歩こう」
 そして、二人で抱き合うような距離で、剛は凜と駅まで向かう――俺達は何度でも風景画のように描かれるのだと、剛は心を奮い立たせた。失わない、失うものかと剛は自分に言い聞かせた。
 凜は「一周年のお祝いは何処へ行くの?」と尋ねる。
 剛は「思い切って横浜とか行ってしまおうか、見てみたいな」と答える。
「探検しても仕方が無いよ。……それに、クリスマスはお爺ちゃんに祈りたい」
 剛は、腕にしがみつく凜の指が、いつぞやの牙のような感触に変わって、意味を理解した。
「剛の家に行きたい」
「いいよ」
「何をしても、誰にも言わないで。誰にも見せないことを、するから」
 凜の細い声が、耳の穴をふさいだ。
 凜が何をするというのか、意味は一つしかない。
 二人は足を止めた。
 剛はまるで音のない世界で、「一生一緒にいて欲しい」と呟いた――そもそも血よりも濃いものとは? おそらく一生涯凜を守れなければ、誰もそのように守れないだろう――口から出た言葉に置き去りにされた心の中の少年は冷静にそう思う。
「一生一緒だよ」
 剛は、凜の言葉が、鉄の留め具のようで安心した。
「剛のように強くなりたい。日本人なのに、私を恋人と認めるためにあらゆる努力をする剛のように強くなりたい」
 剛は、ぎりぎりと音を立てるような凜の指先にそっと手を添えた。
「凜は恋人だ。運命の人」
 剛は、言った瞬間に背中に悪寒が走った――背中のぞくぞくとする寒気を堪えた。
「そして俺は日本人だ」
 凜はゆっくりと指の力を抜いて、「私を守る人」と言う。
「そうだ。間違いないから」
 剛は、また背中に体温が戻ってくるのを感じた。
 言葉を無くしたように、二人は佇んでいた。
 周囲の目が恥ずかしくなって、また歩き出すまでの間に、剛は凜の呼吸音をずっと聞いていた。

 ――テレビでは北朝鮮の拉致問題のニュースが絶えなかった。剛と凜にとっては、世間の冷たい目を想像するためにある茨のような報道だ。「相も変わらず嫌なニュースばかりだね」と言い合った。
 剛は、勉強も、必死で取り組んだ。独りで参考書や問題集に立ち向かっている無味乾燥な時間――孤独が、失って落ちる地獄だと思い込むのに、剛には丁度良かったのだ。
 ――十二月に入って、学業も軌道に乗り始めた頃。
 剛の携帯電話が鳴った――十日、火曜日の放課後。太田からだ。太田から電話がくるなんて珍しいと思い、剛は受電する。
「悪い、剛。捕まった。剛の元カノだ。男もいる。剛を呼び出せって言われた」
「恵か?」
「ああ、そう言っていた。すまない、抵抗したのだが及ばなかった」
「どこにいる? 行けば明弘は解放されるのか?」
「浦和駅東口だ」
 剛は、まだ校内にいたから即座に現場に向かった。自転車で十五分の距離を猛烈な速度で移動した。剛が浦和駅に着くと、太田は、説明した――学校帰りに喧嘩を売られて、対抗したら殴打されたという。それが恵と連れの男だ。
 恵は、得意げに説明する。恵は、調べ上げていた。凜のことも、友達の太田のことも。今日は、どちらかと遭遇する可能性の高いという理由で、浦和駅で張り込んでいた。剛と凜がデートで来るかもしれない、凜が一人の下校中に通過するかもしれない、太田も下校中にやってくるかもしれない。凜と太田は浦和駅が自宅の最寄りだ。
「出来ればデート中を襲撃したかったが仕方がない。今日が何の日か知っているか?」
 恵は悪びれる様子もない。
 剛は、凜との関係をきちんと説明しようと思った。だから丁寧に一問一答に付き合う。
「大湯祭だ」
「一昨年行った時、私と腕組んで歩いたよな。あれはなんだ?」
「恵が彼女だったからだ」
 恵は、まるでわさびが鼻につんと来たような顔をした。
「凜という女はクリスチャンなのだろ? 大湯祭に行かない。剛は大湯祭が大好きだろう。小四まで大宮に住んでいたからな。私は、小五になって東小に転校した剛のこと、同じクラスでずっといいなと思っていたのだ。中三になって、勇気を出して告白したら……。剛は何て言った?」
「俺も前から好きだった」
「剛。今日だけ昔に戻れ」
「それはできない」
「お前、拉致されるぞ!」
 恵は、唐突に拉致問題に話題を移す。
 その声は震えている。
 剛は、その手のやり取りは学校で散々やった後だと思う。しかし、恵の剣幕に押される。
「凜の親族に北朝鮮に永住帰国した奴はいないか? そいつが手紙を書いたから受け取ってくれと言って、在日の家に上がり込むのがスパイの常套手段だ。拉致被害に遭っても日本の警察は犯人逮捕や家宅捜索といった強制捜査は一切しない。被害者が、『北朝鮮に憧れていた』とか突拍子もない理由で、自分の意思で渡航した可能性があるからだ」
 恵の声は震えていた。
「剛。在日の恋人のいるお前なんてうってつけじゃないか! 警察はきっと『凜の故郷を一目見たかったのだろう』と言って、お前を一切探さないぞ!」
 恵は目に涙を浮かべながら、さらに叫んだ。
「『陳情』ってな! 杓子定規な話しぶりの役人の所へ『助けてください』と何度も足を運ぶのだよ、拉致被害者の家族は! 剛の家もそうなるのだよ! 別れろよ! 拉致は究極の人権侵害だなんてコメントがあったけどな! 拉致が人権侵害なら凜の暮らしはなんだ? 何一つ失っていないだろうが!」
 恵は泣いていた。大粒の涙を流していた。
「剛にもしものことがあっても嫌だ! 剛が綺麗事で終わらせる奴になるのも嫌だ! でも私に義理立てして帰って来るなら別だ! だから今日は私の恋人になれ!」
「それに……氷川さんが守ってくれるように! な! 私が柏手を打ってやるから!」
――俺は薄情だ。きっと、物凄く。
 剛は、涙を流す恵を、今度は自分の意思で抱き寄せた。そうすることを、誰に命じられるでもなく、善悪も判断せず。恵の気持ちには答えられない――それでも剛は、恵に「お祭りに行こう」と言った。
「恵。俺は嘘をついたまま時を貪っていた。今は、凜が大好きだ」
「結婚しろ」
「結婚?」
「私と結婚するか!」
 ――そして、恵と氷川神社にいった。恵から、この二年間のことを、何もかも聞かされた。付き合った一年と、別れてからの一年を。
「剛は勉強できるのに、私と同じ匂いがした。けれど剛は、そんな自分を知らずに浅薄なところがある。やっぱり勉強のできる奴だと思って嫌だったけれど、私はお前の匂いが恋しかったぞ」
 剛は、恵の感情を飲み干していくことを厭わなかった――何一つ、お返しなどできないと思いつつ。
 恵は、中学時代の同級生の話をよくする。
 この日、恵が口にする友人の名前はとにかく中学時代の旧友が多かった。それは、共通の知人の話題をしているからかもしれないが――剛は、熱量を持って過去を振り返ることが出来ず、会話に少しついていけなかった。
 剛は、中学三年生の頃の教室を徒に思い出して心を癒そうとは思わない――前に進みたいと思う気持ちがあるからだ。恵は、それを失っているのだろうか。
「恵は、高校を卒業したらどうするのか? 進路はもう決めたのか?」
「私は就職する。今、アルバイトしているスーパーにそのまま就職する。声を掛けて貰えたのだ」
 出店の屋台で一緒に戯れているとき、剛は、何もかも思い出した。恵は劣等感がない。かといって、人の座りたい椅子に座るような人でもない。互いの匂いを嗅いで付き合っていた時間が蘇る――俺達は確かに惹かれ合い、互いを求めた。
「恵。俺は、物に喩えて言うなら三角定規のようだ」
「ん? 私がそんなことを言ったか?」
「言っていない。俺がそう思っただけだ」
「あれか、三辺の長さがどうとか。剛が、計算得意だった」
「それは三平方の定理だ。懐かしいな。あんな問題が解ければ優秀だと言われた頃が」
 恵は、ムスッとして、「勉強の話をするな」と言った。
――帰りの電車の中でも、ずっと話していた。恵は、高校を卒業したら就職するという。思い出より、将来の話をするようになって、剛は「恵に会えてよかったよ」と呟く。
「凜に電話しろ、呼び出せよ」
「どうしてだ?」
「まだわかんないのかよ!」
「許してくれ。恵が思い描くようには、たぶんならない」
「じゃあ神社で結婚したのは私だ! で、今日で離婚な! 明日から凜を大切にしろ!」
 冗談のような恵の言葉が、剛の胸を掻きむしった。
 剛は、恵と、まるでお別れの時を刻むように言葉を交わす。
「すまない、恵。次の北浦和駅で、恵が降りたら、俺達はもう会うことはない。俺は、凜と支え合う。俺は努力した。凜は、受け取るだけでなく、俺の中まで入って努力を認めた」
 剛は、語った――十年、二十年経って、人や社会の考え方が変わって、俺と凜の関係を見る目が変わったとして――それは人の当たり前の感情、優しさ、思いやり、感謝の気持ちが、何にも覆われず曝け出されたからかもしれない。けれど相変わらず差別や偏見で覆われているだけかもしれない。別の国の人、別の民族の人達を標的とした心無い言葉に、取って代わられただけだとしたら、俺は喜べない。そこには拉致問題然り、悲しいニュースがあるかもしれないけれど……。
「けれど、恵、聞いてくれ。罪を認めることで、道が開ける。第二次世界大戦然り、差別発言然り、拉致問題然り」
「剛は戦争が憎いか?」
「そうだよ」
「戦争が憎いなんて当たり前のことだ。誰も戦争に行きたくない。昔の人だよ、戦争をしたのは。剛は、間違った国の代わりに償うのだな。殊勝なことだ。そのスケールのまま大人になったらいい。私なんて、お門違いだったような人物になってしまえばいいだろう。だから……」
「だから、なんだ?」
 まるで季節外れの黒いアゲハ蝶のように。
 剛と恵は、最後にゆっくりと羽根を閉じるように、互いの顔を重ねた。
「私は私のために手放す」
 恵は、そう言うと北浦和駅で降りた。
 剛は自転車を止めた浦和駅まで乗った。恵が置いて行った体温を隣に座らせたまま、一駅だけ電車に乗っていた。
「俺は決めた。凜とどこまでも付き合い切る。凜が憎むときは俺も憎む。凜が祈るときは俺も祈る」

 恵と会った翌日――。
 別所沼公園で、口実などなくても会ってくれる凜の声を聞いた。
 何事もなかったかのように受け入れる凜を見て、自分を責めた。
「クリスマスはイブに会いたいと言ったのを覚えているか?」
 凜は、はにかんだ笑いで答える。
「覚えているよ」
「あれは訂正する。去年と同じがいい。一緒に凜のお爺ちゃんに祈ろう」
「どうして?」
「天国にいる凜のお爺ちゃんに、挨拶させてほしい。……将来は、凜のお父さんみたいにITに進もうかな。凜を守る人を見習って、俺も大人になる」
 剛は、照れくさそうに打ち明けた。大学生になる時には、将来の野望くらい手に持って前に進もうと。それは黒川や栗山が教えてくれたものだ。
「子どものうちから、凜という運命の人に出会った俺は、怖いくらい幸福なのだ。幸せを、まず凜と、そして人と、分け合うような人物になりたい」
 今度は凜が照れくさそうにした。
「去年、クリスマスに一緒に教会に行ったことを楓に言ったら、『教会に行ったの? えーっ!』と驚かれたよ」
「楓って?」
「剛が最初に口説いた友達だよ。背の高い」
 凜は自分で言って、はっはっはと笑った。
「ああ。ずっと不安だったな。私は可愛い、可愛いって言い聞かせてここまで来た。剛は可愛い子を見る目で私を見るから頑張れた。あの頃が懐かしいな」
「よせよ。そういうことを思い出すの」
「楓には、とても力になって貰えた。クラスの人に『コリアンです』と打ち明ける勇気を持てたのは、楓のおかげだったな。同じクラスの仲間から差別されると思っていないでと言われて、助けて貰えたの」
「そうだったのか。俺達は、まだ一年だ。頑張ろうぜ」
 剛が言い終わると、凜はポンと軽く剛の頭を叩いた。
 剛は、無言で凜の肩を抱いた。
 重なる胸が呼吸する。
「剛といると、何も怖くないのよ」
 ――剛はそのまま全身全霊の祈りを捧げた――こんな日を何度でも繰り返して、俺達は未来へ行く。

 凜のお爺さん
 園田剛です
 日本が戦争をする時代が終わったことを証明させてください
 世界で戦争がなくなるように努力することを認めてください
 
 剛は、教会の鐘の音のような凜の心音を聴き、凜の微笑みを百万回数える未来を祈った。
 ――未来に連れて行ける人を、たった一人、剛は選んだ。
 剛の願いは虚しく、二〇〇三年三月にイラク戦争が起きる。日本では、拉致問題の解決に乗り出した権力が、今度は戦争を肯定して見せた――世界は戦争をやめない。地球の何処かで絶えず起きている争いを、人類がついに放棄する瞬間を、共に見届けることができたら。
 二人は、その後も混沌とする社会変動のなかで沈黙を選んだ。「沈黙とは、既に排除だ」という考え方を、剛は肯定する。それでも、互いの愛情を守る道を歩んで、沈黙していた。外国人管理制度、ヘイトスピーチ、フェイクニュース、そういったものに対して沈黙を貫いて自分達を守った。
 ――剛は、天を仰ぐ。
 まるで青空に貼られたようなクルディスタンの国旗が見事だ。
「そうだよな、お前らだって信じる国旗があるよな。そのうえで、日本列島に住む人達は皆、日本人も外国人も、同じであるべきなのだ。意思疎通のできる者同士でコミュニティが出来ても、そこに国籍を貼り付けて日本と分離すべきではない。狭い意味の日本――日本人しかいない日本を、日本の中に作るべきではない。凜のお爺ちゃんと約束したからな、凜を守ることも、狭い意味の日本を終わらせて日本列島をサラダボウルにすることも」
 剛は、踊る朱里を見て思った――剛は「俺は日本人です」と、ことさらそんな言葉を話そうとは思わない。凜の一家から見たら間違いなく日本人であることを、あえて強調しようとは思わない。しかし偽ることの許されない国籍である。日頃の生活の中でその恩恵を受けるプロフィールに違いない。そして朱里に至っては「私は日本人です」と言う。ただし、それらは凜への裏切りではない。たとえば良心は自由であるべきだ、そのうえで親とは教育する立場だ――学校で国旗や国歌を「敬え」と言われて、「いいえ」と言わされる不自由なく育てたかった。それが俺の独善とエゴだとしても――俺は、そういう答えになる男だ。
 剛は「朱里、正解」と言って、シャッターを切った。

【参考文献】
『パチンコ 上』 ミン・ジン・リー (著) 池田 真紀子 (翻訳) 文藝春秋
『パチンコ 下』 ミン・ジン・リー (著) 池田 真紀子 (翻訳) 文藝春秋
『在日コリアンを知るQ&A: 多文化共生への五十五のヒント』 郭 辰雄 (著 編集) 川瀬 俊治 (著 編集)  解放出版社
『アメリカ人宣教師と朝鮮の近代: ミッションスクールの生成と植民地下の葛藤』 李 省展 (著) 社会評論社
『災害と外国人犯罪流言―関東大震災から東日本大震災まで』郭基煥(著) 松籟社
『路上の信仰: 韓国民主化闘争を闘った一牧師の回想』朴 炯圭 (著), 山田 貞夫 (翻訳)  新教出版社
『まんが朝鮮の歴史 十一 朝鮮両班体制の崩壊』 安宇植(翻訳)趙顕祐絵(文)李宰(絵)ポプラ社
『まんが朝鮮の歴史 十二 帝国主義の侵略と近代化への道』 安宇植(翻訳)金成龍(文)李宰(絵)ポプラ社
『まんが朝鮮の歴史 十六 日本の軍国主義体制と独立の準備』 安宇植(翻訳)崔賢淑(文)李宰(絵)ポプラ社
『西洋と朝鮮 異文化の出会いと格闘の歴史』姜在彦 (著)  朝日新聞社
『韓国近現代史 一九〇五年から現代まで』池明観 (著) 明石書店
『植民地朝鮮の宗教と学知: 帝国日本の眼差しの構築』川瀬 貴也 (著) 青弓社
『北東アジアの歴史と朝鮮半島』吉田光男 (著)  放送大学教育振興会
『わかりやすい韓国の歴史 (世界の教科書シリーズ)』三橋ひさ子 (翻訳) 明石書店
『韓国の歴史を知るための六十六章 エリア・スタディーズ』金 両基 (編集) 明石書店
『植民地朝鮮における日本の同化政策 一九一〇―一九四五年』マーク・カプリオ (著) 福井昌子 (翻訳)  CUON
『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』横田 早紀江 (著) 草思社
『これでもシラを切るのか北朝鮮』石高 健次 (著)  幻冬舎
『良心の自由と子どもたち』西原 博史 (著)  岩波書店
『いじめ・レイシズムを乗り越える「道徳」教育』渡辺 雅之 (著) 高文研
「ヘイトスピーチと「傷つきやすさ」の社会学」塩原良和(著)オピニオン
『ネットと愛国』安田浩一 (著)  講談社
「道徳教育を考える」汐見稔幸(著)西日本新聞二〇一三年九月二十四日
『私には浅田先生がいた』康玲子 (著) 三一書房
『わたしもじだいのいちぶです 川崎桜本・ハルモニたちがつづった生活史』康潤伊 (著・ 編集) 鈴木宏子 (著・ 編集) 丹野清人 (著・編集)  日本評論社
『在日コリアンの一〇〇年: 日本と朝鮮半島-歴史の節目に立って 過去、現在、そして未来へ』コリア人権生活協会 (編集)  クリエイツかもがわ

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